始まりの元凶
本編3章3話です
だいぶ遅れましたすみません
多忙期もありなかなかしんどくモチベもちょい……
3章3話です
「お姉ちゃーん!」
朝の湿り気が残る草が、裸足の裏にぺたりと張りついた。
土の匂い。井戸の水が跳ねる音。遠くでパンを焼く甘い匂い。
森は近い。
小さな畑と、丸太を組んだ家が十数軒。広場の中央に井戸があって、村の全部がそこへ寄ってくる。
視界の先、ひときわ明るい影が振り返った。
陽射しをそのまま笑いにしたみたいな顔。
「はいはい。そんなに急いだら転ぶよ、アイシャ」
お姉ちゃんが両腕を広げる。
飛びつくと、胸のあたりが布越しにあたたかい。髪が頬をくすぐって、石鹸の匂いがした。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!
今日も……その、みんなのところ行くの?」
「行くよ。お仕事だからね」
頭を撫でられる。
指先が耳の後ろを通るだけで、胸の奥のこわばりがほどけていく。
広場の端で、お母さんが手を振った。
お母さんは穏やかな顔で、いつも声が柔らかい。私の前では、特に。
「アイシャ、転ばないようにね。」
「はーい!」
その隣に、お父さんがいる。
お父さんは背が高くて、村の誰よりも背筋がまっすぐだ。目が笑わない。怒っているわけじゃないのに、近くにいると空気が硬くなる。
「クロエ。外の者が来た。話は、お前が受けろ」
「うん、分かった」
お姉ちゃんは明るく返して、でも腰のあたりへ指を添えた。
黒い鎖が、帯みたいに巻かれている。歩くたびに、金属がかすかに鳴る。村の子が真似しても出せない音。
鎖の先――小さな刃のような金属片が二つ。
短い柄があって握りやすく、先端だけが細く尖っている。切るよりも刺すための形。淡い金色の面に、黒い模様が沈んで見えた。
井戸のそばに、知らないおじさんが立っていた。村の外から来た人。声が大きくて、目がこっちを向く。
「お、クロエ。この子が――」
「そう! アイシャだよ。ほら、アイシャこっちおいで」
お姉ちゃんが少しだけ身体を前に出す。
私は反射で、お姉ちゃんの背中に隠れた。布を握る指に力が入る。息が詰まって、喉がきゅっと鳴る。
「すまないね、この子、人見知りが強くて。
ほら、怖くない。見るだけ。……ね?」
他人に笑われると、不安がせり上がって涙が出そうになる。目の奥が熱くなって、見られたくなくて顔を埋めた。
「……こ、こんにちは……」
声が小さすぎて、自分でも聞こえたか分からない。
そんな不安を取り払うように、お姉ちゃんの手が背中を二回叩いた。
「いい子。ちゃんと言えた」
その言葉だけで、胸の奥が少しだけ持ち上がる。
泣かないで済む。お姉ちゃんがいるから。
おじさんは困ったように笑って、井戸の縄を握り直した。
「道が荒れてる。町の方で争いや襲撃が起きている。森の向こうも、穏やかじゃない」
「そう。教えてくれてありがとう」
お姉ちゃんは明るく返した。
でも、腰の鎖の音が、ほんの少し低く鳴った気がした。
昼は、村の音が重なる。
パンの匂い。水桶を運ぶ足音。子どもたちの笑い声。誰かが転んで、誰かが笑って、すぐ仲直りする声。
夕方、家の裏の木陰で、お姉ちゃんが鎖の手入れをしていた。
油の匂い。布で金属片を磨く音。擦るたびに、淡い金色がやさしく光る。
「ねえ、お姉ちゃん。それ、なに?」
「これ? これはね……アイオー・リアン」
お姉ちゃんは、口に出すときだけ少し真面目な顔になる。
「“永遠の鎖”って意味を持つんだよ」
「永遠?……」
「そう。この鎖には魔法が付与されていてね、どこまでも伸びて、そして縮めることもできる。」
お姉ちゃんは金属片を軽く放った。
枝の影へ吸い込まれるように消える。――次に見えたのは、遠い枝の影。そこから鎖がするりと伸びて、枝に絡みついた。
鎖は腰に巻かれているのに、遠くまで届いている。
お姉ちゃんの腕は大きく動かない。目だけで先を追っている。
「先が相手の視界から消えてるとね……ここ」
こめかみを指で叩く。軽い音。
「頭の中の道を通って、伸びたり縮んだりする。考えたほうへ、するっとね」
鎖が枝をなぞって滑り、次の枝へ移る。
見えたり消えたりするたび、長さが変わっているのが分かる。絡まるはずなのに絡まらない。
「すごい……」
「便利でしょ。……でも、便利だからこそ、大事に使わないとだめ」
お姉ちゃんは鎖を戻し、腰へ巻き直した。慣れた仕草。
金属片は手のひらに収まって、少し冷たい。
「村の絆を結ぶ鎖。……って、私はそう思ってる」
「きずな……?」
「うん。みんながバラバラになったら、ここは守れない。森は近いし、道は一本。助けが来るのも遅い」
お姉ちゃんの目が、森の暗い方へ向く。
アイシャはその視線の先を見ようとして、見ないでしまう。
「だから……繋ぐ。だけど、断ち切れない戒めもある……」
「……戒め?」
「昔からのやり方。昔からの考え方。『ここだけでいい』っていう安心。……それが、今は首に巻きついてきてる」
笑っているのに、笑い方が違う。
口角だけ上がって、目は上がっていない。
「お姉ちゃん、こわい顔」
「え?」
お姉ちゃんは一瞬きょとんとして、次の瞬間にいつもの顔へ戻った。
「ごめんごめん。難しい話はあと。
……今日はパン焼けたんでしょ。行こ、アイシャ」
手を引かれる。その感触が頼もしい。
焼けた小麦の匂いが鼻をくすぐって、私は少し笑った。
その夜――。
薄い壁の向こうで、お姉ちゃんの声が変わった。
明るい声じゃない。広場の声でもない。もっと硬くて、短い。
「このままだと、村が餌になる。
だからこそ交易や護衛、外の知識が必要だ。」
誰かが「争いは嫌だ」と言う。
別の誰かが「外と関わったら面倒が増える」と言う。
お父さんの声が、低く混じった。
「余計なものを呼び込むな。ここはここで成り立ってきた。よその揉め事に首を突っ込む必要はない」
少し間。
お姉ちゃんの声が落ちる。落ちた声は、逆に届いた。
「面倒はもう来てる。……気づかないふりしてるだけ」
「クロエ」
お父さんの名を呼ぶ音が、怒鳴りではなく、抑えた刃だった。
「お前はまだ若い。外の争いを知らない。交易だの交流だの、言葉は綺麗だが――」
「私は知ってる。だから言ってる。」
お姉ちゃんが言い切った。
昼の笑顔じゃない。村のみんなが黙る声。
「ここだけの特別な絆、平和を培う文化。……私は好きだよ。ここが好きだから」
一拍。
その次の言葉だけ、あたたかさが消えた。
「でも、周りが争い始めた今、限界が来てる。うちだけ平和って顔してても、餌になる。取引が必要。町と繋がる。人を増やす。逃げ道を作る」
「村の誇りを――」
「誇りで腹は満たせない」
硬い沈黙。
誰かが息を呑む。
「私が嫌われ役でいい」
短く言い切って、空気が止まった。
怖い、と思った。壁の向こうのお姉ちゃんは、昼のお姉ちゃんじゃない。けれどその怖さの中に、頼もしさが混じっていた。
翌朝、お姉ちゃんは何もなかったみたいに笑った。
「アイシャ、おはよ。顔洗っておいで」
その笑顔が昨日までと同じだから、私は安心してしまう。
安心して、何も聞かない。聞いたら何かが壊れる気がして。
その数日後。
森が、いつもより近かった。
鳥の声が、急に止まった。
虫の音も。風が葉を撫でる音だけが、やけに大きい。
私が布を干していると、お姉ちゃんが走ってきた。
走り方が違う。いつもは急いでも笑うのに、今日は笑っていない。
「アイシャ。来て」
手が強い。引かれる。転びそうになる私を強引に森へと運んでいく。
腰の鎖が鳴る。――いつもより低い音。
広場の端で、見張りの人が口を開けたまま立っていた。指が震えている。
「アイシャ」
お姉ちゃんが振り返る。笑顔を作る。作った笑顔の裏で、唇が少し震えている。
「森の中。あの岩の陰。……そこから動かないで」
「でも――」
「お願い」
その一言で、足が止まる。
昼の声じゃない。夜の声だ。逆らえない。
私は走った。森の中へ。岩の陰へ。
息が切れる。膝が笑う。なのに止まれない。止まったら、お姉ちゃんが――。
岩の陰で、膝を抱える。枝の隙間から村が見える。
森の縁が、動いた。
黒い影が草の上を滑る。四足。低い。
骨が浮き、毛が抜け、目だけが血走っている。腹が張り付くほど薄いのに、口は大きい。涎が落ちて土に染みる。
飢えた匂いがした。匂いだけで、背筋が凍る。
……魔獣だ
次に、笑い声。
軽い。子どもの笑い声に似ている。
森の影から、小柄な少年が出てきた。年は――私と同じくらい。なのに、目が違う。
光がないのに笑い狂い、欲に支配されたような目。
少年の手には、細い鞭。
魔獣を叩くと、音が遅れて飛ぶ。魔獣がそれに反応し、方向を変える。少年の足が魔獣の脇腹を蹴り、魔獣が転び、すぐ立って走る。蹴られ慣れている動き。
「ほらほら。食べなよ。お腹すいてるんでしょ?」
少年は笑っている。
地獄みたいなこの空間で、魔獣の低い咆哮とは真逆の高い声が村全体に響いている。
村の戦える人たちが前に出た。十人に満たない。槍と斧と、狩りの弓。目が赤い。
その中に、お姉ちゃんがいる。腰の鎖が解かれていた。
戦いが始まった――
最初の一撃は、村側が取った。弓が飛び、槍が突き、魔獣の一体が倒れる。
血が土を濡らす。――のに、倒れた魔獣へ別の魔獣が群がる。肉を裂き、食う。死体を食う。飢えの結果……仲間を食う。
私は喉を鳴らした。吐きそうになる。
でも、目を逸らせない。逸らすと、お姉ちゃんが見えなくなる。
お姉ちゃんが動く。
鎖の先が消える。次の瞬間、遠い屋根の影から鎖が伸びる。身体が地面を蹴り、空間を斜めに渡る。足が地面に触れる時間が短い。
金属片が刺さる。引っ掛かる。次の瞬間には外れる。
刺すためじゃない。位置を作るための浅い刺さり方。
お姉ちゃんの身体は村の端から端へ、風に乗ったみたいに移る。
鎖の途中で、細い金属片が増える。小さな欠片が空中に散り、光る。指先が小さく動くたび、欠片が弾けて、魔獣の目や関節へ吸い込まれる。刺さった魔獣が転び、他の人達がとどめを刺す。
村の動きが整っていく。
震えていた人が槍を握り直す。目の色が変わる。お姉ちゃんがそこにいるだけで、村が一つになる。
でも。
森の影から、黒い布を纏った人が出てきた。
数は少ない。三人、四人。なのに空気が違う。魔獣の匂いと違う匂い。油と鉄の匂い。
あの少年側の人。それも、あれを従えさせている人達なんだろう。
少年は笑っている。笑いが止まらない。
「すごーい。あんた、すごいね」
舌で舐めるみたいな目線と言い方。
鞭が鳴った。
狙いは魔獣じゃなく、人だ。足首。膝。槍を持つ手。絡む。引く。人が転ぶ。転んだ瞬間、魔獣が飛びつく。
叫び声が上がる。
叫び声が途中で途切れる。
骨の音。肉が裂ける音。咀嚼の音。
岩の陰で、アイシャの指が石を掴んだ。爪が割れた。
痛いのに、離せない。
お姉ちゃんが少年へ向かった。
鎖の先が消える。次の瞬間、少年の背後の影から鎖が伸び、首を狙う。――の直前。
少年が、魔獣を蹴った。
蹴られた魔獣が横から突っ込み、お姉ちゃんの軌道をずらす。鎖が空を切る。土が跳ねる。
「危ない危ない。あと、そっち行くと、みんな死んじゃうよ?」
少年が笑う。鞭が、お姉ちゃんの鎖へ絡む。
絡んだ瞬間、鎖の動きが一拍遅れる。
――鎖が、止められた。
その隙を、別の黒い男が突く。短い刃。
村の戦える人が倒れる。倒れた身体へ魔獣が群がる。音が増える。血の匂いが濃くなる。
お姉ちゃんは振り返れない。
全部が同時に来る。守るべきものが同時に消えていく。
お姉ちゃんが一度だけ、岩の陰――アイシャの方を見た。
見つけた瞬間、顔が少しだけ柔らかくなる。
「お姉ちゃん!」
反射的に声を出してしまった。
その瞬間――全ての視線が私へと向けられた。
血走る飢えた獣の視線、玩具を見つけた様な欲の視線、そして今まで見たことがない絶望的なお姉ちゃんの視線……
一瞬の止まった世界が動き出し、全てが私へ向かっていく。
「動いてんじゃねーよ!!!!」
ムチが行く手を妨害しても、鎖が伸びる。影から影へ。曲がる。折れる。遠回りして、それでも速い。
お姉ちゃんが目の前に落ちてくる。
着地の音が重い。息が荒い。なのに、さっきとは違う……お姉ちゃんは笑っていた。
「大丈夫だよ」
いつもの笑顔。いつもの声。
だから、余計に怖い。
「お姉ちゃん……?」
手を伸ばす。
お姉ちゃんは、その手を取らない。代わりに、鎖が動いた。
冷たい金属が、私の身体に巻きつく。腕。胸。腰。
痛いほどきつい。呼吸が詰まる。
「ごめんね、アイシャ……
お姉ちゃんいっぱい話したいことあるけど言えそうにないや……」
滲む視界の中、お姉ちゃんの笑顔の意味を理解し、否定するように巻きついた鎖をほどこうとする。
「やだよ! お姉ちゃん! 一緒に逃げよ!」
「ごめん」
声が少し震えた。
震えているのに、目は揺れない。
「私とアイシャの絆は絶対に途切れないから……」
お姉ちゃんが欠片を引いた。
視界が揺れる。身体が地面から剥がれる。風が顔に当たる。凄い勢いで体が引っ張られる。村が遠ざかる。
「お姉ちゃーーーーん!!!!!」
声が割れる。涙が飛ぶ。
視界の端で、お姉ちゃんが小さくなる。小さくなるのに、笑っている。
口だけが動く。
――あいしてる。
音は届かない。口の形だけで分かってしまう。
次の瞬間、アイシャは目を閉じた。
閉じたのに、分かった。
笑い声がした。
乾いた笑い声。鞭の少年の笑い声。
その向こうで、何かが裂ける音。肉が裂ける音。骨が折れる音。
食べる音。息が途切れる音。
目を閉じたまま、身体が震えた。
逃げているのに、頭の中は広場に戻る。戻ってしまう。
欠片だけの勢いがまだ続いている……
ただ遠くへと私を引っ張っていく。
「――っ!」
息が詰まって、目が開いた。
雨の匂い。冷たい土。頬が泥だらけ。唇に砂。
倒れた馬車の影がすぐそばにあり、木の割れ目から雨が落ちてくる。
耳がうるさい。
金属がぶつかる音。叫び声。獣の咆哮。雨が地面を叩く音。
起き上がろうとして、腕が滑った。泥に手が沈む。
視界がぶれる。立ち上がれない。身体の中で、何かが遅れて動く。
その先――開けた道。
ハルトがいた。盾を前に出し、片腕で誰かを抱えている。
ラルス様!?
顔が青い。唇の端から透明なものが垂れている。胸の上下が浅い。目は半開きで焦点が合っていない。
ハルトの声が飛ぶ。
「ラルス! しっかりしろ!」
魔獣が、ラルス様の方へ寄っていく。
現状に追いつけない、悪夢が現実へ流し込まれている……
視界の端で、影が動いた。
フード。黒い服。数人。
その中に――小柄な影。
鞭を持っている。足が軽い。
雨の中でも分かる。あの笑い方。
喉が勝手に鳴った。呼吸が一度止まり、次に荒くなる。
指が泥を掴む。痛い。なのに離せない。
村の広場。お姉ちゃんの笑顔。口の動き。
目を閉じたのに分かった笑い声。
全部が、今の雨の中に重なる。
口が勝手に開いた。
「――貴様らああああああぁぁぁぁぁぁっ!」
声が、幼い自分の声じゃない。
雨の粒が口の中へ入り、鉄の味になった。
視界の先で、フードの一人が首を傾げた。
黒い布が雨に貼りついているのに、口元だけが弧を描く。
声は小さい。
それでも、耳が拾う。拾ってしまう。
魔獣が、また一歩、ラルス様へ寄る。
その動きが――悪夢の広場の動きと重なる。
アイシャは斧に手を掛けた。
濡れた革が滑る。指先に泥と血が混じる。
胸の奥で、何かが折れた。
一歩、踏み出したところで――
雨音が遠のいた。
次回は1.2週間後を目あすとしてください




