第29話-襲撃
翌日の放課後、部室に向かう時刻が来るまでの時間潰しとして、教室で光山と雑談していた。
「随分嬉しそうだな」
「おう、今日をもって本入部だからな」
「しかしそんなにお前の能力は活躍できてるのか。俺にはよく分からないけど」
「俺も強くはねえと思うけど、なんだろうな、汎用性っていうのかな、そういうのがあんだわ」
言いながら手のひらを広げると、そこに唐突に辞書が現れた。教室の隅の棚に雑に置かれていた物だった。乗っている辞書を落とすように手を傾けるが、辞書は床に落ちることなく、一瞬で姿を消した。光山が教室の隅を見ると、辞書はもうずっと使われていないという居住まいで棚に置いてあった。
「まぁ確かに便利だな」
「『便利』じゃねぇ。『善意』だ」
「分かってる分かってる」
「なぁ光山、光山は能力が欲しいと思ったことはないのか?」
「何でそんなこと聞くんだ?」
光山が窺うように高下を見た。
「いやさ、俺はこの能力は卒業をもって消えてもいいと思っている。執着は無いんだ。俺に備わってる間は、この能力をトコトン使いこなしたいとは思ってるけどな。でもだからといってずっと持っていたいって欲は無い。綺麗さっぱり消えて青春の一ページになるくらいでもいいと思っている。でもそういう考えとは正反対の奴もいるみたいでさ。そいつらは多分、能力が何よりも大事で重要で、何が何でも持ち続けたいって思ってるわけなんだ」
「まぁ人それぞれだろうな、人の欲ってのは。俺なんかはただ己の欲に忠実だけどな。ゲームしたい、映画見たい、漫画読みたい、死ぬほどモテたい、そういうのをひたすら過ごすことができるほどの金と時間が欲しい」
「分かりやすくて逆にいいな」
「そうだろ。自分に嘘はつけねえ。煩悩の赴くままに俺は行くぜ。ところでそろそろ行かなくていいのか」
スマホを見ると時刻は十五時四十五分になっていた。
「大山寺先輩達、買い出しに行ってるらしいからな。もう部室に戻ってきてるかな」
唐突にノックの音が聞こえてきた。
教室の出入り口を見ると、いつの間にか居た撫川先生が開いている戸をノックしていた。
「そろそろ教室を閉めるよー」
「はーい」
素直に従って帰り支度をする。
「ウンコしてから部室に向かうかな」
「ま、楽しい時間を過ごしてくれ」
※
もうすぐ定期テストが始まるためほとんどの部活動は休みとなっている。校内は静かなものだった。高下は上機嫌に廊下を歩いていた。放課後の静かな校舎の雰囲気も悪くない。
そう思った束の間、向かっている方向からざわめきが聞こえてきた。それは活気のある会話、ではなく悲鳴に近いような喧騒だった。
廊下の突き当たりの角から男子が一名現れた。現れたかと思えばまるで徒競走のように駆け出して向かってくる。すれ違う際に声をかけようと思ったが、男子は一瞬で通り過ぎてしまった。表情は焦燥で満ちていた。
そしてすれ違う瞬間、焦げ臭い匂いがした。
次に二名の男子が駆けてきた。表情に鬼気迫るものがあり、この時点で高下は異様な事態が起きているのだと察した。
「いったい何が…」
言い終わる前に、向こうから声がかけられた。
「火事だ!」
「ヤバいぞ!近づかない方がいい!」
高下が抱いた不安は、ほとんど予知のような確信さを帯びていた。躊躇わずに駆け出した。他にも生徒とすれ違うが、それを目印にして現場を探した。
現場を見た時、思わず呻いた。何もかも不安は的中していた。
現場は今は無き短歌部の部室。つまりは自警会の拠点だった。開け放たれた戸からはもうもうと煙が立ち上ってきて廊下の天井や壁を舐め回していた。戸自体は凄惨なほど黒く焦げている。
「空見先輩!大山寺先輩!」
危険なのは承知だったが、腕で鼻と口を覆って中を覗き込んだ。途端に目が染みる。顔を覆っていても強い刺激臭が鼻についた。
「先輩!」
煙のせいで中の様子が全く分からない。意を決して飛び込もうと思った刹那、二人分の人影が煙幕から現れ出た。
ぐったりとしている男子を、もう一人の男子が肩を貸して出てきた。ぐったりとしている方は顔も髪も服も黒く汚れていてすぐには判断できなかったが、数秒してそれが沙悟であることに気づいた。
「沙悟先輩!」
「早く病院に連れていった方がいい。酷い火傷をしてるよ」
沙悟を部屋から出してくれた男子は知らない人物だった。
「いったい何が起きたんすか?」
「分からない。僕が来たらもう部屋は燃えていて、中から人の気配がしたから入ってみたんだ」
男子から沙悟を受け取り、同じように肩で支えた。
「沙悟先輩!空見先輩達は?まだ中ですか!?」
「ダメだ、気絶してるよ」
男子に言われて焦りはつのった。沙悟をすぐにでも病院に運ばないといけない。しかしまだ取り残されている誰かが室内に居るとしたら、どうあっても救助せねばならない。
その時、か細く弱々しい呻きを聞いた。自身のすぐ横からで、沙悟の顔を覗くと沙悟は今にも消え入りそうであったが瞳に光をたたえていた。
「沙悟先輩!」
「う…高下か…」
「他に部屋に人は居ますか?」
「人は…居ない。俺だけだ…」
ほんの微かな、小さな温かみのような安堵を覚えた。しかし状況は依然として不明すぎた。
「一体何でこんなことに…とにかく安全な所に運びますね!」
沙悟を支えたまま歩き出す。
「能力…能力なんだ…」
「今はあんまり話さないでくだ…」
言いかけている高下を止めたのは、弱々しくも放たれている沙悟の眼光だった。
絶対にこれだけは言わねば、という強い決意を帯びていた。
「そいつの…能力だ…」
高下は、背後に立っている男子の気配を空気で感じていた。その男子の気配は、こちらを心配をしているものではなく、火事に対して恐怖しているものでもなかった。
もっと無機質で、不気味で、この状況にそぐわない冷酷さを持つ気配だった。
「あーあ、言うのかよ」
振り向くと、男子は先程には無かった笑みを浮かべていた。人の神経を逆撫でするような意地の悪い笑みだった。
「顔バレしちゃったじゃないか。かといってこれからお前も再起不能にするってのはな。もう疲れたし、仕事はしたし」
「テメー何者だ…」
「どうせ身バレもするだろうから言うけど、僕は葛西。お前と同じ一年だよ。陽キャのお前には他クラスの隅っこで蠢いてるような僕のことは知らないか」
「尖角の一味か…?」
沙悟を支えたまま拳を固めたが、沙悟が腕を強く握ってきたので我に返った。
「高下…大山寺先輩のところに…行くんだ…。多分校舎外だ…狙われてる…」
「先輩…!」
「早く行け…俺はもういい…生徒手帳は…もう無いんだ…皆を助けろ…早く…」
「そいつを運んでやるよ。多分もう誰かが消防と救急は呼んでるだろうし。僕だって殺人者になりたいわけじゃないからな」
葛西がいやらしい笑みを浮かべたまま提案してくる。屈辱的だった。しかし事態の深刻さは十分理解していた。
「…クソ!」
抱えていた沙悟の腕を下ろし、丁寧に優しく廊下に座らせると葛西に向けてこれ以上ないほど強く睨み、そして翻って廊下を駆け出した。




