成果と豪華
本編3章1話です
3章1話
ついさっきまで張りつめていた緊張がほどけて、先ほどまで強く袖を掴んでいた冷夏の手が、ふっと力を抜いた。
強がりだったのだと思う。
いつもの能天気な声に不安を隠し、平気なふりで前へ進んで…
――限界まで踏ん張っていた。
「……大丈夫か?」
声をかけると、冷夏は小さくうなずいた。
けれど足取りは頼りない。ふらつくのを誤魔化すみたいに、俺の袖を引く。
「なんか……急に、すっごくお腹空いた〜」
その一言で、俺もようやく自分の腹を思い出した。
そうだ。異世界に来てから、何も口にしていない。
状況把握、言葉、金――頭ばかり動かして、身体の方を放置していた。
空腹ってやつは、いま立っている場所が夢じゃないと、妙に現実的な形で突き刺してくる。
「スナック、あるけど……」
冷夏がカバンを探り、小袋を取り出す。飛ばされる前に偶然入っていた菓子だ。
だが俺は首を振った。
「今それ食っても、腹の足しにならない。ちゃんと飯を探そう」
「……だよね」
冷夏は袋をしまい、代わりに周囲をきょろきょろ見回す。腹が減ると、目が獣みたいに真剣になるのか。
さっきまでの涙の名残が頬の端にあるせいで、ギャップが少し胸に刺さった。
その直後だった。
「――あ」
鼻先をひくりと動かして、冷夏が顔を上げる。
「……いい匂い」
視線の先、大通りの角に、湯気を上げる大衆向けの料理屋があった。
焼いた肉の香ばしさ。濃厚なチーズ。魚介が混ざった色付きの米料理――パエリヤみたいな大皿。ポタージュみたいにとろりとしたスープ。
湯気だけで胃が鳴りそうだ。
「……あれ」
冷夏が両手で、強く俺の袖を引っ張る。
「あれ食べたい!! 絶対美味しいやつ!!」
「わかったから、そんなに引っ張るな!」
否定する理由はない。無駄遣いはできないが、今は「食う」こと自体が投資だ。
腹が減って思考が鈍る――鈍った瞬間に死ぬかもしれない世界で、それを侮るわけにはいかない。
俺たちはそのまま店へ入った。
中は思っていた以上に活気があった。
木のテーブルに長椅子。皿と杯がぶつかる音。
笑い声。怒鳴り声。異国語が飛び交っているのに、不思議と落ち着く。食堂の騒がしさは世界共通らしい。
「……すごい……!」
冷夏は目を輝かせ、壁に掛かった木製のメニュー板を見上げる。
さっきまでの不安が嘘みたいに、注文を想像している――ように見えた。
が、数秒後。
「……」
ぴたりと動きが止まる。
「……目の前に……あんなに美味しそうな料理があるのに……」
冷夏はゆっくりとテーブルに突っ伏した。
「……文字が分からない……食べれない……そんな残酷なことが……」
「いや、そこまでか?」
「そこまでだよ!」
顔だけ上げて睨まれる。金木犀色の瞳が空腹で若干ギラついている。普通に怖い。
「ここまで楽しみだったのに!
当てずっぽうで頼めって言うの!?
そんなギャンブルしたくなーい!」
……言いたいことは分かる。
金は生命線だ。今の手持ちが増えたように見えても、数日で底が見える可能性は十分ある。
「絶望すんな。好きなものが頼めないわけじゃない」
「……ほんとに〜?」
声に混じるのは、疑いと不機嫌。空腹時の冷夏は面倒だ。
「賭けるより、簡単なやり方がある」
そう言って、俺は手を挙げて店員を呼んだ。
やってきた店員に、俺はさっき冷夏が食い入るように見ていた卓の料理を指差す。
「ソルニニャ」
短い単語と指差し。これで十分だ。
店員は一瞬きょとんとしたあと、身振り手振りで説明を始めた。
火にかける仕草、切る仕草、混ぜる仕草。肉、魚介、米、チーズ、スープ――言葉は拾えなくても、説明の流れは読める。
最後に「それでいいか?」と言うように首をかしげた。
料理屋なら、だいたいこの形だ。
俺は頷いた。
店員は満足そうに笑い、厨房へ向かっていく。
「……え、それでいいの?」
冷夏が小声で聞く。
「いい」
「ほんとかな〜
ハル、いま当たればいいなって顔してる」
「黙って見てろ」
少し間が空き、冷夏は腕を組み、じっと俺を見る。
「……なんか怪しいんだけど」
「今さら信用ゼロかよ」
「だってさ。意味わからないのが来たら泣くよ?
お肉のハードルが高い分、外した時のショック大きいよ?」
「めんどくさい……」
言い合っているうちに、冷夏は腹を押さえて机に突っ伏した。
「……待てない……」
「あと一分くらい我慢しろ」
「無理……」
大げさだが、わざとじゃないのは分かる。強がりの反動と空腹が重なってる。
そして、ちょうど皿が運ばれてきた。
次の瞬間、冷夏の目が一気に輝く。
厚切りの肉。とろけるチーズ。彩りのある米料理。濃厚なスープ。
湯気と香りがぶわっと広がって、喉が勝手に鳴った。
「すごー! ハルってば、本当にボクの欲しかったやつ全部引いた!
なんて頼れるお人なのでしょー!」
さっきまで疑ってた顔はどこへ行った。手のひら返しが鮮やかすぎる。
「怪しいって言ってただろ」
「だって一言で全部通せるなんて思わなかったんだもん!
でも今、目の前の光景に感動してる! 流石だよハルー!」
「まったく……調子のいい奴だ」
俺も箸……じゃない。フォークを手に取り、肉を口に運ぶ。
「……この世界、料理のレベル高すぎない?」
冷夏が目を丸くして呟く。
「だな。想像以上に美味い」
肉は塩と香草がきちんと立っていて、噛むと肉汁が出る。
チーズは濃いのにしつこくない。
スープは身体の奥まで温めてくれる濃厚さがある。
“異世界は不便”――そんな勝手な先入観が、舌の上でひっくり返った。
周囲の客は豪快に食らいつき、笑い、飲み、皿を叩く。
それに対して冷夏は、一口ずつ丁寧だった。
背筋は崩さず、皿を汚さず、ナイフとフォークの動きに無駄がない。
パンでソースをすくう仕草まで丁寧に見える。空腹のはずなのに、食べ方が乱れない。
――ああ、令嬢なんだな。改めて思う。
「……なにジロジロ見てるの」
気づかれて睨まれた。
「いや、綺麗に食うなって」
「あんまり見ないでよー!
食べにくいじゃないか〜」
文句は言うが、声は明るい。
その明るさが、俺の胸に溜まっていた不安を少しだけ溶かしていく。
食事を終え、会計の時。
俺はさりげなく、隣の卓の支払いを観察した。皿数、量、出した銅貨の枚数。
……この量なら銅貨三枚前後。
俺は銀貨一枚を差し出す。
返ってきたのは、銅貨七枚。読みは当たった。
「すごい……!」
冷夏が感心した顔で言う。
「ハル、完璧じゃん!」
「お前が店見つけたのもな」
「でしょ!?
それにさ――ボクがこの万能ワードを見つけたのもでかいよね?」
胸を張って、にやっと笑う。
「結局、自画自賛に着地するんだな」
「うん!」
即答。清々しい。
腹が満ちると機嫌も戻る。
さっきまでの涙が嘘みたいに……
――いや、嘘では無い。
だからこそ、今笑わせてやれるのは悪くない。
店を出る頃、空は夕焼けから夜へ沈みつつあった。
街灯に火が入り始め、石畳がオレンジに鈍く光る。
夜の治安は未知数だ。完全に暗くなる前に、寝床を確保する。
「次は宿だな」
「任せたー」
冷夏はふにゃっとしている。
胃が満たされると脳まで溶けるタイプか。強がりの反動もあるだろう。
俺は条件を整理し、冷夏にも共有する。
安い。本がある。忙しすぎない。店主が友好的。
少なくとも五日は腰を据えて、言葉と読み書きを上げる必要がある。宿選びを外せば、学習も安全も落ちる。
「なんでそんな条件いるのー?」
冷夏がアホっぽい顔で首を傾げた。完全に思考放棄だ。
「安いのは、金が尽きたら終わるから」
「終わるって、どう終わるの?」
「死ぬ」
「こわ〜」
「本があるのは、文字を覚えるため。店や外じゃ勉強にならない」
「なるほどー!」
分かった顔だが、多分すぐ忘れる。
「忙しすぎない店で店主が友好的なら、言葉を教えてもらえる確率が上がる。こっちも話しかけやすい」
「へー……
確かに教えてくれる人がいればいいよね〜」
「当たり前だ」
「じゃあさ」
冷夏がにへっと笑う。
「任せた〜! あと、おぶって」
「は?」
「お腹いっぱいで眠い。歩けなーい」
「さっきまで元気だっただろ」
「今は別〜。座ったら一気に眠くなった〜」
理屈が雑だ。
でも、強がりの反動が来てるのは分かる。
放っておくほど平気でもない。
「……あと少しだ。頑張れ」
そう言って俺は冷夏の手を引く。
宿を探して通りを流しているうちに、ふと妙なことを考えてしまった。
(……これ、現代で見たらどうなんだ)
手を引く男女。薄暗い路地。宿探し。
状況だけ切り取ると、なんかいかがわしい。
(……いや、違う。必要なのは羞恥じゃない。安全だ)
自分に言い聞かせた、その時。
人の流れの隙間から、ふっと冷たい影が差した。
フードを目深に被った男が、俺たちの横をすれ違う、すれ違いざま、油と鉄っぽい匂いが鼻をかすめた。
武具の手入れを連想させる匂い。
俺は反射的に冷夏の手を引き、男との間に距離を作り境界線を引く。
視線だけで追う。男は歩調を変えない。
けれど――ほんの一瞬だけ、こちらを見た……気がした。
目は合っていない。フードの影で表情は読めない。
それでも「見られた」という感覚だけが、喉の奥に引っかかる。
冷夏は気づいていない。眠気に負けて、俺の手に体重を預けている。
(……今は無視。優先すべきは安全の確保だ)
一歩、二歩。振り返ると男は人混みに溶けていた。
まるで最初からいなかったみたいに。
空はもう、夜と言っても違和感がない暗さだ。
この街の治安が牙をむくなら、今が最悪のタイミングになる。
俺は歩調を上げた。
やがて見つけたのは木造の宿。
大通りから少し外れた静かな通りで、看板の雰囲気も柔らかい。客の出入りは多すぎない。
窓から漏れる灯りが暖かい。
この世界で“暖かい灯り”は、それだけで信用値が上がる。
中に入ると、赤髪の女店主が明るく迎えてくれた。
三十代くらいに見えるが、肌が整っていて若く見えるタイプだ。目の動きが速い。客を見て即座に判断して動ける人の動き。
俺が指で「五」を示すと、すぐに理解したように頷いた。
設備の説明をしようとしたが、冷夏の様子を見るなり「先に休ませてあげて」と言うように部屋へ案内する。
二階の部屋。扉を開けると、内装は簡素だがちゃんとしていた。
ベッドが二つ。丸いテーブルと椅子が二脚。
壁も床も木で、派手な装飾はないが清潔で落ち着く。
――“明日を迎える場所”として合格だ。
冷夏はベッドに座った瞬間、肩から力が抜けた。
「……もう……むり……」
そのまま横になって目を閉じる。
数秒後、寝息が聞こえた。
速すぎる。だが今日はそれだけ神経を使った。
強がって、走って、笑って、怖がって、それでも前へ出て、
――全部を一日でやったのだ。
俺は静かに扉を閉め、カウンターへ戻る。
会計と宿のルール確認。ここを曖昧にすると、明日が崩れる。
店主は既に俺たちの使う言葉が違うと察しているらしい。
銀貨を見せて「一」と指を立て、泊数のジェスチャーも添える。丁寧だ。
“通じない相手に、通じる形で”伝えようとしてくれる。
その姿勢だけで、当たりを引いたと分かる。
俺は銀貨一枚を出す。店主が頷き、受け取った。
次に風呂。
指で時間を区切り、男女の交代を示す仕草――時間制の大浴場らしい。
混浴じゃないのは助かる。いろいろ助かる。
食事の場所も指差しで教えてくれる。
最後に棚の方を軽く示した。そこには本棚があり、古いが丁寧に扱われた本が並んでいる。
理想していた条件に、ほぼ全部当てはまっている。
俺は軽く頭を下げて、部屋へ戻った。
冷夏はもう完全に眠っていた。
夜の不安など気にせず、呼吸だけが静かに揺れている。
その寝顔を見た瞬間、胸の奥で固まっていた緊張がほどけた。
今日一日――冷夏をここまで連れて来られた。
それだけで、俺の中の不安は一段落する。
達成感が、じんわりと広がった。
単語を覚え、子供と遊び、金を確保して、飯を食い、寝床を見つけた。
明日から学べる環境も整えた。
(……今日は、よくやった)
現代ならスマホひとつで済むことばかりだ。
けれどここでは、それが“生き延びる”ための試練であり勝利でもあった。
俺は椅子に腰掛け、今日の出来事をまとめようと紙を広げた。
……が、ペン先が止まる。
緊張が解けた反動が遅れてきた。瞼が重い。
夕方から飛ばされ、そこから一日、徹夜で頭を回して動き続けていた。
気づくのが遅い。身体が先に限界を言っている。
「……明日……やろ……」
呟く前に、息がふっと抜けて――意識が落ちた。
真っ暗な視界の奥に、冷夏を守れた安心感だけが、静かに残っていた。
次回は3日以内に投稿します




