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第49話ーこの世は欲のぶつけ合い

 高下には撫川の語りは聞こえていなかったが、我猛の様子や狂喜している様から、相手の能力の向上について概ね理解できていた。


 距離を空けて高下と撫川が向かい合う。最終局面だった。


「高下くん、個人的には君のことは全然嫌いじゃないんだ。君はとっても良い生徒だったし、私によく笑いかけてくれた。君みたいな生徒と喋ってると、教師になって良かったと思う時もあったよ」


 この時の撫川の表情は、高下達がよく知るいつもの先生の表情だった。しかしゆっくりと影が差すように、目付きや口元が変わっていく。変わった後の表情こそ、撫川の本質なのだった。


「でもやっぱり、私は自分の利益を優先したい。自分の欲を見捨てないであげたい。思うことを思うがままに、思い通りにやっていきたい。だから私には能力も目録も必要なの」


 聴覚を失っている高下には撫川の言葉は届いていない。高下は返事をするのではなく、ただ自分の想いを述べることにした。この先どんな結果になろうとも、自分と撫川の両者が健在のままであることは有り得ない。その瞬間が来る前に、己が決意を表明した。


「先生、残念ながら、貴方は紛れもなく悪人のようですけど、でも俺は貴方のことを少しだけ尊敬しています」


 曇りなき瞳で撫川を見た。


「自分の行為が善か悪かなどは考えず、ただひたすらに自分の欲に向き合って、欲のままに突き進むその姿勢は…言うならばある意味最も純粋なのかもしれないっす。でもだからこそ」


 全身の力を込めて構える。


「その点においては、俺も負けていない。俺は自分が納得できる道を歩きたい。その道に貴方が立ち塞がっている。貴方の道にも俺がいる。だからこれは法や倫理とは外れた世界での、欲と欲のぶつけ合いなんだと思います。そして断言するけど、俺の欲は決して砕けない」


「私の欲も決して壊せない」


 二人が二人とも信じていた。自身の意志の強固さを。自身の欲の揺らがなさを。


 全身を奮い立たせるこの我欲は誰にも崩せない。その確信に全身が満ちていた。


 高下は思考する。今自分が放てる最大で最強の技は『素晴らしき致命拳』(オーバー・ストライク)である。しかしその射程範囲は『素晴らしき善意』(カインドネス)同様、半径十メートルである。今現在、撫川は射程外にいるためやれることはまだ何も無い。


 そして自分にはハンデがある。撫川の「私に近づくな」という命令が依然効いているため、自分から撫川に近づくことはできない。


 相手から接近し、半径十メートル以内に入ってからが勝負だった。


 さらに『致命拳』(ストライク)が打てるのは一回だけだと判断した。『致命拳』(ストライク)には発動してから次の発動までに五秒ほどのインターバルが発生する。撫川が接近してきたとして、一発目が不発に終わった後で二発目を放つ時間はおそらく無い。チャンスは一回だけだった。


 対峙する撫川も同様のことを考えていた。『無敵の人』(パーフェクト)は今や触れれば勝ちの無敵の能力と化していた。服越しに触っても発動できることは光山に試して実証済みだ。つまり高下のどの部位でもいいから触ることができればその時点で勝利だ。しかしもし万一、相手の懐に飛び込んだうえで能力が不発に終われば『致命拳』(ストライク)の直撃をくらってしまう。尖角の倒れ具合を見るに、あの一撃に耐えられる力は自分には無さそうだった。


 互いが互いに出方を伺っていた。


 数秒、十秒、緊迫の沈黙を破って先に出たのは撫川だった。一心不乱に高下めがけて走ってくる。撫川が射程範囲内に入った瞬間、高下は能力を発動した。


『素晴らしき致命拳』(オーバー・ストライク)


 一瞬で撫川の眼前に現れた高下の右腕が、撫川の頬を叩く――。


 しかし撫川の左腕は、高下が能力を発動する前から動いていた。左手を頬に当てる。その直後に『致命拳』(ストライク)の拳が頬へ飛んで行く。結果として、顔面を隠した左手に『致命拳』(ストライク)は激突した。


 左手の甲に拳が当たった瞬間、各指の中手骨が折れ割れた。指自体も衝撃を受け流せず、メキメキと音を立てて曲がっていく。それでも撫川は歓喜の笑みを浮かべていた。


「私の運が勝った!」


 『素晴らしき致命拳』(オーバー・ストライク)の恐ろしいところは、それがどこから来るか分からないことである。瞬間移動からの不意打ちがゆえに、それは避けることができない必中の攻撃と言えた。そのため撫川は避けることは全く考えていなかった。ただ最も狙われる可能性が高い部位を守ることに専念した。


 能力を使うのが高下の右拳である以上、攻撃の経緯が瞬間移動だとしても、当ててくる箇所は本来右拳が狙うであろう左半身の可能性が高いと予想した。左半身の中で狙うとすれば、一撃で仕留められる顔面か、足を止められる脚部のどちらかだと考え、最後は自身の持つ運に賭けた。そしてその賭けに見事勝った。


 高下の目の前まで辿り着いた撫川は腕を伸ばした。まるでこれからの栄光を掴むかのように、これからの輝かしい未来に手を伸ばすかのように。


 指先が高下の胸に触れた。


「思考を止めろ!」


 この時点で、勝敗は決した。


「私の欲が!運を押し上げたぁ!私の…」


「俺の運が、ほんのちょっぴりだけ上回った」


 高下の凛とした声が撫川の耳に届いた。本来聞こえないはずの声だった。聞こえるべきではない声だった。幻聴か、と瞬時に思ったほどだった。


 しかしそうではなく、高下は凛然とした表情で撫川を見ていた。


 天にも昇る気持ちが少しづつ下降していった時、撫川は指先の感触の違和感に気づいた。


 固いのだ。上着の上から胸を触っているが、皮膚なら必ずあるはずの弾力が無い。


「生徒手帳を胸の裏ポケットに入れていた…その何でもないこだわりが、ほんのちょっぴりの運をもたらしてくれた」


 高下の右手が、撫川の頬に触れた。インターバルの五秒は経過していた。


『致命拳』(ストライク)


 瞬間、撫川の身体が真横に吹っ飛んだ。白い目を剥き出しにして、唾液を吐き散らかしながら壁に激突して、倒れた。


 高下はわずかな時間、ただ立ち尽くして宙を見つめていた。まだ実感は無い。勝利の感覚も、ことを成しえた達成感もまだやって来ない。


 先に疲労がやって来てその場で膝をついた。心身の限界が来ていた。乱れた呼吸を何度も繰り返す。今この場で意識があるのはもう自分だけになっていた。自身の呼吸音だけが耳に届く。


 しかし、自分の呼吸と被さるように別の呼吸が聞こえて、さらにその呼吸は苦痛の呻き声を伴って一際大きくなっていった。


 横を向くと、撫川が全身を震わせながら立ち上がろうとしていた。


「う、く、く、くそ…」


 髪は乱れ、目は高下を見るでもなくどこかを睨んでおり、頬を強打されたせいか口が閉じておらず唾液を垂らしている。壁に激突した際に痛めたのか『致命拳』(ストライク)をくらっていない右腕が、左腕同様にだらりと下がっていた。


「いやだ…いやだ…私は…くそ…掴むんだ…夢…なりたい…自分に…」

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