困惑と異世界
本編1章6話です
よくぞ……ここまで!
1章6話
―― 世界の色が変わった。
夕焼けのオレンジが急速に薄れ、
吹き抜けていた風が止まる。
音が、まるで誰かに奪われたように消えた。
「なぁ、冷夏」
「うん、わかる。...動いたら“何か”が起こる」
呼吸が合う。鼓動がシンクロする。
冷夏が日傘を握りしめ、俺は自然にその手を取った。
「離れるな」
「...うん」
「俺が合図する。せーので踏み込むぞ」
「わかった...」
深呼吸。
肺の奥に溜まる空気が、やけに重く感じた。
「行くぞ――せーのっ!」
二人の足が同時に地を踏む。
――瞬間、世界がひっくり返った。
重力が反転したような浮遊感。
空気が一瞬にして重くまとわりつき、
視界が滲む。
夕暮れの金木犀色が消え、代わりに――青。
鐘の音。
香草と金属の匂いが鼻腔を刺した。
パッと視界が晴れ、俺たちは息をのんだ。
足元のアスファルトは、いつの間にか石畳。
空は雲ひとつない、真昼の青。
「……え、なに、今……?」
「落ち着け。動くな」
反射的に冷夏の肩を引き寄せ、周囲を見渡す。
狭い路地裏。
その先には石造りの建物と尖った屋根、馬車、露店。
焼き菓子の匂いが風に混じり、知らない言葉が飛び交っていた。
夢じゃない。五感のすべてが“現実だ”と訴えてくる。
俺の手を握る冷夏の指が震えていた。
その体温が確かに感じられて、ほんの少しだけ安心する。
――だが、今は感傷に浸っている場合じゃない。
周囲の治安、状況、言語、文明レベル。すべて未知数だ。
「……とりあえず、持ち物を確認するぞ」
カバンを開く。
各教科の教科書とノート、筆箱、水筒。
見事に“学生”の荷物だ。今の状況では心もとない。
「ハル、なんかすごく真面目でつまんない中身だね……」
「文句言うな。準備無しでこれなら上出来だ。」
冷夏も自分のカバンを覗き込む。
ルーズリーフの束、ファイル、筆箱、ハンカチ、絆創膏などが入ったポーチ、そしてスナック菓子。
「ほら、お菓子あるし! とりあえず観光でもしよーよ!」
「やめとけ。治安がわからない。食うのも後だ」
「ちぇー……」
彼女のカバンの中身は、まさしく彼女らしい。
俺も普段ならさほど変わらないが、テストの復習用に教科書をすべて持ってきていた。
これは……不幸中の幸い、かもしれない。
スマホを取り出す。
電源ボタンを押すが、反応なし。
ただの黒い鏡。
冷夏も同じように画面を見つめて首を傾げた。
「おかしいなー、充電はまだあったのに……」
「俺のも動かない。多分壊れたんだろうな…
もう使えないと思っておけ」
「せめて写真くらい撮りたかったのに〜!」
残念そうな声を背に、俺は息を整える。
……今は、行動だ。
「行くぞ。大通りに出れば、何か掴めるかもしれない」
路地を抜けると、光が一気に広がった。
眩しさが肌を刺し、思わず目を細める。
人の声、商人の掛け声、獣の鳴き声。
そのすべてが異質で、けれど活気がある。
そして俺は、反射的に歴史の教科書を取り出し、街の“構造”を見比べた。
「……屋根の形状、建物の素材、街路の作り。
18〜19世紀ヨーロッパ“っぽい”が……」
冷夏が身を寄せる。
「違うの?」
「違う。清潔すぎる。設備の形から、
“過去のヨーロッパに似てるけど、別物”って判断だな」
簡潔だが、それだけで充分だった。
ちょうどそのとき、馬車が角を曲がって止まった。
装飾の多い上着を着た貴族風の男が降りてくる。
だが、他とは違い牽いているのは――馬じゃない。
「……爬虫類? いや、あれは――」
「ドラゴンだーーー!!」
冷夏の叫びが街中に響いた。
金木犀色の瞳が輝き、まるで子どもみたいに飛び跳ねる。
「飼い慣らされてる! うわー! 乗りたい! 乗りたいー!!」
「落ち着け! 今は観察だ! 状況がわからなきゃ命の保証もねぇ!」
「そーんなの、ドラゴンがいる時点で全部無意味だよ! あれに乗ったら安全! 以上! 行こー!!」
「いや、待てって冷夏ーー!!」
俺の叫びが石畳に響いた。
それでも冷夏は、太陽みたいに眩しい笑顔で、
見知らぬ世界の方へ駆け出していった。
その背中を追いかけながら、俺は周囲を観察した。
赤茶けた屋根、石畳の坂道、尖った塔の家々――
その間を、獣人や角の生えた商人、髭面のドワーフが行き交う。
露店からは香草の匂い、街灯には鉄の装飾。
車輪の軋む音、異国の言葉が絶え間なく流れていた。
気づけばドラゴンは遠くへ行き、もう追いつけない。
冷夏は足を止め、振り返ってニカッと笑った。
「ねぇハル! すごいよこれ! 本当に異世界だよ!」
「……めんどくせぇ……」
思わず漏れた。
次に何をすべきか考えるだけで、頭が痛い。
聞き慣れない言葉。
読めない看板。
知らない匂い。
未知だらけの街。
普通なら足が止まる。
でも冷夏が振り返って、
太陽みたいに笑って言った。
「ハル、行こ! ボクが一緒にいるんだからさ!
大丈夫だよ! なんとかなるって! ねっ?」
その声だけは、どんな未知よりも強かった。
「……はぁ……めんどくせぇ……」
でも、足は前に出た。
どうせこれから登って、滑って、また登る。
この街みたいに、高低差だらけの人生の始まりだ。
俺は息を吐き、石段の一段目に足をかけた。
とりあえず1章はこれで……
3日以内に次回投稿
次から2章の異世界散策へ行きます
働くのは…疲れる




