記憶と記録
本編3章2話です
めっちゃ…見られるの減った……
3章2話
目を覚ましたのは、外が白み始めた頃だった。
天井の木目をぼんやりと眺めながら、俺はゆっくりと呼吸を整える。
身体は重いが、嫌な疲れ方じゃない。むしろ久しぶりに“ちゃんと寝た”感覚があった。
起き上がり、いつものくせでスマホを確認する。しかし、そこには黒い反射しかなく壊れていることにようやく気づく。
そのため、俺は窓際へ向かう。
持ってきた紙とペンを取り出し、窓枠にペンを立てて影の位置を確認する。
影時計と呼ばれるおおよその時刻を確認する方法だ。
――影は短く、斜め。
おおよそ七時前後。
日本にいた頃なら、もうとっくに起きて一通りの準備を終えている時間だ。
「寝坊だな……」
内心で少しだけ残念がる。
だがそれだけ、昨日は気を張り詰めていたということでもある。
俺は外に出て、軽くストレッチを始めた。
首、肩、腰、足。
異世界でもルーティンは変わらない。身体の可動域を確認し、呼吸を深くする。
石畳の冷えた感触が、足裏から伝わってくる。
それだけで、頭が少しずつ冴えてきた。
(……今日からが本番だ)
部屋に戻り、宿の風呂へ向かう。
時間制らしいが、この時間帯は人も少ない。
湯に浸かりながら、昨日の出来事を整理する。
言葉が通じない。文字が読めない。
それでも、運と判断でなんとか一晩を越えた。
――だが、これは続かない。
風呂を上がり、身体を拭きながら本棚の方へ向かう。
昨日は流し見しただけだったが、改めて確認する。
表紙から、町についての本、物語、歴史……
その中に、薄い装丁で挿絵の多い本がいくつか混じっていた。
童話。
絵本。
簡単な読み物。
「……あったな」
思わず小さく笑う。
文字を覚えるなら、これ以上ない教材だ。
本を数冊選び、部屋へ戻ろうとすると、店主が声をかけてきた。
いや、正確には声ではなく、手振りだった。
台所の方を指し、湯気の立つ鍋を示す。
朝食が用意されているらしい。
俺は軽く頭を下げ、礼を示す。
「ありがとう」
通じているかは分からないが、店主は笑った。
――いい宿だ。
部屋に戻り、冷夏を起こすためベッドの脇へ立つ。
「……冷夏」
反応はない。
「起きろ。朝だ」
「……んー……」
布団の中で身じろぎするが、起きる気配はない。
「朝飯あるぞ」
「……あと五分……」
どこの世界でも通じる言葉らしい。
仕方なく、もう一度声をかける。
「……冷夏」
「……ん?」
ゆっくりと目を開け、起き上がり首を傾げる。
「……なんで……ハルが……?」
寝起き特有の、思考が追いついていない顔。
乱れた髪、ずれた服の襟。
――まずい。
「……あ」
俺は慌てて視線を逸らした。
「え、なに、なんで……」
冷夏は静かに困惑しながら、昨日の記憶を辿っているようだった。
数秒後、ぱちんと何かが繋がる。
「あ……異世界……」
そして次の瞬間。
「――ちょっと!!」
布団を掴んで叫ぶ。
「ち、ちかづかないで!!
ボク、風呂入ってない!!」
「そこかよ!」
思わず突っ込むと、冷夏は自分の姿を見下ろして固まった。
「……っ!?」
耳まで真っ赤になる。
「でてけぇぇぇ!!」
枕が飛んできた。
「わ、分かった分かった!
風呂は――」
慌てて身振りで場所を説明すると、冷夏は顔を赤くしたまま飛び出していった。
「……まったく」
朝食は、俺が先に取った。
温かいパンとスープ。質素だが、胃に優しい。
しばらくして、湯気とともに冷夏が現れる。
「……ふぅ……生き返った〜
ここのお風呂は広くていいねー!」
髪も服も整い、さっきの無防備さは消えていた。
「ちゃーんとさっきのことは忘れてよね!」
「忘れる」
即答した。
朝食を取りながら、作戦会議を始める。
「三日だ」
俺が言う。
「三日で、最低限ここで生きる準備を整える」
冷夏は頷く。
紙を広げ、指で項目を示す。
・言語の取得
・読み書きの取得
・生活用品の購入
・定期的な資金確保の手段把握
「まずは言葉だな」
「うん。話せないとやっぱり不便だからね」
そこで、互いの言語状況を確認する。
「俺は日本語、英語、ドイツ語」
「ボクは、日本語、英語、フランス語、ロシア語」
「……負けた」
「にゃーっはっはー!
これが資本と英才教育のちからさ」
どや顔。
「その英才教育から、なんで規格外の自由人が出来上がるんだよ」
「ひどい!」
冷夏は笑いながら、俺を指差す。
「でもさ、なんでドイツ語?
騎士ならフランスとかじゃない?」
「よく聞かれる質問だな、俺の家系は主に
アーサー王が示した“理想としての騎士”
ドイツ騎士団が築いた“制度としての騎士”
その両方を受け継いだんだ。
だから言葉はその2種を、他は剣で語れって言われたな。」
「なるほどー」
逆に俺が聞く。
「そんなに言語覚えてる理由は?」
「親族や親戚がヨーロッパ各地にいるから。
系統で、ゲルマン・ラテン・スラブを一通り」
……やっぱり規格外の令嬢だ。
「で、勉強方法だけど」
俺は絵本を示す。
「俺はこれ。
単語を拾って、文脈から意味を推測。
理解したら、問題を作って相手に解かせる」
「……すごーく、勉強臭い」
「だろうな」
冷夏は肩をすくめる。
「ボクは逆。
とにかく人に話しかける。
通じなくても、笑って、身振りで、仲良くなる」
「実践派か」
「うん。
読み書きは、仲良くなった人に教えてもらう」
互いに顔を見合わせる。
「……午前は俺をメインに」
「午後はボクがメインだね!」
「疲れたらその都度交代」
「決まり!」
こうして、学習は始まった。
3章5話
午前中は、俺のやり方だ。
宿の一角を借り、絵本を広げる。
挿絵の下に並ぶ文字列を、ひとつずつ指でなぞる。
「この場面、子どもが転んでるな」
冷夏は椅子に膝を抱えて座り、絵を覗き込む。
「泣いてる? それとも怒られてる?」
「多分転倒して泣いたって流れだろ」
単語を拾い、構文を仮定し、別のページと照合する。
意味が通らなくなったら、一度すべてを疑って組み直す。
……地味だ。
だが、確実に積み上がる。
「はい問題」
俺は紙に簡単な文を書き、冷夏に差し出した。
「読んでみろ」
「えー……」
文句を言いつつも、冷夏は文字を追う。
「……『ぼくは、きょう、まちへ、いった』?」
「正解」
「やった」
軽くガッツポーズ。
だが次の文で、冷夏は首を傾げた。
「……これ、“わたし”じゃなくて“ぼく”なの?」
「性別で一人称が変わるらしい」
「めんどくさ!」
「言語なんて全部そんなもんだ」
冷夏はぶーぶー言いながらも、書き写しは丁寧だった。
集中力が切れたと思ったらいつの間にかに、また集中状態に戻ってくる。
……飲み込みが、早い。
昼前、ひとつの物語を読み切った瞬間だった。
冷夏がぽつりと呟く。
「この文、声に出したら……通じるかな」
「やってみるか」
俺たちは視線を合わせ、宿の女店主を呼んだ。
冷夏は緊張した様子で、覚えたての文を口にする。
「コンニチハ、ソト二イキマス」
拙い発音。
語順も、少し怪しい。
一瞬の沈黙。
だが――
店主は、ぱっと表情を明るくし、何かを返した。
「あら!言葉を勉強したのかい!
ええ、行ってらっしゃい!」
「……!」
冷夏の目が、見開かれる。
「……通じた……?」
店主は笑って頷き、ゆっくりと言葉を繰り返してくれた。
「……通じた!」
冷夏はその場で跳ねた。
「ハル! 通じたよ! ねえ、聞いた!?」
「ああ。完璧じゃないが、意味は合ってる」
「すごくない!? すごくない!?」
冷夏はそう言い、嬉しそうに笑う。
……いや、実際すごい。
俺は頭の中で反省していた。
理解はしているが、感情にするのが遅い。
冷夏は――“できた”瞬間を逃さない。
午後は、冷夏の番だった。
市場に出るなり、冷夏は躊躇なく人に声をかける。
「こんにちは!」
反応がなくても、気にしない。
「これ、なに?」
通じなくても、笑う。
「おいしい?」
身振り手振り、声色、距離感。
言葉以前に、人としての壁を壊していく。
最初は怪訝そうだった人々も、
やがて苦笑し、最後には笑って応じ始める。
……俺には無理だ。
「今の聞いた?」
冷夏が振り返る。
「“安い”って言った」
「聞き取れたのか」
「うん。音、ラテン系に似てたから」
三回で覚えて、即使う。
俺は五十回書いて、それを踏まえて聞き、ようやく定着する。
やっぱり、冷夏は規格外だ。
その日の夕方。
市場の布屋で、冷夏が何かを交渉していた。
値段。
数量。
素材。
俺が割って入る前に、話はまとまっていた。
「……終わった?」
「うん。ちょっと安くしてくれた」
「どうやって?」
「“初めての町で、服が必要”って言った」
……強い。
三日間。
午前は俺、午後は冷夏。
疲れたら交代。
混乱したら、一緒に確認。
失敗して笑われて、
成功して笑い合う。
三日目の夜。
日常会話は、問題なく回るようになっていた。
完璧じゃない。
だが、生きるには十分だ。
その帰り道。
宿へ戻る石畳の通路で、冷夏がふと足を止めた。
「……?」
視線の先。
フードを深く被った金髪の少女が、宿の扉から出てくる。
俯いたまま、肩をすぼめ、
何かから逃げるように歩いていた。
一瞬だけ、顔が見えた。
困惑。
焦り。
それと――追い詰められたような、悲しさ。
「……今の」
冷夏が、小さく呟く。
「誰だろ…」
なぜか胸の奥に引っかかる。
少女は振り返らず、そのまま夜の通りへ消えていった。
――この町は、優しいだけじゃない。
そのことを、改めて思い知らされるような背中だった。
「……明日も忙しくなりそうだな」
俺が言うと、冷夏は小さく頷いた。
「うん」
知らない誰かの影が、
静かに、俺たちの日常に入り込もうとしていた。
次回は3日以内に出します




