第1話-『素晴らしき善意』(カインドネス)
六月に入ったが梅雨の気配はまだ来ておらず、暖かな日差しが校舎内に降り注いでいた。
放課後の廊下を高下裕人は歩いている。ご機嫌だった。室温はちょうど良い。湿りすぎておらず乾いてもいない空気。少し前方に落ちている自分の影は、歩くたびにリズムカルに揺れていて楽しげだ。体調は良い。腹も空いていないし眠気も無い。
ごく普通の、ありふれた充足感を満喫していた。日々のちょっとした豊かさをしっかりと噛み締めることが人生において肝要なのだと、高下は平静から考えていた。
突如、開いている窓からソフトボールが入ってきて、廊下をバウンドして転がってきた。軽く驚きつつも屈んでボールを拾い、窓から下を覗く。
三階のこの場所から数メートル斜め下方、校庭にいる男子生徒二人と目が合った。キャッチボールをしていたらしい。二人とも同学年の見知った顔だった。
「上手いこと開いている所に飛んで良かったな」
見下ろしながら声をかけると、相手の男子は笑って返事した。
「フライボールを投げようとしたらすっぽ抜けたわ。ボール返してくれー」
「もう返したぜ」
高下は喋っていない男子の方を指さす。正確には男子が装着しているグラブに指を向けていた。男子二人は同時にそこを見て、同時に気づいた。
グラブの中には既にソフトボールが収まっていた。高下は投げてもいないし、落としてもいない。
「さすがだな。さすが『便利』」
喋っていた方の男子が再度高下を見上げる。超自然現象を目にした割には反応は薄かった。何が起きているのかは概ね分かっている、という反応だった。
「『便利』じゃねえ。『善意』だ」
高下も特段説明せず、意味深な訂正をしたあと軽く手を振って窓から離れた。こんなことしている場合では無い。待ち合わせの場所に向かわなくては。
進路相談室へ歩みを再開した。
この春に入学した高下は、いまだ校舎や体育館に新鮮味を感じられるほどのルーキーな身分のため、進路相談室に入る必要はこれまで全く無かったし、入ろうと思ったことも無かった。
引き戸の窓から中を覗くと、資料閲覧用に置かれている椅子に、女子が座っているのが見えた。
軽い緊張をごまかすように唇を一回舐めたあと戸を開けた。すぐに女子生徒がこちらを見てくる。
「やあ、よく来てくれた」
「スンマセン、遅刻したみたいで」
「いや、時間通りだよ。座りなよ」
女子はテーブルを挟んで向かいの椅子を勧めてくる。高下は座り、改めて真正面から相手を見た。
男っぽい口調の女子は気の強そうな顔をしていて、何となく運動が得意そうな雰囲気があった。特に変わったところの無いごく普通の女子で、顔は高下の基準で言えば美人だった。
ここで落ち合う以前のやり取りから、女子が二年生の先輩であることは知っていた。
「自己紹介したっけ?」
「したっす。空見先輩」
空見回里は今日の昼休みに、突風のように高下の前に現れて、話したい事があるから放課後に会わないか、と提案してきたのだった。呆然としたまま承諾してしまい、何がなんだか分からないままここで再会した。
ツラの良い女子に放課後呼び出されるということ自体は、サプライズを期待するようなシチュエーションだったが、あまりに面識が無さすぎて「多分そういうことじゃねーだろーな」と高下は比較的冷静だった。
心中にあるのは、初めて来る場所で初対面の人と二人きりで会っているということによる、薄い緊張感のみだ。
「話ってなんすかね」
早速聞くと、空見は小さく頷く。
「うん、単刀直入に聞くと、君って『能力』を持ってるんだよな?」
「はい、あります」
奇妙な問いに、平然と返す。
この高校に在籍する生徒達においては、こんなやり取りはそれほど奇妙でなく、わりと平常のものだからだ。
「しかも『能力』の内容は、人に隠していないと聞く。だから私も人伝てに君のことを知ったんだけど」
「そうすね。普通に使ってるし、普通に見せてます」
「私にも見せてくれないか」
空見の瞳が好奇心で光っている。高下は「うーん、そうすね」と唸りながら、椅子から立ち上がった。自分の制服のポケットをポンポンと叩き始める。
「なんかちょうど良いのないかな。これでいいや」
ブレザーの胸の裏ポケットから取り出したのは、生徒手帳だった。空見はそれを視界に入れた時、瞳の光を揺らして眉を顰めた。一瞬警戒したようだった。
高下はそれに気づかないまま、片手で生徒手帳の端を掴むと、フラフラと揺らす。
「ほい」
次の瞬間、生徒手帳は手中から消えた。
一見してマジックのようでもあるが、当人の高下はもちろん、空見もマジックや手品の類では無いと確信していた。
「消せるのか?」
「いや、移しました。後ろの棚っす」
空見が振り向くと、背後にあった受験問題集の赤本が並んでいる書棚に、もともとそこに置いてあったかのようにごく自然な様子で生徒手帳が置いてあった。
空見はそれを手に取り、高下に差し出しながら話す。
「よかったら詳細を教えてくれないか」
「えーと、自分の所有物を移動させることができます」
受け取った生徒手帳を握ったまま、答える。
「瞬間移動かな。距離は?」
「大体半径十メートルってとこで、逆にその範囲内にある物を、自分の手に取り寄せることもできます」
「名前は付けたのか?」
「えー…『素晴らしき善意』です」




