ほうき星を追いかけて
思い出と呼ぶには生々しい傷跡のような花が足元から咲いて動けなくなる。そんな日常を過ごしていた私にとって、僥倖とも呼べる日々が始まって一年くらいになる。
小説家を目指す私の旅が始まった十年程前から現在まで、私は体調を理由にあまり多くの作品を書くことが出来なかった。自分にとって、この夢を追うことが最適解なのか? そう疑問を持ったこともある。だが、この夢を追うことこそが等身大の私だと信じ、いつもいつも頭と心の中に執筆への熱を置いて私は過ごしていた。
体調を大きく崩して執筆も何も出来なかった数年間もあり、パソコンが壊れて執筆から離れた期間もある。それでもずっと、小説家への夢を追っていた。それは、ほうき星を追いかけて行く夢をずっと見ている感覚でもあった。ああ、私はこのほうき星をずっと――生涯を懸けて――追いかけて行くのだと。いつしか、そう思った。それは自分の意思で決定したことだ。好きなことを仕事にすると苦しくなる時があるかもしれないと、友人に言われたこともある。それでも私はこの道を行くのだと、私は私に誓った。
二〇二四年は今までで一番体調が良く、また、今までで一番小説とエッセイを書けた時間であった。エッセイというものに最も深く向き合った時間でもある。私は小説をずっと書いて来たが、自分の考えや経験を綴るエッセイも好きなのだと気が付いた年だった。
私の頭の中には執筆部屋があり、そこで執筆をする私を妨げたくないのだと、先日、眠る少し前に私に舞い降りて来た。こういったことは稀にある。すぐさま私はスマートフォンにメモを残し、翌日からの私に託しておく。自分というものは日々の中で連続しているものではあるが、全ての思考を記憶しておけるほど完璧ではないからだ。
小説家を目指す上で、インプットとアウトプットのバランスについて良く考える。今のところ私はインプットの方が多いかもしれないと思っている。読書、音楽、映画、アニメ、紅茶。多くの趣味から多くのものを学ぶ。そしてそれを、作品に活かす。還元する。小説家志望というものは得な生き物だと思っている。全ての出来事や思考を、そのままではなくとも物語に還元することが出来るからだ。
例えば、道端に咲くタンポポを見ては、こんな狭い所で咲いて偉いな、頑張るんだよと思い、その時の心情や感情を私は記憶し、物語を書く時に還元する。もっと言えば、私自身に還元する。その私が物語を書いている。逐一がこういった感じだ。そのことを時々、苦しく思う時もある。だが、私は私の感受性を愛しているし、自分の心情や感情を文章で表現し、近くて遠い誰かの心に届けられることに感謝をしている。
小説家になるという夢を私が見付けたのは、成人してから先、何年か後のことだったように思う。私が小学生や中学生の頃は、読書感想文で良く賞を頂き、授業では国語がダントツに好きだった。読書も好きで、自宅の本棚には沢山の児童文学書や図鑑などが収まっていた。漫画も多くあった。本好きの私と弟の為に、両親と親戚が多くの本を購入してくれた。
いつしか私は国語の先生になりたいという夢を持ったが、大人になっても学校に行くのは大変だという思いからその夢には別れを告げた。私はこのまま、読書好きで国語や現代文の授業が好きだったという人間として生きて行くのかと、会社員をしながら思っていた。会社員をしていると、私は疲れ切ってしまって小説をなかなか書けずにいた。しかし、そのような日々でも、私の文章への情熱は尽きることはなかった。
やがて体調を崩して、執筆も日常生活も立ち行かなくなるくらいにはなってしまうのだが、友人の助けと通院のおかげで何とか私は持ち直す。ここに何年もの時間が費やされた。
私は、自分が病状を抱えてしまったことを、今でも苦しく、苦く、思う時がある。本来ならばもっと楽しかったはずの私の時間はつらいままに過ぎ去ってしまい、もう二度と戻っては来ないのだと。
何故、私が? この問いは何百回と思った。だが、今ならこう思うことが出来る。人は皆、病状に限らず、何かを抱えているのだと。何も問題ないというような顔をして歩いている街の人々は、皆、何かしらを抱えている。その人の環境の中で生き、思いを抱えて歩いている。私だけがということは、きっとないのだと。私はそう、思うようになった。それが自分自身を納得させる為の思いであったとしても、私は自分にも人にも優しくありたいという願いを見付けたので、これが私にとって真実だと思うことにした。
私はこれまで、主に体調を理由に沢山の物語を生み出すことは出来なかった。だが、振り返れば私は幸せだった。まるで航海灯のようにして友人が傍にいてくれたからだ。時に行く道を照らし、時に私の傍に留まり、光を与えてくれた。日だまりのようにして、そこにいてくれた。天気のように体調が変わり、それによって心情も変化する私の傍にいることは、きっとつらかったこともあると思う。心無い言葉を私は友人にぶつけてしまったこともある。それでも友人は傍にいて、私の夢を――私自身を応援してくれた。それの、何とありがたかったことか。私に出来ることなどちっぽけで、小説家の夢にも迷いがあって。そんな思いに囚われている時も、必ず友人は私と共にいてくれた。心から感謝している。
今でも多くの迷いはある。このまま小説家を目指して行くことは確定していることだが、いつか芽は出るだろうかと。あるいは、小説家を目指して執筆活動をおこなっていることで既に芽は出ているとして、もう少し茎を伸ばして葉を付けることは可能だろうかと。そしていつか蕾を付け、大きな向日葵のような花を咲かせることは出来るだろうかと。そうやって未来を心配している時間など、ないのかもしれないが。そんな時間などがあるならば、私の全てを懸けて書いたと言える作品を一つ一つ、丁寧に生み出して行くことが大切だとも思う。私はここにいる、と。近くて遠い誰かの心に私の作品を届けたい。その思いは未来永劫、きっと変わらないだろう。
あてどもない、旅なのかもしれない。広く先の見えない海に、ボトル・メッセージを流すような。誰かに、届きますようにと願いを込めて。私は私が納得出来るまで、メッセージを送り続けるだろう。私の書いた物語が、あるいは、ほんの少しの言葉が、その人の心の中で小さな灯になり、道を照らす存在になってくれたら嬉しいと思いながら。
私の旅が終わる時は、きっとないだろう。小説家になれたらゴールではない。多くの趣味や出来事から私は多くを学び、それを作品に還元する。これが私の生涯で尽き果て、終わることはないと考える。小説にしろエッセイにしろ、文章を書くことは私にとってずっと見ている夢であり、現実で生きる為の手段であり、自己表現の一つであると思うからだ。私自身の全てを懸けて、私は私を発信し、受信してくれる人を求め続けるだろう。
何故、そうするのか? その自問には私は明確な答えをまだ持っていない。前述したように、夢であり、生きる手段であり、自己表現であるからという答えも勿論あるのだが、突き詰めれば、もっと深い根っこのところにある私の魂の叫びを物語に変えて綴る祈りのようなもの――と、現時点で思っている。そして、多かれ少なかれ人は皆、この祈りを持っているように思う。小説やエッセイであったり、歌であったり、絵であったり、スポーツであったり、それは様々な形として自分自身から生まれ来るように思う。私はそれが小説やエッセイという文章であったということだ。
私に出来ることは多くはない。苦手なことも沢山ある。だが、文章が私を支えている。小説家への夢が私を支えている。私が書かなければ私一人の中でだけで生まれて消えて行く物語が沢山ある。この多くの物語を文章にして発信することは、私の生涯を懸けての夢と希望になっている。これが私の全てだと、私は自分の思いに誇りを持っている。
執筆においても体調においても人生においても、思うように行かないこともあるだろう。それでも私は前を向く。時々、思い出を振り返りながら。私を支えてくれる存在と共に歩いて行く。
まだ、思い出と呼ぶには生々しい傷跡のような花を私は幾つも抱えている。過去に、その思い出のような傷跡のような花を全て捨てて歩いて行こうかと考えたこともあった。だが、そうは出来なかった。現在の私が記憶している思いの全ては宝物だった。綺麗な思い出ばかりではないのに、私はそう強く思った。どれ一つ欠けても私は私ではなくなるだろう。現時点でそこには病状すらも含まれる。私が私であるということには大きな意味があり、自分自身、必要性を感じている。今の私だからこそ書ける物語があり、届く心があると思っている。
新しい年、二〇二五年が訪れた。この年が、二〇二四年よりも体調が良く、多くの作品を書ける時間になることを私は切に願う。そして、小説家になれるように。その決意を新たにし、また、等身大の私で過ごせるよう、私は私に心から願う。私の長い旅が、これからもずっと物語と共にありますように。