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怖い話

私の花

作者: 夢野かなめ
掲載日:2026/06/11

「よし、これでいいかな」


 春の陽気に包まれる昼下がり。


 麻美(あさみ)は、額の汗を拭い、小さなベランダで鉢植えを見下ろした。


 ぎゅうぎゅうに詰め込まれた植物棚の鉢を少しずつ移動させ、新しい鉢を一番下の段に据える。未記入の園芸用タグを植木鉢の隅に差し、たっぷりと水を遣りながら、正体不明のその種が、どのような姿を見せてくれるのかを想像し、小さく笑みを浮かべた。


 種は、近所の園芸バザーで手に入れたものだ。


 摩訶不思議な柄の布を敷いた卓の上で、鉢や株分けされた植物、切り花が展示販売されていた。


 木組みの立派な展示台や可愛らしい飾りのブースの間を彷徨い歩く内、麻美はそのブースに目を留めた。


「いらっしゃい」


 歩み寄ると、いかにもな黒づくめの格好をした店主が、麻美に笑いかけた。


「こんにちは」


 そう挨拶を返してから、麻美は卓の上を見回した。多肉植物やエアプランツ、手焼きの鉢に、ピック、園芸道具。どれもしっかりとした世界観を持って製作されているのが判る。


 あまりこうした意匠には興味を引かれない麻美だったが、何故かこの時だけはどうにも魅力的に映った。


 複雑な模様の描かれた小ぶりの鉢を見つけ、慎重に持ち上げる。


「いいでしょう、それ。植物にとって必要なものを寄せ付ける(まじな)いを掛けてあるの」


「へぇ……そうなんですか」


 麻美は少しばかり返答に困ったが、これも世界観の内だと笑顔で返した。


 ──植物に必要な物……日の光、水、空気、ある程度の湿度に、栄養……。害虫は避けて欲しいけど。


「じゃあ、これ下さい」


 値札を見ればたったの四百五十円。凝った手作り鉢なのに随分とお得に感じられた。麻美が財布から五百円玉を取り出すと、店主は薄く笑い、ついと卓の端を指差した。


「そこの種、ひとつ五十円なの。いかが?」


 見れば、小箱の中に様々な形の種が入った小さなビニール袋が収められていた。ビニール袋には、【謎の種】と装飾文字で書かれた紙が同封されている。種の形からは、一体何の植物なのかは判らない。


「大丈夫、どれもそんなに大きくはならないから。一年草だし、育てるのも園芸をしている人なら簡単よ。種を取れば来年も楽しめる」


 麻美は小箱の中を探りながら、内心で舌を巻いた。だから四百五十円なのか。こうして、「種はいかが」と訊かれれば、五十円だし、お釣りもなくなるし、と買ってしまう人は多いだろう。バザーとはそういうものである。


 麻美も思惑通り、「じゃあ、これを」と、直感で選んだ種を差し出していた。


 店主は薄っすら笑って種を受け取り、緩衝材で巻いた植木鉢と共に紙袋に詰めると、五百円玉を受け取った。


「有難うございます。よい園芸生活を」


「こちらこそ」


 麻美は紙袋を受け取ると、そっとトートバッグに仕舞い込んだ。その様子に店主はゆっくりと笑みを深める。ふいに跳ねた心臓を誤魔化すように小さく会釈をすると、麻美はその摩訶不思議なブースを離れた。


 バザーの日から一週間。


 休みの日を使って、麻美は謎の種を複雑な模様の描かれた鉢に埋めた。嫌光性と書いてあったから、種に土を被せ、陰りがちの一番下の段に据えた。


 種と同封されていたメモの裏を確認する。発芽まで約三日。随分と早い。


 麻美は他の植物の世話を終えると、もう一度新しい鉢に目をやってから部屋に戻った。




「おぉ、双葉」


 四日目にして土から小さな双葉が顔を覗かせた。種の皮を被った双葉が可愛らしい。


「んー、これだけじゃ、やっぱり何の花か判らないなぁ。そもそも花なのかな」


 毎朝、仕事前にベランダを覗くのが楽しみになっている。成長を喜ぶだけではない。一体何が育つのか判らないドキドキ感があった。


 本葉が生え、見る見る内に謎の種は成長していった。まるで朝顔のような丸い葉が茂る。


「朝顔……でも種の形は全然違ったし。そういう品種があるのかなぁ」


 麻美は未だ園芸用タグに品種を書き込めないでいる。それでも、すくすくと育っていく謎の種に、愛着は深まっていった。


 蕾がついたのは、初夏だった。


 発芽は随分と早かったが、葉が茂るばかりで蕾がつくのには時間が掛かった。その間、肥料を調整したり、植物図鑑をあたってみたりしたが、一体どんな植物なのかは、未だ判らない。


 謎の種は謎の種の成長速度で育っている。


 花芽の先につく蕾を見ても、花の形を想像することすら出来なかった。


「金魚草みたいでもあるけど……違うかなぁ」


 そうして、ついに蕾が開きそうになった夜。


 ベッドに横になり読書をしていた麻美は、奇妙な音に目を上げた。じっと耳を澄ませると、どうやらそれはベランダから聞こえてくるようだった。


 野良猫の声……それにしては、少し時期がずれている。


 ナァナァというか細い音が途切れ途切れに聞こえてきていた。


 恐る恐る窓際に歩み寄り、カーテンに手を伸ばした瞬間、ふいにその音は止んだ。


 麻美は、一度引いた手をゆっくりとカーテンに掛け、僅かに開けた隙間から外を窺った。


 見えるのは、カーテンの隙間から漏れた光に照らされたベランダと、柵越しに見える外灯に照らされた道、対面のマンションだけだ。マンションの窓には温かい光が灯っている。


 一息にカーテンを引いた麻美は、次いで窓を開けた。


 初夏の昼の残りの熱気を、夜風が吹き攫って行く。


 ベランダの植物に目を留めた麻美は、小さく声を上げた。


「咲いてる!」


 見れば、謎の植物の蕾が柔らかく開き、部屋から差すライトの光に照らされていた。夜闇の中で、薄赤い丸い花弁が小さく揺れている。


 屈みこんでじっくりと花弁を覗き込んだ麻美は、眉根を寄せた。


 薄赤い花弁の中、ポツポツと斑点が浮かんでいる。


「なんか、顔みたい」


 丸い花弁にポツポツと浮かぶ斑点が、それらしい位置に浮いて、まるで人の顔のように見える。薄赤い色のせいもあってか、どこか不気味にも感じられた。


 しかし、その不気味な風貌も、数か月の間丹精込めて育ててきたせいか、だんだんと愛らしい姿に見えてくるような気がし始めていた。蕾はまだいくつもある。


「全部咲いたら、もっと豪華になるのかな。この色も夏っぽくていいね」


 それに応えるように、薄赤い花が微かな音を立てて揺れた。




「あつーい。早く部屋でアイス食べたい。エアコンすぐにつけてね」


 そう言って絵美(えみ)が手で顔を仰いだ。蝉がミンミンと騒がしく鳴き続け、アスファルトに照り返す陽が目に痛い。


「あと少し頑張って。うちってこの時期でも何か涼しいんだよ。まぁ、エアコンもつけるけど」


「えー、そうなの。陽当たりの問題?」


 絵美はパタパタ仰いでいた手を止め、反対の手に持ったエコバックの中を覗き込んだ。


「アイス溶けちゃうよ、この暑さ」


「もう、そこだから」


 麻美が道の先を指差すと、絵美はその先を見上げて小さく頷いた。


「やっと、来られたね麻美の家。引っ越してどのくらいだっけ。一年……」


「一年と二か月かな」


 絵美は大学からの友人で、卒業後も時間を見つけて会ってはいるが、互いに仕事が忙しくて丸一日遊ぶことは殆どなくなっていた。久々に朝から買い物を楽しみ、その後で麻美の家で映画でも見ようという話になったのだ。


「それにしても、こんな時間に移動しようって言ったのは失敗だったかもね」


 エレベーターに乗り込んだ絵美は、鞄から水筒を取り出してぐびぐびと飲み干した。


「アイスの前に冷たいお茶か水かスポーツドリンクか。ある?」


 麻美は思わず小さく笑い、頷いた。


「あるよ。暑いと思ったからどれも準備してる。好きなの飲んで」


「わー、ありがとー」


 今にも溶けそうに絵美は言った。


 エレベーターが五階に着き、扉が開く。


「そこ右ね」


 そう言って指差しながらエレベーターを降りた麻美は、後ろを振り返った。


「絵美?」


 絵美はエレベーターの中で、じっと佇んでいた。


「どうしたの?」


 もう一度問うと、ハッとしたようにエレベーターを降りた絵美は、不安げに瞳を揺らした。


「あのさぁ、ここって……」


 言い淀み、うぅんと唸る。


「ここって?」


「ここって、事故物件とかじゃないよね」


 意を決してそう口にした絵美は、気まずそうに視線を逸らした。


 はた、と脚を止めた麻美は、辺りを見回している絵美に、首を傾げた。


「あー、そう言えば、絵美ってそういうの見えるんだっけ。何か居るの?」


 その言葉に、絵美はぶんぶんと首を振る。


「あ、違うの。私は見えないよ。でも、なんていうか……悪そうなものが判るっていうか……ごめん、こんなこと言って」


 頭を下げる絵美に、麻美は緩く首を振った。


「ううん、大丈夫。私そういうのはあまり信じてないから。まぁ、怖いのは怖いけど。それに、多分どの部屋も事故物件とかじゃないと思う。不動産屋も告知義務がある筈だし。まぁ、隠されてたら判らないけど、そういうのは聞かないかな。お隣さんとかもいい人だし。でも、悪そうなものかぁ……」


 首を捻る麻美に、絵美は顔の前で手を合わせた。


「本当ごめん。なんかエレベーター降りようとしたら急に不安になっちゃってさ。多分、大丈夫。部屋行こ。喉乾いたし」


「大丈夫?」


「うん、大丈夫」


 しかし、部屋に入った絵美は奇妙に顔を歪め、すんすんと鼻を鳴らした。


「え、臭い?」


「あ、違う。ごめん。臭くない。むしろいい匂い」


 玄関に置いたディフューザーに顔を寄せ、笑って見せる。


 しかし、短い廊下を歩き、リビングへと繋がる扉を開いた瞬間、うっと絵美が呻いた。


「ちょっと絵美。本当に、大丈夫?」


 麻美の声に、絵美は小さく震えながら笑みを作ろうとする。しかし、それに失敗し、泣きそうな顔になった。


「ごめん、やっぱり駄目かも。多分だけど、この部屋に何かある」


「何か、ある?」


 疑わしげに繰り返した麻美は、絵美の呼吸が浅くなっているのに気が付いた。慌ててキッチンへ行き、冷蔵庫から取り出したお茶をコップに注いで絵美に差し出した。


「飲める?」


「ん、ありがと……」


 殆ど一息に飲み干した絵美は、少し咽てから顔を上げた。


「私には何も出来ないけど、判るから。何が悪さしてるか判った方がいいよね?」


 麻美は、絵美の勢いに気圧されて、頷いた。


 絵美はすっくと立ちあがると、扉から顔だけを突き出して部屋を見回してから、リビングに踏み入った。手にしていたコップをキッチンに置き、そろそろと辺りを見回す。


「悪いものって……?」


「多分、こっちの方……」


 そう言って、絵美は窓の方にじりじりと歩み寄る。レースのカーテンに手を伸ばし、それを引いた瞬間、絵美は悲鳴を上げ後退った。


「こ、こ、こ、これだよ! なにこれ!」


 絵美は窓の向こうを指差している。ガタガタと震え、視線を釘付けたまま床の上を這い下がった。


「これって……この鉢? これは春頃に園芸バザーで買ったんだよ。種類は判らないけど、ただの花だよ。私、種から育てたから」


 絵美は信じられないというように目を見開いている。


「もしかして、鉢かな。なんかちょっと独特なお店で、模様も複雑で――」


「ううん、それじゃない。草の方。でも……」


 絵美は、言い淀み、苦しそうに言った。


「とりあえずカーテン閉めて貰っていい?」


「……判った」


 深呼吸を繰り返していた絵美は、キッチンの食卓に腰を掛け、ちらちらとベランダを気にしながら、冷たい茶をゆっくりと飲んだ。


「私もよく判らないんだけど、あの鉢の周りに悪いものが集まってる。なんかね、幽霊が出るって言われてる場所と同じ臭いがするの」


「……幽霊」


 繰り返した麻美の頭の中に、ふと店主の声が蘇った。


『植物にとって必要なものを寄せ付ける呪いを掛けてあるの』


 その声は、麻美の脳裏でじっとりと響く。


 ──まさかね。


「だから多分、これがこの辺りの雰囲気を悪くしてるんだと思う。私には何も出来ないから、お祓いとか呼んだ方がいいと思う」


 絵美は、縋り付くような瞳で麻美を見つめた。


「お祓い……」


 麻美の戸惑いを察したのか、絵美はちらとベランダの方を見やってから小さく頷いた。


「それか、鉢ごと捨てちゃうのがいいと思う」


「わ、判った……」


 うんうん、と頷いた絵美は、身を引き椅子の背にもたれかかると「あっ」と声を上げた。玄関に駆けて行き、エコバッグを掲げて見せる。


「ごめん、忘れてた」


 アイスは既にドロドロに溶けていた。


「いいよ。冷凍庫で固めて食べておく」


 アイスを受け取った麻美は、絵美の分の代金を渡そうと財布に手を伸ばしたが、立ったまま動きを止めた絵美に、首を傾げた。


「絵美?」


 絵美は、じっと足元に視線を落とし、もじもじと手を絡ませてから言った。


「ごめん、今日は帰るね」


 部屋に嫌な沈黙が落ちる。


「……そっか」


 玄関でサンダルを履きながら、絵美は念を押すように麻美の手を取った。


「絶対に、早いところあれを処分してね。もしどうにも出来なかったらお祓い出来る人とか探しておくから」


「……うん」


 絵美は、「此処でいいから」と手を振り、出て行った。扉が静かに閉まる。


 ゆっくりとした動作でキッチンまで歩き、引き出しからゴミ袋を取り出した麻美は、ベランダに出ると謎の花を鉢ごとゴミ袋に入れてきつく口を縛った。


 どっと疲れていた。暑さもあるが、思いもよらぬ騒ぎに気持ちが疲れていた。




 いつの間にかソファで微睡んでいた麻美は、微かに聞こえて来た音に目を覚ました。


 スン……スン……スッ……。


 何かを擦るような、いや、すすり泣くような音が聞こえてくる。


 麻美は、ゆるりと顔を上げ、迷いなくベランダに向かった。


 ベランダの隅に口を縛ったゴミ袋が置いてある。その中から、音は聞こえていた。きつく結んでいた口を緩め、中から鉢を取り出した。


 スン……スン……。


 謎の花は、薄赤い花弁から、赤い雫を滴らせていた。花弁に浮かんでいた斑点が、苦痛に歪んだような表情を作っている。


 麻美は、じっと鉢を見下ろし、眉を寄せた。


 無性に泣き出したい気分だった。


「ごめんね。捨てないよ。もう、こんなこと絶対にしないよ。大切にするよ」


 麻美の言葉に、泣き声は少しずつ小さくなって消えた。


 鉢を植物棚の空いたままのスペースに収め、麻美は愛おしむように指先で花弁を撫でた。




『あの後、どう? ちゃんと処分できた?』


 翌朝届いた絵美からのメッセージに、麻美は『うん』とだけ返した。


 すぐに受信音が鳴り、メッセージが表示される。


『念の為家見に行こうか? もしかしたら悪いものが残ってるかもしれないし』


 暫く考えてから『ううん、何も起きてないし大丈夫』と返信し、スマートフォンの通知を切った。


 ベランダに出て、如雨露を取る。水を満たし、植物棚の植物達ひとつひとつに水を遣った。


 捨ててしまうなんて、ここまで育ったのに、花を咲かせたのに可哀そうだ。


 謎の花に水を遣ると、「ふふ」と抜けるような音が聞こえた気がした。




 夏の日から、数か月。


 謎の花は沢山の花を咲かせ、種を付けた。端から萎れ、くしゃくしゃに垂れ下がった花弁の残りが、まるで吊るされた死体のように見える。


 しかし、麻美はそれを不気味だとは思わなかった。


 ゆらゆらと揺れるその姿に、愛おしさすら感じていた。


 ──愛おしい花。私の、花。


 麻美が指で撫でると、ボトリ、と種殻が落ちた。その様は、まるで切り落とされた生首のようだった。


 落ちたそれは、ぱっくりと割れて、中から小さな小さな種を吐き出した。


「来年も埋めるからね」


 種を拾い上げ、麻美は大事に綿に包んだ。


 来年は鏡を準備しよう。合わせ鏡。そうすれば、この愛らしい花にとって、必要なものをもっと沢山寄せ付けられるから。


 オカルトなんて信じてはいない。


 だけど、目の前のこの花は、確かに此処に在るのだから。


「大切に、するよ」


 ふふ……。


 花が、応えた。


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