襲撃の開幕
本編5章2話
3章2話
「遅い」
そう捨てセリフを吐いてアイシャは先頭を走った。背中が小さく見えるのに、距離が縮まらない。足音が薄い。まるで、森の影に溶けるみたいだ。
次の瞬間、森が開けた。
切り開かれた空間の向こうで、テントの布が裂け、杭が倒れ、机が横倒しになっている。地図と資料が泥にまみれ、風に巻かれて舞っていた。
火は出ていない。だが、壊れ方が戦闘のそれだ。外から叩き割られ、内側へ押し潰されている。
「防御体制! 負傷者を避難させろ!」
隊長の怒号が飛ぶ。声が掠れている。ここで何度も叫んだ声だ。
そこに、いた。
黒い影を纏った四足が、半身を浮かせて吠えている。翼はない。だが爪が長い。口の中が濡れて光る。
その周りを、憲兵が槍で輪を作って押し返しているが、押し切れない。
輪の外側には、倒れた人影もある。土に染みた暗い色が、光のない影へ溶けていく。
さらに奥。
木の影から、フードを被った人間が二、三。距離を取り、逃げ道を作っている。
視線だけで指示を回し、魔物を動かしているのが分かる。声を出さない分、厄介だ。
――最初から、こういう形を用意していた。
ラルスが一瞬だけ、眉を寄せた。
「到着、感謝いたします。魔物は“誘導”されています。こちらの戦力では足りません」
「負傷者は?」
「複数。情報班も負傷しました。資料の持ち出しは……半分、諦めています」
俺は反射で口を開きかけた。
回復、という言葉が喉まで出る。
「……無理です」
ラルスが先に切った。声は抑えているのに、硬い。
「戦場で人を“戻す”ほどの回復は、難易度が違います。今は、動ける人を守ってください」
俺は短く頷いた。今の一言で足りる。足りてしまう。
アイシャが一歩前へ出た。
隊長の返事を待たない。視線が魔物の群れを切り裂く。
「外側を刈る。ここを守って」
その短い言葉で、戦場の役割が決まった。
俺が頷く前に、彼女は戦場へ滑り込んでいた。
鎖が鳴る。
三つの斧が同時に踊った。円を描き、地面すれすれを削り、空気を裂く。
一体が突っ込んできた。本能的な殺意の塊。
アイシャは避けない。斧の配置を変えるだけだ。交差させ、引き合い、反発させる。
衝撃が逃げた。次に、斧が「横」から入る。脇腹が開き、黒い血が散る。
倒れない。
弱っていたさっきのとは違う。動きが速い。獣のはずなのに、迷いがない。
合図で同時に踏み込み、同じ角度で噛みに来る。
それでも、アイシャは止まらない。止める理由がないみたいに。
斧が戻る前に、次の斧が落ちる。鎖が伸びる。視界外から刃が来る。
魔物の群れが、彼女の周りだけ減っていく。
「ハルト様!」
ラルスの声が、背中に刺さる。
俺は自分の位置を決める。
拠点の中心――情報班のテントの前。壊された机の脇。ここを境界にする。
ここから先は、通さない。
盾を前に出し、直剣を抜く。
足を置く。半歩。呼吸。
肩の違和感が一瞬だけ主張する。だが、今さら気にしても意味がない。
その違和感ごと、境界線の内側へ押し込む。
魔物の一体が突っ込んでくる。
速い。鋭い。獣の直線。
盾を「壁」にしない。角度をつける。真正面の衝撃を横へ逃がす。
腕が痺れ、膝が沈む。だが、倒れない。
直剣を返す。
斬るんじゃない。押し返して、間合いを奪う。
それでも、次が来る。もう一体。さらにもう一体。
槍の輪が薄くなっている。隊長が傷を負っているのが見えた。誰かが「後ろ!」と叫ぶ。
――来る。線を跨ぐ。
魔物の爪が、俺の右へ回り込もうとした。
俺は剣先を少しだけ下げる。地面に刻んだ線――その上を、あえて空けた。
踏み込んだ瞬間。
盾で角度を作って流し、剣を“真っ直ぐ”差し込む。首じゃない。肩口。
突いたまま押し返す。線の外へ、身体ごと戻す。
跨いだやつは、跨いだ場所へ返す。
それだけでいい。
ラルスが俺の背後に立った。
「敵の隙を作ります!」
その声と同時に呼吸を整える気配がした。
その瞬間、魔物の踏み込みが鈍る。
足元が沈み、土が吸い付くように重くなる。
泥沼。ほんの一瞬。だが、一瞬で十分だ。
俺はその隙で突きを入れる。
首じゃない。脚。動きを削る。殺す、よりも無力化が先だ。時間をかければ次が来る。
倒した瞬間に、別の影が飛び込んでくる。爪が盾を滑り、耳元で火花が散る。
視界の端で、フードの人間が指を鳴らした。合図。
魔物の動きが揃う。やっぱり“連携”している。
アイシャが外側から斧を走らせた。
鎖の円が広がり、刃が範囲を持って進む。力の差が露骨だ。
魔物がまとめて薙がれ、地面へ叩きつけられる。
それでも、追いつかない。数が多い。誘導されている。こちらが守りに徹するほど、削られる。
ラルスが息を吸う音がした。
「……ハルト様。少し、時間をください」
声が震えていない。だが、喉の奥が硬い。
俺は頷く。視線を動かさず、口だけ動かす。
「ここは俺が守る」
境界線を引き直す。
剣先で地面に線を刻む。意味は自分にしかない。それでいい。
線の内側へ入れない。単純な約束を、自分に課す。
魔物が来る。二体。三体。
盾で逸らし、剣で押し返し、足場を変え、距離を支配する。
決して後ろへ下がらない。
一体が跳んだ。
空中で爪が伸びる。直線で、喉を取る気だ。
盾を上げる。角度。衝撃を逃がす。腕が裂けるように痛い。
その瞬間、直剣を逆手に入れ替え、腹を刺す。浅い。だが着地が崩れる。
そこへ槍が突き刺さった。
憲兵が、息を切らしながら支えている。
「助太刀いたします、ハルト殿!」
「頼む。ラルスを守れ」
ラルスの背後で、空気が変わった。
温度が一度落ち、次に膨らむ。目に見えない圧が、そこだけ密度を増す。
「……いきます!」
ラルスの声が、いつもより低い。
彼女が両手を前へ差し出す。
何かを掴むような仕草。指先の間に、淡い光が絡み合う。
「無」から、輪郭だけが引きずり出される。
竜の形。頭。角。背骨の線。翼の残像。
実体は薄い。透けている。なのに、存在感だけが重い。
光のオーラが揺れ、空気が裂ける前兆みたいに鳴る。
「……避けてください!」
ラルスが叫ぶ。
俺は盾で顔を隠すように身を沈めた。境界線を一段引く。憲兵にも叫ぶ。
「伏せろ!」
竜が突進した。空気を押し潰して進む。
触れたものが弾け、飛ばされ、踏み潰される。魔物の群れが一瞬で散り、形を失う。
フードの人間が逃げようとした。だが竜の影が掠めただけで、身体が投げられて転がった。
突進が終わる頃には、竜の輪郭がほどけていた。
霧が風に散るみたいに、形が消えていく。最後に残ったのは、震える空気だけ。
ラルスの膝が、かくんと落ちた。
肩が上下する。目が焦点を探している。意識を保つのがやっとの様子だ。
「ラルス!」
倒れ残った魔物が、まだ動いている。
ラルスのおかげで数は減った。だがゼロじゃない。
隊長が叫ぶ。
「押し返せ! 囲め!」
調査班が合流する。傷だらけの顔で、槍の穂先を並べる。戦場の向きが、反転した。
アイシャが、斧を回した。
鎖の音が乾いた。斧が一度、二度、三度。
首が落ちる。胴が倒れる。動きが止まる。
その一つひとつが、作業みたいに正確で、余計な温度がない。
最後の一体が崩れ落ちた時、ようやく音が戻ってきた。
息。呻き。木が折れる音。裂けた布の音。焦げた毛の匂い。
襲撃は終わった。
だが、拠点は見る影もなかった。
テントは半分が潰れ、資料は泥に沈み、荷車はひっくり返っている。
火種が残っていたら燃え広がっていただろう。運が良かっただけだ。
隊長がラルスへ駆け寄り、膝を折った。
「アストリア殿、ご無事で……! そして、救援に深く感謝を」
ラルスは息を整えながら、かろうじて頷く。
「……皆さんも。怪我人の手当てを最優先に」
俺はラルスの横に立つ。
彼女の肩が小さく震えているのが分かった。魔法の反動だ。無理をした。
情報班の者が、泥だらけの箱を抱えて走ってきた。
「隊長! 残った資料はこちらに!」
「命が先だ。……記録は後でいい」
言い切る声が、苦い。
壊れた机の下から、金属音がした。
憲兵が引きずり出したのは、魔物の首輪だった。さっきのと同じ。三匹の蛇。
一つじゃない。箱の奥から、さらに二つ。泥に埋もれた分だけ、まだある。
隊長が顎を引く。
「……増えている。ここ数日で、一気に」
アイシャの視線が一瞬だけ落ちる。
指先が動いた。何かを確かめるように。次の瞬間には戻っていたが、その遅れだけが目に残った。
「ほら。面倒事、増えた」
彼女が吐き捨てるように言う。俺に向けた皮肉の形をしているのに、視線は首輪のほうへ残っていた。
隊長が短く指示した。
「本部は壊滅です。ここで夜を越すのは危険。負傷者も多い。撤収し、町へ戻ります」
決定は早い。遅れれば、次が来る。
夕暮れ前に、残せるものだけを荷にまとめた。
崩れ残った木片を蹴りながら、俺は拠点を振り返る。
倒れた憲兵の鎧を外し、血で張りついた布を剥がすたび、痛みの声が漏れる。
ラルスが膝をつき、手袋を外した。
指先に淡い光が集まり、掌から薄い水が生まれる。洗い流すように傷口へ滑らせ、泥と血を流す。
次に、風を小さく起こして乾かす。火は使わない。熱は痛みを呼ぶ。
「……大丈夫です。息を合わせて」
相手の顔を見て言う。その声だけで、震えが少しだけ落ち着くのが分かった。
隊長が俺へ近づく。
「ハルト殿、今の突進……あの魔法は」
「俺も、初めて見た」
おそらくはテーマなのだろう。だが、言葉にするほどの余裕がない。
隊長は首を振った。
「救われました。ですが、相手は撤退が早すぎる。こちらの損耗と拠点の破壊だけを狙っていたように見えます」
「……捨て駒ってことか」
隊長の目が一瞬だけ細くなる。
「ええ。ここを潰せば調査が止まる。そう判断したのでしょう。……次は、もっと狙いを絞って来るはずです」
その言い方が、妙に確信めいていた。
俺の背中が冷える。今夜が終わっても、襲撃は終わりじゃない。
戦場の端で、まだ息のある魔物が泥を掻いた。
脚は折れている。喉から泡が出て、口が開く。噛もうとする癖だけが残っている。
憲兵が槍を構えた。止めを刺す角度を探し、躊躇したのが分かった。
その隙に魔物の顎が上がる。歯が光る。
アイシャが横から入った。
一撃目で顎を割る。二撃目で首の骨を探る。三撃目で――頭が転がった。
倒れる前に、もう一度。首の断面へ確実に刃を入れて、動きを「終わらせる」。
血の温度が消えるまで、彼女の手は止まらなかった。
憲兵が小さく息を呑む。
俺も、息を呑んだ。
必要以上に見えるのに、彼女にとっては作業的にしか見えていない。
撤収準備の最中、隊長が俺たちを呼んだ。
テントの裏手、倒れた木の影。そこに、刃物で削られた跡があった。
樹皮が剥がされ、濡れた木肌に刻まれた線が、月明かりを吸って黒く光る。
三匹の蛇。
円を描く刻印。
首輪と同じだ。
新しい。削り屑がまだ足元に残っている。
つまり、これは昔の痕跡じゃない。今日、ここで刻まれた。
「……挑発ですか」
隊長が言い、唾を飲み込んだ。
「あるいは、合図。どちらにせよ――この森に、まだいる」
ラルスの顔が、少しだけ硬くなる。
アイシャは表情を動かさない。ただ、目だけが刻印をなぞり、すぐに逸らした。
俺はその逸らし方の速さが、逆に気になった。
早々に撤退を判断し俺達も馬車で屋敷へ戻ることとなった。
窓の外は真っ黒で、森の影が速度だけで流れていく。車輪の音が単調で、逆に心を削る。
ラルスは向かいの席で背を預け、目を閉じている。まだ息が浅い。手が膝の上で固い。
アイシャは隣で、斧の刃を布で拭いていた。
血は薄い。だが彼女の手は止まらない。
首を落とす瞬間だけが頭に残っているみたいに。
車内の沈黙に耐えきれず、俺が口を開いた。
「……さっきの戦い。こだわりすぎじゃないか」
アイシャの手が止まった。
目だけが動く。冷たい視線。
「こだわり? 何が?」
「動けなくした時点で、あれ以上やる必要は――」
言い終える前に、彼女の声が被さる。
「生きてるなら、動く」
語尾が短い。刃みたいに切れる。
俺は息を吸う。言い返すためじゃない。冷静になるためだ。
「……効率の話だ。ラルスがあそこまで無理をしたのは、数が――」
「なら、貴方がやればよかった。効率よく」
一言で切られた。
アイシャは続ける。こちらを見ないまま、淡々と。
「私は一人で回してた。貴方は二人。ラルス様の補助込みで、あの程度」
馬車の揺れが、やけに大きく感じた。
「実力の差を、理屈で埋めようとしないで」
そこまで言って、ようやく彼女の目がこちらへ向いた。
冷たくて、静かで、逃げ道がない。
「それ、正義じゃない。言い訳」
言葉が刺さる。
俺は歯を噛みしめ、拳を握った。
握った拳が、震えているのが分かる。怒りじゃない。悔しさだ。
ラルスが、間に入るように息を吐いた。
「……二人とも、そこまでにしてください」
声は柔らかい。だが、揺れない。
「今日、命が繋がった。それだけで十分です。反省は……明日に回しましょう」
反論できない言い方だった。
誰も「勝った」と言わない。だからこそ、終わらせるしかない。
アイシャは視線を窓へ戻した。
それ以上、言葉を置かない。
空気が硬くなる。
窓の外の闇が、車内へ滲むみたいに濃くなる。
アイシャは布を握り直し、斧の刃をまた拭き始めた。
さっきより丁寧に。無駄に丁寧に。
その動きが、怒りを押し殺す癖みたいに見えた。
馬車が段差を越え、車内が揺れる。
ラルスの肩が小さく跳ね、すぐに落ち着く。目は閉じたまま。
俺は外套を少しずらし、彼女に掛かる風を減らした。
沈黙が戻る。
けれど、さっきとは違う沈黙だ。
言わなかった言葉が、車内に残っている。
夜が深くなるにつれ、呼吸が一つずつ重くなる。
憲兵の誰かが、前方で眠りに落ちた気配がする。
ラルスが眠りへ沈みかけた頃、俺は窓の外へ視線を逃がした。
森は暗い。けれど、暗いだけじゃない。どこかで誰かが見ている気配だけが残る。
今日の戦いで分かったことは二つある。
一つ、俺たちは守れる。だが、守り方を間違えたらすぐに崩れる。
もう一つ、敵はこっちの動きを読める。読める上で、中心を壊して引く。
境界線を引いたつもりで、境界線の外から引かれていた。
その事実が、喉の奥に砂みたいに残っている。
アイシャが小さく息を吐く。
眠りに落ちたわけじゃない。目は閉じたまま、呼吸だけが浅い。
手袋の縁を握る指が、何度も同じ場所をなぞる。擦り切れるほど。
車輪が石を踏み、馬車が跳ねた。
その反動で、彼女の膝の上の金属がわずかに見えた。
蛇の円。暗闇でも分かる輪郭。
拾ってしまったのか、持って帰るつもりなのか、俺には判断がつかない。
ラルスが微かに眉を寄せ、唇を動かした。
声にならない。何かを言いかけて、飲み込む仕草だけが残る。
それを見て、俺はようやく理解した。
この二人の間には、俺が知らない「線」がある。踏んだら壊れる線が。
俺は背を座面へ預け、手のひらを開いた。
拳を作るのは簡単だ。だが、次の一歩を間違えたくない。
明日、何を聞くか。何を聞かないか。どこまで踏み込むか。
その選択で、たぶん――命の線も変わる。
馬車は暗闇を裂いて進む。
遠くでフクロウが鳴いた。森がそれに応えるみたいに、ざわりと揺れる。
蛇の刻印は、まだ新しい。
この先も増える。
瞼の裏が重くなり始めた頃、馬車の揺れが一度だけ大きく変わった。
森を抜けたのか、道が開けたのか。車輪の音が湿った土から、乾いた石畳へ変わる。
窓の隙間から冷たい風が入り、灯りの揺れが壁へ影を投げた。
蛇の円の影が、アイシャの膝の上で一瞬だけ大きく伸びる。
彼女の指が、それを押さえ込むように動く。眠っているのに、反射だけが生きているみたいだった。
遠ざかる森は黒い塊のまま、街道の闇に沈んでいく。
その黒さの中に、さっきの光の残像だけが刺さったまま抜けない。
首輪の金属音が、時々小さく鳴る。
そのたびに、アイシャの指がわずかに動く。握りしめるでもなく、離すでもなく。
ただ、そこにあるものを確かめるみたいに。
ラルスの呼吸が深くなったのを確認して、俺は小さく息を吐いた。
守れた。だが、守れたのは今日だけだ。
明日も同じ線が引ける保証はない。相手は、それを知っている。
次回は1週間を目あすに投稿します




