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【導入】異世界転生した妹がワンダーウーマンみたいなマッスルボディになって帰ってきたよ

掲載日:2026/01/02

挿絵(By みてみん)


【導入】

異世界転生者・真田明子さん(転生当時12歳)の父、真田幸雄さん(52)が取材に応じた。


「最初のうちは、できることは一通りやりました。転生に関するセミナーにも参加しましたし、転生が起きたとされる現場にも足を運びました。転生を目撃した方々からも、何度も話を聞きました」


 そう語る幸雄さんは、やがて視線を落とし、静かに続けた。


「ですが、次第に分かってくるんです。自分の子どもにだけ奇跡が起こる、そんなことはないんだと」


 異世界転生が社会問題化して数世紀。遺族への偏見の目は今なお、あるという。


「昔は、遺族が転生者を殺した、この世界から追い出した側だとして、殺人犯扱いされることも珍しくありませんでした。その意味では、私はまだ恵まれている方なのかもしれません」


 一方で、精神的な負担は大きかったと語る。


「それでも、何かに縋らずにはいられませんでした。酒や薬にも手を出しましたし、“研究資金”や“調査資金”の名目で、怪しいところに金を払ったことも一度や二度ではありません。これは“町内会”の支援に救われました。今となっては、どれほど騙されたのか、数える気にもなりません」


 幸雄さんは「異世界転生がなければ」と考えない日はないと語る。


 目元には深い隈が残り、白髪の目立つ頭髪と、皺の多いワイシャツからは、長年にわたる心身の疲労がうかがえる。


「妻は、途中からカルトにのめり込み、そのまま家を離れました。娘に帰ってきてほしいと願い続けることにも、正直、疲れてしまいました」


 最後に、幸雄さんは声を絞るように、こう語った。


「ただ一言でいい。“元気にしているよ”――それだけでいいんです。その言葉を、聞きたいだけなんです」


               ───読切新聞・コラムより抜粋


【プロローグ】

 もしも異世界転生に顔があるのなら、後頭部が爆発するくらいにパンチしてやりたい。

 そう強く念じるようになったのは、遠い昔、僕の妹が異世界転生に奪われたからだ。


 八歳の夏。サッカーの練習と友達付き合いに夢中だった僕は、妹の存在を鬱陶しく感じていた。

 僕は進藤蓮、妹は進藤志紀。

 背中を追ってついてくる志紀の面倒を見るのが煩わしく、僕は何度も追い払ったり、撒いたりしていた。


 それでも志紀は、兄である僕から離れようとしなかった。

 いくら煙たがっても、馬鹿正直についてくる妹の素直さや屈託のなさが、かえって僕を苛立たせていた。


「なあ、オレはこれから用事があんだよ! おまえは家で人形遊びでもしてろよ!」

「ちがうもん。お兄ちゃんと一緒の方を歩いてるだけだもん」


 いつも僕の後をついてくる志紀は、僕が何を言っても聞かなかった。


 あの日は、とても暑かった。

 額を流れる汗を拭うこともなく、脇に抱えたサッカーボールの運びにくさも気にならず、友達といつものようにサッカーをするのが待ち遠しかった。


 逸る気持ちのまま歩いていると、横断歩道の信号が点滅していた。

 チャンスだ、と思った。妹が追いつけないタイミングで走り出し、あいつを撒いてやろう。


 僕は赤信号に変わるギリギリで駆け出し、志紀を突き放そうとした。

 いつも、そうしてきた。


 置いていかれた妹は半べそをかいて家に帰り、僕は後で両親にひどく叱られるだろう。

 気にしない。

 この頃の愚かな僕は、両親に怒られることよりも、友達と遊ぶことだけを考えていた。


 信号を渡り切り、振り返ることもなく待ち合わせの場所へ走る僕。

 その弾んでいた心が、背中に突き刺さる急ブレーキの音で、凍りついた。


 後ろを見ると、赤になった信号を構わず走る妹――志紀に、トラックが迫っていた。

 いつもなら赤信号では必ず止まっていたのに、その日はそうしなかった。


 全身が固まり、思考が凍結する。

 僕の足元で、手から滑り落ちたサッカーボールが、ポーンと乾いた音を立てて弾んだ。


 その音でようやく硬直から覚め、動き出した体で妹のもとへ飛び出そうとする。

 間に合うはずもない。


 後で知ったことだが、人間は危機的状況に陥ると、解決策を求めて記憶を超高速で回転させるらしい。

 だが、この頃の自分に、トラックから妹を救う術など、あるはずがなかった。


 どうしようもなく愚かな兄の目の前で、妹は光に包まれた。

 その光は雲を貫き、鋼鉄のトラックの一部を刔り、妹を天へと連れ去っていった。


 妹がどんな表情を浮かべていたのかは、わからない。

 ただ、微かにこちらを呼ぶ声が聞こえた気がした。


 夏の日曜、僕は妹を失った。


 それ以来、僕は弱さを抱えたまま生きている。

 後悔も、愚かさも、妹に振り返らなかった愚かさも、すべて胸の奥で腐り続けている。


 もし異世界転生に顔があるのなら、そいつの後頭部が爆発するまで殴り続けてやりたい。

 妹を奪った理不尽に、救えなかった自分に、何もできなかったあの日の弱さに。

 言葉にならない醜さ、潰れる重さ、全部まとめて叩きつけてやりたい。


 それが、兄として残された僕にできる、たった一つの抵抗だ。

 何も変わらないと、わかっていても。


【一】

 黄金色の爽やかな日差しが差し込んで周囲を暖める。

 異世界転生が当たり前になった現代。

 異世界転生遺族という単語が社会問題化し、そして定着した時代。

 汗を吸って重くなったシャツを、成長した進藤蓮は絞る。

 山の木々が折り重なる狭間に拵えたスペースで、落ちる汗の滝を土が吸う。


 絶好の修行日和だ。

 けれども、妹が異世界に転生してからというもの、雨が降っていても雪が降っていても雷が降っていても何があってもここで修行してきた。


 筋肉は微動だにせず、骨を動かすことで辛うじて歩けるくらいの疲労。

 呼吸をするだけで横隔膜が悲鳴を上げて肋間筋が軋む。


 なんとか汗を拭き、仮設シャワー室でじとっとした体をスッキリさせる。

 特製の栄養剤を摂取し、体を休めて風と朝の湿度に耳を澄ませる。

 肌に当たる木漏れ日が今の時刻を知らせた。

 大量の汗を吸い込んでじっとりと重いシャツと下着を水に漬け、制服に着替えてから早足で山を降りる。


 慣れ親しんだ山道を通ると鹿やリスが追い抜いていった。

 冬眠間近の熊もこちらを見るや逃げて行く。

 自宅の裏にあるこの山で修行し続けてきたおかげで、ここの生き物とは実質的に顔見知りのようなものだ。

 過去に何度も襲われては撃退してきた。


 通学路に出て、学校へ行く。

 学校と言っても、進藤にとってみれば修行の疲れを癒やすためだけの施設だ。

 勉学の成績など、気にする意味が彼にはない。

 ただ習慣として学校に行っているだけだ。

 冬の朝風が首にかかり、少し肌寒く、もう少し厚着すべきだったかと後悔した。


「シンちゃ〜〜ん!」


 学校へと続く歩道を歩いていると、いつもの屈託のない声がした。

 昔の嫌な思い出を刺激するはずだったが、あまり嫌いではない。

 ぶんぶんと手を振り、明るい赤毛の髪を煌めかせ、幼馴染が走ってくる。

 三森茜、蓮の隣に住む同い歳の少女だ。

 両親が家にいないことがほとんどという生活を送る進藤蓮の面倒をまめに見てくれる。

 家事を放棄してきた進藤にとっては、非常にありがたい存在だ。


「おはよ、修行してたんでしょ? 今日も精が出るねえ」


「そうか。お前は今日も騒がしいな」


「シンちゃんが静かすぎるんだよ〜〜!」


 ケタケタと笑って、茜が少年の肩をつついた。

 紙に穴も開けられないくらいの接触。


「うわっ」


 軽く触れただけでも、トレーニングが終わったばかりの蓮は、枯れ木のように倒れた。

 強烈な脱力、体の芯から活力という活力が根こそぎ抜けている。

 この時間帯はいつもこうだった。

 毎日毎日、夜から朝まで体をいじめ抜き、ほんの少し遺った力でなんとか生活を送っているのが、進藤蓮の日常だ。

 学校に行く意味がない。学校に行っても大半の時間はペンすら満足に動かせない有り様だ。


「ありゃりゃ、相変わらずへにゃへにゃだねえ」


「わかってるんだから、不用意に触るなよ」


「えー、仲良くしようよ〜」


 不満そうに言いながら、転んだ蓮を茜が起こした。

 茜の言葉を借りれば、朝から夕方までは、いつもへにゃへにゃなのが進藤蓮だ。

 茜もそのことは承知した上で迫ってくるが、かといって進藤は彼女を責める気はない。


 認めたくはないが、彼女の明るさ、朗らかさに毎日触れることで、妹を喪い、天涯孤独同然の身の上である進藤蓮の心は確かに安らいでいる。 

 本人にそのことを伝える気はなくても三森茜と登校する朝を進藤は好んでいた。


「疲れてヘトヘトなんだよ。もう駄目だ、寝る」


 そう言って意識を手放そうとする進藤の頭を茜が揺さぶる。

 体も意識もギリギリな少年は、三森茜の叱咤と見張りがなければ、学校に行かずに眠りに落ちてしまう。


「今日、一限から体育だよ?」


「隅っこに立って乗り切る」


 いつも疲れてはいるのだが、今日はとりわけだ。

 長年の日課が決して取れない過労を、全身の関節に粘土のように詰まっている。

 いつだって今日が一番疲れている日。進藤にとってのスローガンだ。


「シンちゃぁん」


 口をすぼめて、幼馴染が不平そうにした。

 表情を変えることがなくなった進藤の代わりに、三森茜の表情はコロコロ変わる。

 それを見ているだけで、少年の眠気が少しマシになった。


「おはよう! 今日も異世界転生に気をつけて! トラックには近づかないようにね?」


「はい!」


 “町内会”の腕章をつけた老人が挨拶してきた。

 疲れて声を張れない少年の代わりに少女が挨拶を返した。

 元気が良く、はきはきとした返事だ。


 彼らが所属する団体の正式名称は《異世界転生町内会》。異世界転生遺族が設立した相互扶助団体NGOだ。

 普段から異世界転生に繋がることに目を光らせ、少しでも家族を奪われる人を減らそうという活動をしている。

 何度か勧誘されたが、多くの構成員と同じく異世界転生遺族である少年は所属していない。

 活動そのものには賛同しているし、尊敬もしている。


 しかし、彼らの活動ではいつもいつも心に燃え盛って勢いを弱めない怒りに対処できないと思っていた。


「……あの人達、ちょっとした相談にも乗ってくれるってね」


「異世界転生者も遺族も精神衰弱者が多いからな」


 自分で言って、全身を抉る激痛が生じた。遺族。虫酸が走る言葉だ。

 兄の自分が殺したようなものだろう。

 異世界転生をする者は、家族・学校・職場での人間関係に問題を抱えている可能性が高い。

 だから、彼らは様々な人々の心の悩みも引き受けようとしているわけだ。 


「いらない。心が参っているのは体が参ってるからだ。体育の時間に寝たらすぐ元気になる」


「ダメだよそんなんじゃあ。体育はね、誰かと一緒に体を動かすのが大事なの。運動が得意な人、不得意な人、その種目に向いていない人、向いている人が一緒にやることで誰かと協力することの良さをわかっていくの」


 三森茜はよくこんな風にちょっとしたことに対しての自分の考えをつらつら語る。

 こいつは、説教している相手がクラスに友達がいないのを知らないのだろうかと霞んだ意識の中で訝しんだ。


 反論する元気もない進藤は黙って聞く。

 言いたいことが浮かびはするが、進藤は彼女を通して日常がどんなものかを見てきた。

 冬にさしかかり、葉が失せた痩せた木々の下を歩く。


 話すのはいつも茜からで、進藤は聞くのみ。

 肌寒い中で、誰かと並んで、車の通りが少ない時間に学校へ行く。

 後ろに進藤蓮を追いかける誰かはいない。


 あの日とは正反対の景色だ。

 だからどうということはない、蓮がそう感じただけ。

 嫌になる。ずうっと、何を見ても異世界転生と結びつけて考えて、感じてしまう。


「おじさんとおばさんは……帰ってくる?」


「さあ」


 そっけない返事だが、少女は何かを考え込んでいた。

 進藤蓮は両親と不仲というわけではない。

 顔を合わせれば近況を報告しあうし、世間話もする。


 ただ、父も母も忙しくて家にいることがほとんどない。

 その傾向は妹が消えてからさらに強くなった。


 異世界転生の原因を進藤蓮に求め、内心は会いたくないのだろうと少年は解釈している。


 そして、それに異論はない。


 娘を死なせた人間なんて、それが家族だろうと憎いに決まっている。

 顔も見たくないだろう。


 当人だって同じことを思っているのだから仕方がない。


 ──自分に力があったら、異世界転生から妹を守れた。


 少しでもあの過去から離れるために、進藤は日々、過酷な修行を自身に課してきたのだ。

 妹をトラックから守れる力があれば、トラックを壊せる力があれば……その強迫観念に駆られ、肉体を叩いてへし折って砕き続けている。

 幼馴染の茜に苦労をかけているのは、少年も自覚していた。


 ──はじめまして。“町内会”の人に紹介されたの。三森茜です。引っ越してばかりで友達がいないの。遊んでくれる?

 彼女と初めて会った時のことを思い出す。

 引っ越したばかりだが、心細さはなく、荒んで弱っていた少年に躊躇うことなく声をかけてくれた。

 あの出会いがなかったら少年は二度と立てなかっただろう。

 だが、立てただけで満足はできない。


「でも……そうだ。妹を泣かせたままだなんて、兄失格だ」


 口をついた言葉。聞かなかったことにしてもらえた。

 家が隣同士だからというだけで、妹が異世界転生してからずっと塞ぎ込んでいた蓮を、茜はずっと気にかけてくれていた。

 心の中には、そんな彼女に報いたい気持ちがある。


「もっと貴方の心に触れて、癒せたらいいのに」


 そんな茜の呟きは聴こえないふりをする。

 しかし、何をするにも、どうするにも、目を閉じるだけで浮かんでくる妹の最後が、蓮の心を、体を、過去に引っ張って離さない。

 そんな己をどうにかしたいと少年は思っているが、どうすればいいのかがわからない。

 過去に戻れたら、絶対に異世界転生を破壊してみせるのに、と進藤は考えていた。


「じゃあいつもみたいに楽しいこと話そっか!」


「…………なんのことだよ」


 沈んだ気分に浸っていた、酔っていたのを邪魔され、ムッとする。

 この人生に楽しいことなんて許されない。


「またまったあ」


 ニヤニヤして三森茜が首元をくすぐってきたので思わず逃げようとするが上手く行かない。

 されるがままになると、どうしても口元が緩む。

 強制的にでも心を許した相手にそうされると、落ち込んだ心が上向いてくる。


「ほら今日の修行はどうだった?」


「ああ、今日はさ、ためしにドラゴン相手のイメージトレーニングってのをしてみたんだ。ドラゴンっつうと鱗がクソ硬いらしいからどれくらいかわかんないけど、何事も経験だ。巨

 大なヤツ相手の戦いってのもやってみようと思ったわけ。で、やってみるとマジで大変でさあ。空を飛ばれると本当に太刀打ち行かない。どうにかジャンプする方法がないもんかなあ」


 ぶっきらぼうなことしか言わなかったのとは様子が様変わりした進藤が、修行の様子をまくし立てる。


「とりあえず試みたのは炎をパンチの風圧で掻き消すことだ。

 そうすると気流が乱れるから、相手を落とせる。

 そして少しでも落ちたところを射抜くために、一撃を放つタイミングを見極める速度を高める! 

 終わり際には俺の動体視力が0.000001秒分向上した気がする。

 これは偉大なる一歩だ。異世界転生をぶちのめす日も近いぜ!!」


 瞳をギラつかせ、物騒な話をまくし立てる少年。

 聞いている幼馴染は話を遮ることをしない。


「良かったねえ」


 そうだけ言って笑顔を崩さずに話を聞く。

 進藤蓮はほとんど無趣味、無感動の人間だが、ただ1つだけ強い感情を向ける事柄がある。


 それは己のトレーニングとその成果についてだ。

 妹が消えてからというもの、ひたすら力を求めてきた進藤は、起きても寝てても死にかけていても修行のことを考え続ける立派な苦難中毒者ハードシップホリックだ。

 過酷な訓練と環境を愛し、それへの感想と成長はいくらでも語れる。

 通常の者なら敬遠してしまう悪癖だったが、三森だけはいつも喜んで聞いてくれた。


「それで今度はいっそ、口からレーザービームを放ってマッハ10で飛ぶ天使ってのと戦ってみようかなって……」


 指を振りながら鼻をふくらませながら語るこれから展望は最後までは続かない。

 トラックのエンジンのような音が、曲がり角から響いてきた。


 一瞬、心臓がぎゅっと締まり、すぐに元に戻った。

 単純なトラックのエンジンの音。珍しくもない。それなのに、まだ反応してしまう。

 昔はトラックという単語そのものに過剰反応して取り乱していた。

 異世界転生遺族にありがちな心的外傷らしい。


 原因は解明されていないが、異世界転生者は直前にトラック事故に遭うことが非常に多い。

 トラックの運転手はいない。どこかからトラックが出て来て異世界転生する者を轢こうとするのだ。


 実際に轢くことはないのに奇妙なものだが、なんらかの儀式だと推測されていた。

 いつもはトラックが来ようとも気にしないフリをして歩みを再開する。


 そこに湿った響きも混じっていたことが、並んで歩く二人にただ事ではない印象を与えた。


 音には迫力があった。

 止まれの標識が、音の主のプレッシャーに震えているように見えた。

 大型トラックのエンジン音と聞き間違えるそれは、よく聴けば唸り声のそれだった。

 野生動物、少なくとも進藤が知るどの動物でもない。


 状況はわからなくても、危険時の動きは進藤の体の底にまで染み付いている。

 茜の前に立ち、両脚を前後に開き、何が来ても対応できるようにしておく。

 山から熊が下りてきたにしては鳴き声から察する体躯が大きすぎる。

 まずは顔だけがぬっと突き出た。巨大な雄牛の頭部、頭の位置は3メートルの高さ。

 絶対に牛ではない、牛にしても新種の何かだ。


「えぇっ…………!?」


 ありったけ目を見開いた三森が口を手で抑えて後ずさった。

 存在レベルでわかる、この世界にはいない生き物。

 足を踏み出せば、道路が凹むような威圧感。


 加えて、その生き物は、進藤蓮と三森茜に対して敵意を持っていた。

 牛頭が、獲物を握り直し、鼻息荒くこちらを睨みつけてくる。

 筋肉が膨張しては収縮し、血管が浮かび上がった状態で泊まる。

 力みを解放するタイミングを見計らっているのがわかった。

 この世界の生き物ではない。


「モンスター!」

 興奮に目を輝かせた進藤蓮が叫んだ。

 日常から非日常への転換。

 危険どころではない、命がかかった緊急事態だ。

 そう判断して蓮は丹田に込めた力を増幅させんとする。 

 拳闘士の裡に湧き上がるのは恐怖ではなく、闘志。

 頭は覚醒し、血が音を立てて沸騰するほどに燃え上がる。

 たとえ、今の自分に勝ち目がなくとも。

 右手を丹田に添え、左手を顎の高さにあげる。

「茜、ここから逃げろ!」

「えっ、でも……」

 命の危機において理性で最適解を選べる人はいない。

 生命を奪いせしめるものというのは、それが特定の意思によるものだろうとそうでなかろうと、自然災害めいているものだ。

 日常を送る人の領域にない出来事、それならば身を縮めて全てが過ぎるのを待つ。

 それも立派な生き物としての生存戦略。

 しかし、進藤蓮は妹を喪ってからというもの、ずっとあらゆる状況も打破するための力を求めてきた。

 今の彼なら生命の危機でも、理性を持って動くことができる。

 なぜなら、鍛えてきたからだ。

 一瞬も気を緩めることなく。


「少しでも遠くに……交番を目指せ! 後で迎えに行くから!!」


 茜が動いた気配はない。

 足が竦んでしまったのか、蓮を心配していてその場に留まる気なのか。

 いっそ蹴り飛ばそうかと考えたが、修行直後で全身の力が無くなっている進藤には少しの消費も命取りであり、加えて相手にどんな隙も見せられる状況ではない。

 蓮はすでに意識を前方に向け、戦闘態勢に入っている。


「よおし、なんでか知らないがついに来たな…………異世界!!」


 口元に大きな笑みを浮かべ、進藤蓮は叫んだ。

 丹田に氣を練り、全身を爆発に向けて脱力させ、心を鎮めるが、湧き上がる高揚を抑えられない。


「ついに来た。ついに来たんだ、修行を活かす機会が!! ずっと縁がなかったらどうしようと思ってたぞ、この野郎め!!」


 口元が上に歪んで、ついには満面の笑みになる。

 今この瞬間、異世界に纏わるモノに出会ったことで、危機だの死だのを超えた歓びが少年の全身を燃やしているのだ。


「……変態」


 危機が迫っているにも関わらずドン引きした茜の声が聴こえてくる。

 だが無理もないだろう。進藤蓮は普通の同年代が味わう楽しみの一切を知らずにこれまでひたすら鍛えてきたのだ。


 いつかは異世界相手に全力でパンチをしたいと思っていた。

 何年も熟成させてきた自分への憎しみ、嫌悪、侮蔑、後悔、怒り……それらを纏めればシンプルに“自傷欲求”、“自殺衝動”とも言い換えられる。

 決して発散されなかった昏い感情も、修行の成果を試すのと一緒に少しでも解消できる。

 様子は“陽”でも、彼の中には明るい感情と粘つく汚泥の暗さが同居し、乱舞していた。


「クソッ、疲れで目が霞んできやがった。なんでこんな時に出会ったんだ! 死ぬにしても全力出して死にたいけど、いいや。殴れるならいいや!! 楽しみでしょうがないぞ!!!!!」


 ようやく積年の恨みをぶつけられる。そして、死ねる。

 満面の笑みで進藤蓮は攻撃に意識を集中させる。

 眼球の毛細血管が千切れかける程の過集中。それによって敵の呼吸、収縮する筋肉、視線の変遷も把握可能だ。

 疲労困憊の状況でこれらを成すのは失神してもおかしくないが、進藤は必死に意識を繋ぎ止めた。

 普通ならばどうやっても勝てないシチュエーション、コンディション。


 だが、彼は“不可能を可能にする”というシンプルかつ究極の難度を達成するためにひたすら鍛えてきた。

 その修行方法もそのまま“不可能を一つずつ可能にする”という単純明快なもの。

 そして、事実として彼はこれまでの修行で課された全ての不可能を踏破している。


 客観的には勝てなくとも、勝てないと認める気は毛頭ない。

 狙うは右腕で突くことだけ。

 ハズレたら茜もろともに死ぬ。


 修行と同じことだが、怪物との実戦経験は0。それでも──


「ぶもぉぉぉぉぉ!!!」


 興奮に今でも先走らんとする体を抑える。

 少年の体、心、その根幹の最奥に根ざし、繰り返される絶望と後悔と憎悪に揉まれてぐじゅぐじゅとなった感情。

 腐った果実の如く熟れていた膿そのものな暗黒。

 それが意志をもって暴走しようとしている。

 衝動に呑まれれば殴ることさえできずに死ぬ。それくらいの判断はできる。


 だが、堪えるのは至難の業。

 あと少しで解放のカタルシスを迎えられる予感があった。

 葛藤する少年に、牛頭が全身を見せた瞬間。

 一息によって絶命させる攻撃、それを即座に繰り出すよう、意識を練り上げ、集中させる。

 その思考も牛頭の棍棒が阻害した。

 風圧だけで蓮は飛ばされ、茜からも離れたところに転がる。


 常の蓮なら、鍛え抜いた体に棍棒が直撃しても平気だろう。

 しかし、修行明けの体は、子供と相撲をとっても負けるくらいに衰弱している。

 自分の死は、この非現実的な牛頭の出現により、完全に決まったと蓮は判断。

 ならば最優先に考えることは如何に茜を逃がすかだが……


 牛頭は突然に力を失ってよろけ、倒れた。

 背中側から腹部に向かって孔がボーリングのボールほどの孔が空いていた。

 倒れた怪物の体をよく見ると、背を伸ばせば3mどころか5mにも届くだろう、とても大柄な人間のものをしている。

 興奮しすぎて思いつきもしなかったが、どう見ても妄想での対戦相手に繰り返し指定した存在と酷似している。

 物語によくる怪物に酷似した外見だ。


 名前はたしか──


「ミノタウロス」


「それは誤り」


 凛とした力強い声がした。

 その場で巨大な地震が起きた錯覚がした。

 なにか、世界をひっくり返すものが地中奥深くを潜って這っているかのような。

 その感覚、錯覚は予感だったのか。

 巨大な戦斧を担いだ二十代半ばの美女が出てきた。

 美女、という言葉では足りない美しさだ。


 全身を金剛石よりも硬い筋肉で包み、とりわけ、広背筋にいたっては板チョコを思わせる甘美なものに仕上がっている。

 長い黒髪は絹のような柔らかさで、そこに乗った王冠が、女性を一層高貴な存在にしていた。

 並の審美眼を持つのであれば、万物がこの美しさにひれ伏すべきだと判断するに違いない。

 少なくとも、進藤蓮はそう確信する。

 これは存在だけで巨大地震が起きたと勘違いしようものだ。


「こいつは、ヒポタウロス。亡国ヒポシネスを支配していた恐るべき魔獣」


「お前は……?」


 異世界の出現で鎌首もたげていた少年の激情は、謎の美女が現れたことで沈静化している。

 そうだ。その女は絵にも描けないほどに美しかった。


「そ、そうだ……誰だお前は!! 新手だっていうなら、この俺が相手になるぞ」


 あまりの美しさに目を奪われていた蓮が、立ち直って警戒を強めた。

 警戒を強めても、今の彼にできることは攻撃を引き受けて死ぬくらいのもの。

 それができるなら上等ですらあった。


 だが少年の思考に“不可能だから受け入れる”というワードはない。

 少しでもそれを脳内から駆逐するのが修行ですらあった。

 早死にするしかないスタンスだが、そうしなければ至れない強さがあった。

 女が巨大な斧を振るうと、こびりついた血と脂が焼き消えた。

 牛頭の登場では凍ったように動かなかった茜が、息を呑むのが聞こえる。


「……覚えていないのね。当然だけれども」


 形の良い眉を歪ませて、女は苦笑いを浮かべる。

 美女は困っていても美女なのだと、進藤は初めて実感した。

 ヒポタウロスが倒れると、今度は猫の姿をした獣人が現れた。

 目を赤く光らせ、爪を鋭く尖らせて獰猛な息を吐いている。

 正気ではなく、善きものにも見えない。

 その数がおよそ十。

 今の進藤にはどうやっても無理な数だ。


「おい不味いぞ!」


「任せて」


 突然に現れた美女が少年に背を向け、怪物達に向かい合う。

 その背中は板チョコの広背筋。

 巨大な戦斧に見合わぬ、勇猛さと剛毅さ、そして美麗さをもった戦士の背中。

 猫のしなやかな筋肉が共通しているのだろう。

 獣と人の融合体のような者達が、重力を感じさせない軽やかさを振るい、俊敏に横飛を繰り返す。

 統制はされていないが、かといって素早く動くことで互いにぶつかるような愚を犯すこともない。

 一斉に飛びかかってくる怪物の群れに、女は横たわるヒポタウロスの亡骸を蹴り上げて、肩で押し出した。


 巨大な牛の体躯によって進行方向を阻害された猫の怪物が、けたたましい鳴き声を発す。

 女は両足を開いて、戦斧に渾身の力を込めて、斧を一薙ぎ。

 局地的な炎の嵐がその場に起こり、進藤は腕を掲げて顔を守る。

 圧倒的な力と質量により、怪物達は亡骸も含めて血煙と灰に変わった。

 突如として現れた怪物という非日常は、同じく突如として現れた長身巨躯の美しき女戦士によって呆気なく滅ぼされた。


 だが、特筆すべきは物語においてのみ存在していた“怪物を狩る女戦士”の放つ美しさ。

 鍛えた技、鍛えた筋肉によって、無骨な武器を持って邪悪な怪物達を屠る様というのは、実際に見て初めてわかる、機能美の極限にあった。

 選ばれし者がそこにいるという確信を抱かせた。

 驚異の存在に心胆が屈服した故の恐怖による無言ではなく、信じられない美に出会ったことで言葉を失っていた進藤が、ようやく言葉を絞り出した。


「お前は……誰なんだ?」


「わたしは戦連国ドミネイアが筆頭姫戦士のシキ」


 担いでいた戦斧を地面に降ろし、美女は告げた。


「この世界での名前は────進藤志紀よ」


 出てきた名前は、一番予想外のもの。

 異世界転生した妹と同じ名前。しかし、その名を背負うには大きすぎる、美しすぎる、筋肉すぎる。

 耳を疑って反応できない。


 一方、妹の名前を口にした当の成人女性の全身が震えた。

 だんだんとその場に足踏みをしている。突進しようとする闘牛のようだ。

 どうかしたのかと思いきや、顔一面に笑顔を浮かべた。

 凛、という一字が似合う立ち姿から大型の犬のような人懐っこさが出てきた。

 そうして、進藤蓮を抱きしめて持ち上げた。


「久しぶり、兄さん!!」


 初対面とはまるで違う、屈託のない振る舞い。

 頬を強く擦り寄せて激しい摩擦によって、顔から湯気が出そうになる。

 蓮の弛緩した全身に鼻をくっつけて、くまなく吸い上げる。


「あああああああぬくい!!!! 温かい!!! なのに殺しに来ない!!!! なにこれ最高〜〜〜〜!! ヌクヌク〜〜〜〜!!」


 板チョコの広背筋を持つ、暴力的にエネルギッシュな女性に全力で抱きしめられ、緊張が解けた少年の意識が刈り取られていく。


 相手に何かを訴える時間も力もなく、進藤蓮は気絶した。



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