『転勤無双!JETRO若手官僚、地域課題を斬る』
第一話 焼酎と桜島と僕のスーツケース
四月の東京、桜がまだ名残を留めている。
田島新は、辞令を握りしめて人事課の前で立ち尽くしていた。
「鹿児島……貿易情報センター……?」
新人研修の最終日、同期の多くが大阪や名古屋といった大都市に配属される中、彼だけが南国の地をあてがわれた。
スーツケースひとつで飛ばされる新人など、誰が想像しただろう。
「お前さぁ、ほんとに新人かよ!?」
鹿児島に着いたその日の午後。
焼酎メーカー「黒嶺酒造」の社長室で、新はいきなり怒鳴られた。
目の前の社長、六十を超える強面の男、神崎巌が机を叩いている。
「海外? 馬鹿言うな!うちは代々、地元相手に焼酎だけ作っとりゃ良かとや!」
地方企業にありがちな内向き志向。
けれどJETROの使命は、その閉じた扉を叩き壊すことだと、研修で習った。
問題は、どう叩き壊すか、だ。
夜の繁華街を、真新しい革靴で歩き回った。
居酒屋、バー、観光案内所、ホテルのロビー……
「海外のお客さん、どこで何を求めてるのか教えてください!」
頭を下げて回った。若造が滑稽に映ったかもしれない。
でも田島新には、これしかなかった。
三日目の朝、眠気をこすりながら神崎社長に再び会った。
「神崎社長!海外で無理に売るんじゃありません。
鹿児島に来てもらえばいいんです。
観光と一緒に、蔵で焼酎を学んで、飲んでもらうんです!
ついでにSNSで拡散してもらう!
そのお客さんが、国に帰っても飲みたくなる……それが、海外販路です!」
神崎は黙っていた。
窓の外、桜島が噴煙をあげている。
「面白か……お前、何者や?」
「JETROの新人です!」
二週間後、黒嶺酒造の蔵には外国人観光客向けの英語ツアー看板が立った。
台湾の旅行会社と組んでツアーが組まれたのだ。
出来すぎだと思ったが、現場の熱気は勢いに乗った。
初めての出荷が決まった夜。
田島は蔵の裏庭で、一人で缶ビールをあおった。
東京から持ってきたスーツは、もう埃と焼酎の匂いが染み付いていた。
翌朝、本部からメールが届いた。
『田島新 様
鹿児島でのミッション成功、おめでとうございます。
次任地:北海道札幌貿易情報センター
着任日:一週間後
ミッション内容:地元水産業の海外販路拡大および人材育成』
田島は笑った。
スーツケースに詰めるものは、相変わらず少ない。
「はい、行ってきます。次は北の大地ですね……!」
こうして、JETRO若手官僚の旅は続く。
【第一話 完】
第二話 流氷の街と消えゆく漁港
鹿児島の青い海と桜島の灰色の煙が遠ざかっていく。
東京に戻ることもなく、田島新の次の任地は北の大地、北海道・札幌。
「人生で、雪道を運転したこともないんだけどな……」
空港に降り立ったその足で、雪が残る国道をレンタカーで北へ向かう。
今回の担当は、札幌センター経由でオホーツク沿岸の小さな漁港に派遣される形だ。
冬の海産物、ホタテと毛ガニの出荷量が年々減っている。
若者は都会に出ていき、残るのは年老いた漁師と錆びた加工場。
どこにでもある過疎の現実が、ここにもあった。
「わざわざ東京の役人さんが何しに来たんだね。」
氷点下の冷たい会議室。
漁協の会長、五十嵐善吉は、田島を睨みつけるように迎えた。
「うちはな、昔からカニとホタテだけで食ってきたんだ。
だけど海が変わっちまった。魚が獲れねえ。
海に文句言えるか?あんたにできるのか?」
田島は、頭を下げた。
答えはわからない。だが、諦めるために来たわけじゃない。
一週間の足掻き
凍てつく漁港に泊まり込み、田島は朝から港で漁師に混ざった。
毛ガニの選別、ホタテの梱包、時にはトラックの助手席で市場まで走った。
若い漁師の一人がぽつりと言った。
「漁だけじゃもう食えねえ。
けど親父も爺さんも海で生きてきたから、俺も海から離れられねえんだ。」
その言葉が、田島の胸に刺さった。
打つ手
ある夜、民宿の畳部屋で地図とノートを広げた。
冷たいインスタントコーヒーをすすりながら、思考を巡らす。
獲れないなら獲れないなりの稼ぎ方を――
産直サイトの強化?
冷凍技術の高度化?
いや、全国どこでもやっている。
「……体験だ。漁業体験だ。やるならここでしかできない漁業ツーリズムだ。」
流氷と共に生きる港。
海が凍る港だからこそ、冬の海上体験ツアーは独自の武器になる――。
新しい波
次の漁協会議。
田島は、氷点下の会議室でスライドを投影した。
「氷の海で漁を体験するツアーを売りませんか?
漁師さんが船頭で、都会の人が一緒にカニを引き上げるんです。
終わったら漁師小屋でカニ鍋と熱燗を出す。
その体験をインフルエンサーが発信すれば、漁港が観光資源になります!」
老漁師たちは黙った。
しかし一人が笑い出した。
「おもしれぇ……やってみるか。どうせこのまま死ぬよりゃマシだ!」
新たな旅立ち
ツアー第一便は、SNSで話題になり道外から客が集まった。
若い漁師たちが自分でツアーガイドを兼ね、笑顔で客を案内する。
港に笑い声が戻ったのを見届けた頃。
また、田島のスマホが鳴った。
『次任地:四国 愛媛貿易情報センター
任務:みかん農家の海外販路多様化支援』
田島は漁港に別れを告げ、雪の道路を札幌へ戻った。
「次はみかんか……海の次は山だな!」
第三話 みかん畑とオレンジ色の夕日
札幌の吹雪から一転して、四国の空はやわらかく霞んでいた。
愛媛の松山空港に降り立った田島新は、機内で食べた蜜柑キャンディの包み紙をポケットにねじ込んだ。
「海と雪の次は……みかん。胃袋が四季折々だな。」
辞令はこうだ。
「みかん農家の海外販路多様化」
愛媛の柑橘は全国ブランドだが、海外展開は競争が激しく、価格競争に巻き込まれがちだった。
みかん王国の憂鬱
県内最大のJA本所の会議室は、みかん箱が積まれた倉庫のようだった。
集まった農家代表たちは、口をそろえた。
「海外? もうさんざん試したよ。輸送コストが高いんじゃけん。」
「高品質を求めるバイヤーは、うちは小さい農家が多いから量が揃わんのよ。」
「結局、大手ブランドに全部持ってかれるんじゃ。」
疲れた顔。
けれど田島は、またしても諦めない。
畑のリアル
田島は、レンタカーで山あいの段々畑を回り始めた。
農家の納屋で、お茶をすすりながら、黙って話を聞いた。
「昔は子供らが手伝うけど、今は都市に出とるけん……わしら年寄りばかりよ。」
ある農家の孫娘が、東京から帰省して手伝っていた。
彼女のスマホには、山のみかん畑を背景にした動画が並んでいた。
「SNSで売れませんかね?若い人って、景色込みでみかんを買うんじゃないですか?」
田島の頭に、電球がともった。
オレンジ色の革命
田島は県庁を走り回り、JAの若手と結託し、農家の孫世代を集めた。
彼らのスマホが、新しい武器になると信じて。
「輸出単価を上げるには、ブランドを『みかん』だけにしない。
みかん畑を『体験』にするんです!」
日本人も外国人も、みかん狩りはやったことがない人が多い。
現地で収穫して、農家民宿で食べる。
SNSで映える写真が撮れる――。
みかん畑の夕日
プロジェクトの初日、田島は収穫体験ツアーの先頭でオレンジ色の果実を摘んでいた。
海外から来た旅行者が、夢中で写真を撮る。
若い農家の孫娘が英語で説明をする。
田島は、その後ろでヘルメットを被りながら笑っていた。
「これなら……次に繋がる。」
また、次の風が吹く
東京の上司からメールが届いた。
『田島新 様
愛媛でのプロジェクト、お疲れさまでした。
次任地:東北・秋田貿易情報センター
任務:伝統工芸品の海外販路開拓と後継者不足対策』
田島は段々畑の上に立ち、沈む夕日を背にスマホを掲げた。
「秋田……次は雪国に戻るのか。
俺のスーツケースも、まだ旅をやめさせてくれないらしいな。」
【第三話 完】
『転勤無双!JETRO若手官僚、地域課題を斬る』
第四話 雪と工芸と、嘘つきの君へ
雪国、再び
愛媛の陽だまりから一転、東北・秋田の冬は容赦なかった。
空港を出た瞬間、吹雪のような風が顔を打つ。
田島新は、小さなキャリーバッグを盾に歩き出した。
「海もみかんも、今度は……伝統工芸か。」
秋田での任務は、古くから続く桐細工の工房を海外に売り込むこと。
そして、後継者不足をどうにかすること。
正直、これまでで一番やっかいな課題だった。
桐の香と若女将
秋田市内からさらにバスを乗り継ぎ、山間の町にたどり着いた。
雪に埋もれた古い工房の暖簾をくぐると、かすかに桐の木の香りが漂っていた。
出迎えたのは、年老いた工房主の娘、阿部 志乃。
田島より一つ年下、着物姿に控えめな笑顔。
「遠いところを……JETROの方って、もっと偉い人が来るんだと思ってました。」
「一応、派遣では僕が最前線なんです。
まだ三年目ですけど。」
志乃の笑顔には、どこか影があった。
終わる町
工房の作業場には、年配の職人が三人だけ。
機械音もなく、静かな手仕事の音だけが響いている。
「爺さんたちが死んだら、ここも終わりです。
私一人では、継げませんから。」
志乃は淡々と言った。
田島は思わず声を荒げた。
「諦めないでください!
海でも、みかんでも、諦めなかったからなんとかなったんです!」
しかし、志乃は俯いて、かすかに笑った。
「嘘ですね。それで全部が救えるわけじゃない。」
その言葉が、田島の胸に突き刺さった。
夜の小料理屋で
その夜、田島は町の小さな小料理屋で一人で酒を煽っていた。
「なんだ俺……全部自分で何とかできる気でいたのかよ……」
テーブルの向こうに、秋田センターの先輩・村尾が座った。
無口で仕事一筋の切れ者だと評判の人だ。
「田島。お前、地域振興は奇跡じゃない。
奇跡が起きるまで地べた這い回って、泥水を飲み続けるのが俺たちだ。」
村尾は杯を置いて、立ち去った。
嘘つきの君へ
翌朝、田島は再び志乃を訪ねた。
今度は怒鳴るのでも慰めるのでもなく、真っ直ぐに。
「志乃さん。僕は、嘘つきでもいい。
嘘でも言い続けないと、誰も動かない。
桐細工の価値を、世界に広める方法を一緒に探してくれませんか?」
志乃は雪の中で、泣き笑いした。
「……私も嘘つきです。
本当は、諦めたくなんか、なかった。」
新しい物語
田島は村尾と共に、クラウドファンディングで「桐の宝箱プロジェクト」を立ち上げた。
世界に一つだけの桐細工を、職人の名前と歴史ごと海外の顧客に届ける。
志乃はSNSライブで工房を紹介し始めた。
彼女の優しい声と桐細工の美しさに、海外からも反応が来た。
冬が終わる頃
桐細工の初海外発送の日、志乃が田島に言った。
「田島さん……ありがとうございました。
もう少しだけ、嘘をついて頑張ってみます。」
田島は笑った。
「嘘つき同盟ですね。」
彼のスマホが鳴る。
次の辞令が届いていた。
『田島新 様
次任地:九州・福岡スタートアップ支援オフィス
任務:地方起業家育成と海外投資家誘致』
【第四話 完】
第五話 福岡スタートアップと桐細工の約束
春の福岡
春の風が港から吹き込む。
田島新は博多駅の人混みを抜けながら、胸の奥で小さく深呼吸した。
「伝統工芸も、海も、農家もやった。
次は……スタートアップか。」
福岡スタートアップ支援オフィスの任務はこうだ。
地方の若手起業家を世界へ売り込む。
世界の投資家を地方に呼び込む。
今までの“物”から、“人とアイディア”を支援する難しさ――。
新任のくせに、また無茶振りだった。
不安と再会
着任早々の起業家ピッチイベント会場。
緊張する若い起業家たちの中で、田島も資料を抱えて右往左往していた。
その時、見覚えのある着物姿が目に入った。
「……志乃さん!?」
人混みの向こうに、志乃がいた。
秋田で別れたきり、連絡もなかったのに。
彼女は笑った。
「お久しぶりです、田島さん。
桐細工を海外の投資家に直接見てもらいたくて……
福岡に呼んでもらえたんです。」
スタートアップの中の桐細工
このイベントは、AIやIT、バイオ……最新の起業家だらけだ。
志乃の桐細工など、誰が目を留めるだろう?
だが田島は腹を決めた。
志乃の工房も、立派な“スタートアップ”だと証明してみせると。
会場での志乃のプレゼンは、控えめだが誠実だった。
職人の手の跡が残る宝箱。
伝統を守りながら、新しい価値を生む挑戦。
熱心に耳を傾ける投資家は少なかった。
けれど、確かに何人かの目が輝いていた。
波乱の夜
イベント後、二人で博多の屋台に腰掛けた。
豚骨ラーメンの湯気が春の夜風に溶けていく。
「ごめんなさい……やっぱり無謀でしたね。
こんなにITばかりの場所に、桐細工を持ってきても……。」
志乃は小さく笑った。
泣いているようにも見えた。
田島は箸を置いて、彼女の手を取った。
「無謀なのは、俺だって一緒だ。
でも志乃さん、覚えてますか?
嘘でも言い続けるって。
嘘つき同盟は、まだ続いてます。」
志乃の肩が小さく震え、笑い声が零れた。
春の突破口
翌日。
田島は志乃をIT起業家の一人――地元出身の若きVR開発者に引き合わせた。
「桐細工を、バーチャル体験できるようにするんです。
海外のバイヤーが、工房に来なくても中を覗ける。」
志乃の目が見開かれた。
伝統工芸と最新技術の融合。
これこそ、福岡のスタートアップ支援で生まれる“新しい物語”だと田島は確信した。
また、旅立つとき
桜が咲き始めた頃。
VR工房ツアーのテスト版が成功し、志乃は東京の展示会へ招かれることになった。
志乃は博多駅の改札で田島に頭を下げた。
「田島さん……ありがとう。
嘘つき同盟、これからも嘘をついて、夢を追いかけます。」
田島は笑って、手を振った。
「次は東京で会いましょう。
その前に――俺はどこに飛ばされるかな。」
スマホの通知音が鳴る。
『田島新 様
次任地:沖縄イノベーションオフィス
任務:離島の観光リブランディングと海外誘客』
田島は小さく息を吐き、春の空を見上げた。
【第五話 完】
第六話 珊瑚の海と、観光の約束
南国の空
沖縄本島の青い空は、四月の東京とは別世界だった。
田島新は那覇空港で深呼吸をする。
あの雪の秋田、博多の屋台街から一気にここだ。
春というより、すでに夏の匂いがする。
「離島の観光リブランディング……
さて、今回はどんな無茶が待ってるかな。」
スーツケースを引き、レンタカーでさらにフェリー乗り場へ向かう。
今回の現場は、本島ではなく、小さな離島の集落だった。
サンゴとさびれた浜
離島は、海の青さは申し分ない。
白い砂浜、揺れる椰子の木。
けれど、肝心の観光客は減る一方だった。
島の民宿を切り盛りする比嘉盛男おじいが、田島にぼやく。
「海がきれいなだけじゃ、もう人は来ないさー。
大きなリゾートホテルに流れてしまってな。
ここは古い民宿ばかりさ。」
比嘉おじいの背中は、潮風に晒された漁船みたいに曲がっていた。
一人で考えた夜
集落に一軒だけの食堂で、田島は島豆腐をつまみながら手帳をにらんだ。
「ホテルの豪華さでは勝てない。
けど、ホテルにはできないことが、ここにはあるはずだ……。」
テーブルの端に、志乃からのメッセージが届いた。
【桐VRツアー、海外のバイヤーから注文が来ました。
嘘つき同盟、まだ続いてますよ!】
思わず笑みがこぼれた。
新しい宝
翌日、田島は比嘉おじいと一緒に、昔ながらのサンゴ礁の浜を歩いた。
潮が引いた浜辺に、島の子供たちが素足で駆け回っている。
「ここは、おじいの宝物ですね。」
「そうさ。昔は観光客も子供たちと一緒に貝拾いして遊んだ。
けど今は、誰も海に入らん。みんなプール付きホテルさー。」
田島は膝に手をついて笑った。
「なら、もう一度ここを宝物にしましょう!
海を“体験”できるツアーを作るんです!」
みんなの海
民宿の若い後継者たち、地元の漁師、そして移住してきたカメラマンの青年。
田島はみんなを巻き込んだ。
小さな民宿を拠点に、サンゴ保護体験、漁船クルーズ、浜でのBBQ。
スマホでシェアしたくなる“島の暮らし”を丸ごとパッケージにする――
それは大手ホテルには絶対に真似できない、“人”が宝の島ツアーだった。
出港の日
試験ツアーの初日、快晴。
笑顔の観光客が浜に並んだ。
田島は比嘉おじいに背中を叩かれた。
「JETROの兄ちゃん、ありがとな。
いつでも遊びに来いさー。」
スマホが震える。
志乃から写真が届いた。
工房で作った新作の桐細工が、VRブースで展示されている様子だった。
【次は東京で会いましょう。
田島さんの話、いつか聞かせてください。
沖縄の海の話も。】
新しい波の音
帰りのフェリーの甲板で、田島は潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
スマホには次の辞令。
『田島新 様
次任地:東京本部 戦略企画部
任務:地域プロジェクトの全国展開と国際戦略立案』
「……とうとう本部か。」
波の音が答えるように響いた。
【第六話 完】
第七話 東京本部と、嘘つき同盟の約束
春、東京
桜が咲き乱れる丸の内のオフィス街。
田島新は、四年ぶりに東京の空を見上げていた。
JETRO本部・戦略企画部。
全国各地で撒いてきた種を、今度は一つに束ねて世界へ発信する役目だ。
沖縄の珊瑚の海も、愛媛のみかん畑も、秋田の桐細工も――
すべてを繋ぐ、大きな地図が田島の頭の中にあった。
「全部まとめるんだ。俺の足跡ごと。」
嘘つき同盟、再会
本部の会議室に一人の来客が通された。
着物姿の、あの人だった。
「お久しぶりです、田島さん。」
阿部志乃は少しだけ痩せていたが、瞳の奥の強さは変わっていなかった。
田島は思わず口元が緩む。
「桐細工だけじゃなくて、沖縄のツアーも繋いでくれって?
嘘つき同盟、どんどん仕事を増やすなぁ。」
志乃は小さく笑い、田島の目を真っ直ぐ見つめた。
「……おかげで、嘘つきのままじゃいられなくなりました。
私、本当に職人として生きるって決めましたから。」
本部の夜
新しい地域プロジェクトの合同企画書を作るため、二人は深夜の会議室に缶コーヒー片手に並んだ。
パソコンのモニターに映るのは、各地の写真。
桜島の焼酎蔵、流氷の漁港、みかん畑、秋田の工房、沖縄の浜辺。
「全部、俺と志乃さんが撒いた種だな。」
「……私が撒いたのは、田島さんがいてくれたからです。」
志乃の指先が、田島のマグカップに触れた。
心臓が少し跳ねた。
すれ違いの時間
でも――
田島には本部の次のプロジェクトが待っていた。
世界中の投資家を日本に呼び込む国際戦略の立案。
志乃は、海外の工房ツアーの新規契約で欧州を回る予定だった。
進むほどに、二人の距離は“全国”から“世界”に広がるほど遠くなる。
本音と告白
志乃が夜風の吹く本部ビルのテラスで、カーディガンを押さえながら言った。
「田島さん……
いつか本当に嘘がなくなったら、私……
あなたに言いたいことがあります。」
田島は肩を並べて、春の夜景を見た。
「俺はもう嘘つきでいいですよ。
だから、その時は志乃さんが全部、本当を言ってください。」
志乃が笑った。
桜の花びらが風に乗って二人の足元に舞い落ちた。
新しい朝
数日後、志乃は欧州へ旅立った。
田島は国際会議でシンガポールへ飛んだ。
離れても、二人の胸には同じ言葉があった。
「嘘つき同盟は、いつか本当になる。」
【第七話 完】
最終章 世界と君と、嘘のない未来
世界を駆ける
田島新は今、シンガポールの国際展示場に立っていた。
世界中の投資家、メディア、起業家――
何十か国の言葉が飛び交い、熱気が渦巻いている。
彼の背後のブースには、日本列島の形をした大きなスクリーン。
桜島の焼酎、オホーツクの毛ガニ、愛媛のみかん、秋田の桐細工、沖縄の島ツーリズム。
すべてが映像となって世界に紹介されている。
田島が撒いてきた種が、今や世界と直結していた。
世界のどこかで
桐細工の展示ブースでは、阿部志乃がVRゴーグルを手に、外国人バイヤーに英語で説明している。
二人の視線が、会場の向こうでふっと重なる。
志乃は小さく手を振り、口の形で「Good luck」と伝えた。
田島は頷き、胸ポケットのペンを握りしめた。
「嘘つき同盟を、ここで終わらせる。」
世界を繋ぐ言葉
JETROの戦略発表会見。
田島は無数のカメラの前に立った。
これまで何百回と地方で頭を下げ、雪に埋まり、海に飛び込み、汗を流してきた。
そのすべてが、たった一つの言葉に集約された。
「私たちは、地方の物を売るのではありません。
そこで生きる“人”と“物語”を世界に届けます。
日本を“地方の集合体”ではなく、“物語の集合体”として売り込みます。」
拍手が鳴り止まなかった。
すべてが終わった夜
シンガポールの海沿いのバー。
会場の喧騒が遠くなり、潮風の音だけが聞こえる。
田島と志乃は、隣同士でカクテルグラスを置いていた。
「嘘つき同盟、卒業しませんか?」
志乃がぽつりと言った。
田島はグラスを置き、志乃の手を握った。
「じゃあ、本当のことを言います。」
一拍置いて、田島はまっすぐに志乃を見た。
「好きです。
ずっと、嘘つきながら、ずっとずっと。」
志乃は笑い、目尻に光をためた。
「……私も。
嘘じゃないです。」
約束の場所
数か月後――
東京の桜が満開の頃。
JETROの本部ビルの屋上。
再び、あの日と同じ夜風が吹いている。
田島は小さな箱を取り出した。
中には、志乃の作った桐細工の指輪ケース。
「志乃さん。
嘘つき同盟の最後の仕事です。
俺と、これからも一緒にいてください。」
志乃は涙をこらえて笑い、首を縦に振った。
「はい――嘘じゃないです。」
物語のその先へ
桜の花びらが夜風に舞った。
日本の小さな物語が、今や世界に届いている。
そして二人の物語も、誰よりも真っ直ぐに、
嘘のない未来へ続いていく。
【最終章 完】
▶ そして未来へ…
番外編 嘘のない世界を、君と旅する
新婚旅行という名の出張
桜満開の東京を離れて、
田島新と志乃の新婚旅行は――案の定、仕事込みだった。
初めの行き先はイタリア・フィレンツェ。
桐細工と日本の地方物産を欧州の高級インテリアブランドとコラボする企画に、
「新婚兼プロジェクト視察で来てください」と、上司から笑顔で言われた。
志乃は、結婚指輪より重いサンプルケースを持っている。
フィレンツェの街角で
美術館、石畳、ジェラート。
志乃は嬉しそうに写真を撮りまくる。
「新婚旅行っぽい写真、撮っとかないと。」
「俺が撮るから、志乃さんこっち向いて。」
カメラを構えた田島を見て、志乃はくすっと笑う。
「呼び方、まだ『志乃さん』なんですね。
もう“奥さん”でいいんですよ?」
田島は耳まで赤くしてシャッターを切った。
世界中が仕事場
イタリアの次は、フランス・パリへ。
志乃の桐細工が、パリのデザイナーの目に留まって、工房ツアーが現地メディアに取り上げられた。
さらにロンドン、ニューヨーク、シンガポール――
世界各地で二人は仕事をして、合間に観光して、また打ち合わせをして。
ホテルの夜
ある夜。
ロンドンの小さなホテルの一室。
スーツケースだらけの部屋で、志乃が膝にアルバムを広げた。
「これ、全部が新婚旅行って言えるのかな。」
「んー……全部、仕事だけどな。」
「……でも、全部、あなたと一緒だから、いいんです。」
志乃はそっと田島の肩に寄りかかった。
小さな家族
一年後。
東京のマンションに久々に戻ると、志乃のお腹は少しふくらんでいた。
「……とうとう“嘘つき同盟”じゃなくて、本当に“家族”ですね。」
「ああ。俺の一番のプロジェクトだ。」
お腹を撫でながら、志乃は笑った。
旅は終わらない
子どもが生まれても、二人の旅は終わらない。
田島は子どもを抱っこ紐に入れて海外の展示会へ。
志乃は工房ツアーのライブ配信の横で、赤ちゃんにミルクをあげる。
「パパとママは、ちょっと変わった仕事人だからな。
世界が君の庭みたいなもんだ。」
田島の声に、赤ちゃんはご機嫌に笑った。
物語は続く
田島新。
阿部志乃。
そして、二人の小さな“嘘のない物語”。
日本の地方を世界に繋ぐ――
それは、この家族の旅の形でもある。