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交渉とプライド

本編2章5話です


えっと…あけおめ

2章5話

《冷夏side》


――石畳の路地の角。

肥えた店主の店がよく見える位置で、ハルが振り返った。


「じゃ、俺が先に入る。様子見る」


そう言って、何でもないみたいな顔で扉をくぐる。


……ほんと、そういうとこは頼もしいんだよね。


一分経過。ハルは戻ってこない。

特段、作戦に対して問題は無いらしい。


扉の向こうから聞こえるのは、くぐもった声と、衣擦れの音と、鈴の小さな余韻だけ。


ボクは日傘の柄を、ぎゅっと握る。


(……行くしか、ない)


逃げたい。正直。

でも、ここから逃げればこの先だってやっていける気がしない……

未来を楽しむなんて、とても言えない……


胸の奥で、小さく息を吐いた。


「……ふぅ」


日傘の影の中で、いったん目を閉じる。


まぶたの裏で、色が落ちていくのが分かった。


さっきまでの金木犀色の光が、ゆっくりと沈んでいく。

代わりに、静かな“藍”が広がる。


水面が落ち着いた湖みたいな色。

余計な感情を一段奥に沈めた、集中の色。


(今だけは、高貴な存在であり交渉する立場だ)


ボクの中にある純粋さを、好奇心ではなく交渉へと向ける。

自分の中にある想いを切り替える――


目を開けると、世界が少しだけ“線”で見えるようになった。

人の視線。物の配置。逃げ道。光の向き。


全部を、一度に、冷静に拾える。


「行くよ、ハル」


誰にも聞こえないくらいの声で呟いて、

ボクは一歩、前へ出た。


日傘を閉じて右手に持ち替え、左手でスカートの裾を軽く整える。

背筋を伸ばして、扉の前に立つ。


……扉の向こうにいるのは、気持ち悪いオヤジと、心配性の幼なじみ。


そして、その先にあるのは

――“今日の寝床”と、“これから生きるための最初のお金”。


なら、決まりだ。


ボクは取っ手に手をかけ、店の中へ踏み込んだ。


カラン、と鈴が鳴る。


薄暗い店内。

木の棚。吊るされた服。

少し湿った布と革の匂い。


視線をすべらせると、すぐにハルが見つかった。

棚の影、ジャケットを手に取るふりをしながら、こっちを一瞬だけ見る。


“異常なし”って顔だ。

その一瞬で、体の中の余計な力が少し抜けた。


(……よし)


次に視線を向けた先――

カウンターの奥に、そいつはいた。


分厚い腹を前に突き出すように椅子に座り、

油で固めた髪を後ろで撫でつけ、

胸元までボタンの開いたシャツ。


太い指で金貨をくるくる回しながら、

入ってきたボクを舐めるように見た。


(……うわ、顔がもう無理)


内心で文句を言いつつ、表情には出さない。


右手で閉じた日傘を腰の横に下ろし、

左手は自然に体の横へ。

足音を殺して、カウンターまでまっすぐ歩く。


一歩ごとに、床のきしみと、ハルの気配が近づく。


“ハルの間合い”に入ったところで、足を止めた。


深呼吸はしない。

する前に、呼吸を静めておく。


そして――


腕に抱えていたブレザーを、そっとカウンターの上に置く。


濃紺の生地が、店の灯りを柔らかく返す。

光沢。縫い目。形。

子どもの頃、ママに選ばれた服たちと同じで、品質が良く仕立ての整ったもの。


ボクは短く言った。


「……セルト(売る)」


店主の目の色が変わる。


「◾︎#△……オウ、セルト。リベル、リベル」


分かる単語は少ないけど、

“リベル(買う)”と、“上機嫌な声”だけで大体読める。


太い指がブレザーの布を撫でる。

裏返して、縫い目をなぞり、肩のラインをつまむ。


……目利きとしては、ちゃんとしてる。

だからこそ、舐められるのは腹立つ。


店主はしばらく布をいじったあと、にやっと笑って、銀貨を並べ始めた。


チリン。

チリン。

チリン。

チリン――


四枚。


「◾︎#リベル、フォル……」

(“一着、四だな”って感じ)


さらに、もう四枚。


チリン。チリン。チリン。チリン。


合計、銀貨八枚。


(……八枚。一着四枚)


さっきハルと確認した“相場”は、一着五枚。

つまり――最初から、“一枚分ずつ”ちょろまかしてるってこと。


しかも店主は、銀貨から視線をボクの胸元へと滑らせ、

にちゃっとした笑みを浮かべながら何か言った。


「◾︎#△、ミルナ・リオナ……フルナ・ベルケ、ハハハ」

(“嬢ちゃん、そんなに高くはならねぇよ”みたいなニュアンス)


言葉全部は拾えない。

でも、“トーン”と“目”だけで充分だ。


(……ああ、そういう感じね)


舐めてる。完全に。

子どもだから、女だから、言葉分からないから――

“安くても分かんねぇだろ”って顔。


ボクの奥で、藍色の感情が少しだけ濃くなった。


ボクは、店主の目をまっすぐ見た。


揺れないように。

笑わないように。


「…………」


一拍だけ、間を置いてから。


口を開く。


「ベルケ(高く)」


店の空気が、ぴんと張った。


言葉だけじゃ足りない。

だから――“姿”で押す。


右手の日傘は、すっと体の後ろへ。

邪魔にならない位置に流して、

左手をゆっくり髪へと持っていく。


焦っている女は、早く動く。

余裕がある女は、ゆっくり動く。


だから、あえてゆっくり。


耳の後ろで髪をすくって、肩のラインに流す。

首筋が少しだけ見えるように。


同時に、片足を半歩だけ前に出す。

つま先は、店主の胸の中心をまっすぐ指すように。


背筋を伸ばし、顎をほんの数ミリだけ上げる。


――ボクは“値踏みされる側じゃない”。


そう言うポーズ。


藍色の視界の端で、ハルの気配がわずかに動く。

棚の影から、こちらを見ている。


(見ててね。ちゃんとやるから)


店主の喉が、ごくりと鳴った。


「◾︎#……ベルケ? ……ベルケ……」

(“高く、ね……欲しがるじゃねぇか”くらいの響き)


ぶつぶつ文句を言いながらも、

太い指が銀貨を二枚、追加した。


チリン。チリン。


合計、銀貨十枚。


(……ここが、ハルの言ってた“目標ライン”)


一着五枚。二着で十枚。

さっきまでのボク達だったら、ここで満足してたはず。


でも――


(あの目のまま、終わるのは嫌)


まだ、店主の視線は“下から見てくる目”だ。

値段では折れても、気持ちでは折れてない。


だから、もう一段階、踏み込む。


「◾︎#△、ミルナ・リオナ……◾︎◾︎」

(“嬢ちゃんさぁ、もっと見せてくれよ”みたいな甘ったるい言い方)


店主の言葉の端々から、

いやらしく甘ったるいニュアンスが混ざる。


気持ち悪い。

でも、その“気持ち悪さ”を利用して、お金を引き出す。


ボクは、もう一度髪に触れる。


今度は、耳の後ろから、首筋、肩のラインへと、指を滑らせる。

さっきよりも少し大きな動きで。


肩をわずかに張り、

体の角度を斜めにして、ラインを強調する。


……でも、“イヤらしく”なりすぎないギリギリで止める。


高飛車な令嬢が、“こちらの格”を見せつける時みたいに。


瞳だけは、ずっと冷たいまま。


【あなたのほうが、試されてる立場】


そう、視線で突きつける。


店主は歯ぎしりしそうな顔をして、

銀貨をさらに二枚、追加した。


チリン。チリン。


合計、十二枚。


(十二……)


胸の奥で、ほんの少しだけ呼吸が乱れそうになる。

けれど、表情は崩さない。


ここまで引き出せた時点で、もう大勝ちだ。

一着六枚。相場よりも一本上。


でも、まだ店主の目に“余裕”が残っている。


諦めていない目。

こっちを“女の子”として見ている目。


(……だったら、最後にもう一押し)


店主がまた何かを言う。


「◾︎#△、◾︎……ミルナ・◾︎◾︎……」

(“もっとよく体を見せろ”って要求してる感じ)


嫌悪感が、喉の奥までせり上がる。


それでも、飲み込む。


ボクは一歩だけ、前に出た。


カウンターとの距離が縮まる。

店主の鼻息が、ほんの少しだけ肌にかかる気がした。


さすがに鳥肌が立つ。

それでも――笑う。


お淑やかな令嬢が、“社交界の仮面”を被った時の笑み。


口角だけを上げる。

目は笑わせない。


閉じていた日傘を、少しだけ持ち上げる。

胸元のラインが、影から“ちょっとだけ”覗くくらいの角度で。


ほんの一瞬、視線をそらす。

頬を、かすかに傾ける。


“勘違いしろ”と言うための、最低限の色気。


(……これ以上は、本当に自分が嫌いになる)


ギリギリのラインで止めたところで――


藍色の視界の端で、ハルの影が動いた。


棚の陰から半歩前へ。

いつでも割り込める位置。


(大丈夫。ここで終わらせるから)


店主の顔が、一気にだらしなく崩れた。


「◾︎#!! ◾︎◾︎、ベルケ! ベルケ!」

(“分かった! 高くしてやる、高くしてやる!”みたいな勢い)


引き出しを乱暴に開け、銀貨を三枚つかみ取る。


チリン。チリン。チリン。


合計――銀貨十五枚。


一瞬、時間が止まった気がした。


十五。

一着七枚半。


(――さすがにもう手札も我慢も限界!)


内心でそう呟いた瞬間、

胸の内側で“藍色”が、すっと熱を取り戻した。


店主は、何かまだ言おうとしている。


「◾︎#△、ミルナ・リオナ、◾︎◾︎……」

(“これだけ出したんだから分かるよな?”みたいな、要求じみた声)


ボクは、それを最後まで聞かない。


ほんの少しだけ、目を細める。


冷たく、薄く、笑う。


その笑みは、

“もうあなたに用はない”

という印象だけを、はっきりと刻みつける。


言葉はいらない。


ボクは銀貨十五枚を手早く布袋に収めると、

ブレザーに視線を落とすこともなく、くるりと背を向け足早に退店する。


伸ばしかけられた店主の手が、空を掴む気配だけが背中に刺さる。


「◾︎#!? ◾︎◾︎=◾︎!? ミルナ、ミルナ!」

(“ちょっと待て! もっと話させろ!”って必死に呼び止めている)


知らないふり。


扉に手をかける。


カラン――鈴の音が、交渉に幕を下ろした。


外の空気は、さっきより少しだけ冷たくなっていた。


扉を閉めた瞬間、

さっきまで張り詰めていた何かがぷつんと切れる。


「……っ……は、はぁぁぁ……」


膝に力が入らなくなって、

ボクは近くの石壁に、どさっと背中を預けた。


呼吸を整えようとしても、

肺の奥がうまく動いてくれない。


藍の色の瞳が、溢れ出した感情と共に金木犀に戻っていくのが分かる。


「お疲れ」


目の前に、見慣れた顔が現れた。


ハルだ。


いつもの、ちょっと気だるそうな目。

でも今は、その目がちゃんと心配そうに細められている。


頭に、ハルの手がそっと乗った。


「完璧だった。相場十枚のところを十五枚。

文句なしの大勝ちだ」


その一言で――


張り詰めていたものが、全部、溢れた。


「……っ、こわかったーーー!」


前が見えなくなる。

視界がにじむ。


胸の奥に押し込んでいた感情が、

堰を切ったみたいに逆流してくる。


さっきの店主の目。

声。

距離。

鼻息。

言葉は分からないのに、伝わってくる“下心”の形。


全部、気持ち悪かった。

全部、嫌だった。


でも、引きたくなかった。


「こわかった、こわかったっ……!

すっごいキモいこと言ってたし……!

なんか、舐められてるの分かるし……!」


自分でも驚くくらい、声が震えていた。


ハルの服を、ぐしゃっと掴む。

胸の前で、子どもみたいにしがみつく。


「分かってる。全部見てた」


背中に、ハルの手が回る。

ゆっくり、上下に撫でられる。


その動きに合わせて、少しずつ呼吸が落ち着いていく。


「もう! もうあんな真似させるなぁ!!

次はハルがやれ!!

ハルが胸チラしてこーい!!」


涙と一緒に、文句があふれた。


言いながら、自分でも何言ってるのか分からない。

でも、止まらない。


「いや無理だろ、それは」


ハルが、ふっと笑う気配がした。


頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。


子どもの頃、悪さしたあとに、よくこうやって撫でられてた気がする。


「本当に頑張った。……冷夏のおかげで、生き延びられてる」


「……ハルが、いたから……できたんだよ……」


声が小さくなって、震えも少しずつ引いていく。


さっきまでの藍色は消えて、

いつもの金木犀色が視界に戻ってくる。


頬を手の甲でぐいっと拭い、

鼻をすすってから、一歩だけ下がった。


「……ご飯、いこ!」


「行くか。ご褒美にうまい肉でも食おうぜ」


「……絶対だからね! もう泣かせたんだから」


「いや俺のせいか、それ?」


「ぜ〜んぶハルのせい!!」


そう言いながらも、ボクはハルの袖をぎゅっと掴んだままだった。


次の話は3日以内に投稿します

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