第二話 光仁天皇
㈠令和7年現在――甲斐駒ヶ岳 幽宮
光仁天皇は静かに語る。
「……私は父から、そして荘司翁からこの話を聞かされた。
終戦直後、米国は“血の正統”を奪おうとした。だが、彼らは知らなかったのだ。
天皇とは“制度”ではない。万民のうちに宿る、想念であることを。
我らは表には出ぬ。だが、忘れられてはならぬ。
晴臣の死もまた、歴史の選択の前触れだ。
藤代議員の計らいによって、尊陽と御春女御が結ばれれば、それは再び“魂の皇統”が浮上する刻となる。
そして、我が血に眠るあの未遂の記憶が、再び火を吹く時でもあるのだ。」
こうして、かつて潰された“天皇交替”の亡霊が、70年の時を経て、再び水面下に浮上しつつあった。
だが今回は、外からの強制ではない。
――**日本人自身の手による“皇統の再定義”**が問われる時代の幕開けとなる。
〔明治45年(1912年)・大和国千早赤阪村――〕
楠の里。
その名が示す通り、ここは楠木正成の末裔たる楠木家の故郷である。
その年、最後の明治天皇が崩御した春、村の小さな屋敷で一人の男子が産声を上げた。名を**荘司**という。
楠木本家・十五代当主である楠木正範は、代々この地で神職と学問を受け継ぎながら、目立たぬ形で後南朝の精神継承者として暮らしていた。
その家は小さな祠を守るだけのようにも見えたが、裏では**修験者・古神道の司祭・密教の僧侶らによる“影の結社”**の中心でもあり、天皇不在の時代に備えた「もう一つの朝廷構造」を密かに維持していた。
《少年期 ― 古代の声に包まれて》
荘司が初めて「後醍醐天皇」の名を学んだのは5歳の時だった。
父・正範は、寝る前に古びた巻物を開き、幼い息子に言った。
「これが建武中興だ。王道を取り戻さんとした、後醍醐の夢よ。」
荘司はそれを空想の英雄譚のように感じたが、ある夜、正範に連れられて訪れた裏山の洞窟で「秘祭」に参加し、深夜、松明の火の中で誓詞を唱える古老たちの姿を見て、胸の奥に“神聖な使命”のようなものを感じた。
「おまえは、正成公の血を引く者。その血は、刀に非ず、祈りと継承の器である。」
以後、荘司は10代から密教・古神道・古代漢文典籍の教育を受け、民俗学者の名を借りて伝統思想を護る道を歩むようになる。
《青年期 ― 帝都にて、封印と覚醒》
昭和初期、青年となった荘司は東京帝国大学に入学する。専攻は宗教学と東洋哲学。表向きは学究の徒として振る舞いながらも、週末には京に赴き、吉野や熊野の「後南朝遺臣の末裔」とされる家々を巡り、旧皇統の記録や口伝を集めていた。
特に出会いが深かったのは、熊野・那智の修験道頭領であった三輪義忍。彼は荘司にこう告げる。
「おぬしの代で、南の火が再び灯る時が来るやもしれぬ。忘れるな、この世には二つの“太陽”があったことを。」
この頃すでに荘司は、南朝第96代・弘仁天皇(当時幽宮在位)の信任を得て「次期侍従長」と目されていた。
《転機 ― 皇道派青年将校との密談》
昭和10年、2.26事件の前年、荘司は陸軍の若手将校らと数度会っている。
彼らの多くは昭和天皇に不満を持ち、「真の天皇」を求めていた。
ある将校は酒の席でこう言った。
「現皇室は北朝の系統……あれは官僚と結んだ“制度の天皇”だ。
本来、武を以て国を護るのは、楠の家のような“魂の臣下”だ。南朝こそ、立て直すべきではないか?」
荘司は微笑んで答えた。
「民を守るのは力に非ず。“継承と祈り”に宿るのでございます。」
その言葉に、多くの若者たちが感銘を受けた――だが、彼は一線を越えなかった。
常に、公の歴史に出ないまま、“影の秩序”を保ち続けた。
《そして敗戦へ》
戦争末期、荘司は再び大和の山中に戻る。そこで最後の侍従長である父・正範から、「皇位継承の書」を託される。
敗戦が確定した翌日、正範は静かにこう言った。
「この国は、血を断たぬことで続いてきた。だが、見える血ばかりが“皇統”にあらず。
陽が没する時、月が照らす。お前は、月の役目を果たせ。」
そして昭和21年、GHQが南朝皇統を利用せんと接触してきたとき、荘司は答えたのだった。
「我らの“血”は、力に従わぬことによってこそ、正統を成す」
《令和の光仁天皇、語る》
令和7年。幽宮にて。
光仁天皇は、自らの祖父・弘仁天皇の侍従であった楠木荘司の記録を手に取り、こう呟いた。
「彼は“現れなかった臣下”として歴史を去った。
だが、彼が“現れなかった”からこそ、我らの系統は血を保った。
現在、時が巡っている。
見えざる楠の樹、その根は、令和の都の下に深く張り巡らされているのだ。」
昭和21年(1946年)4月初旬――東京・麹町、旧伯爵家邸の応接間
終戦から半年。桜の花が静かに散るなか、一台の黒塗りの乗用車が、夜の麹町にある旧華族邸にひっそりと滑り込んだ。
車から降りたのは、焦茶の羽織に身を包んだ中年の男――楠木荘司、年齢33歳。
彼を迎えたのは、海軍士官出身であり、終戦時より天皇の最側近として仕えていた侍従・入江相政。
この夜の会合は、宮内庁の公式記録にも、GHQの占領文書にも一切残っていない。
だが、確かにこの夜、二つの皇統の“影の代表者”が向かい合った。
㈡「陛下は、貴殿の動きをすでにご存じです」
座についた荘司に、入江はまず静かに語った。
「マッカーサー元帥直属の密使が、南朝の系統に接触を試みていること――すでに、陛下は察知されておられます。」
荘司はうなずいた。
「密使は“象徴天皇の刷新”を名目に、我が系統から“新たな天皇”を擁立することを申し出ました。
だが我らは、外力によって“正統”を名乗ることなど、絶対にいたしません。」
入江の表情は崩れなかったが、その眼差しには安堵とも悲しみとも取れる色が宿っていた。
「――あの戦争の責を、すべて背負おうとされている陛下にとって、貴殿のそのご決断は、何よりの救いとなりましょう。」
そのとき、入江は懐から一通の封書を取り出した。
封書:「親書 ―光仁殿下へ」
それは、上皇であった南朝第96代・弘仁天皇の嫡子、**当時まだ“幽宮”の若き皇子であった光仁天皇(現・令和時の南朝98代)**に宛てられた、昭和天皇の直筆による親書であった。
以下は、その抜粋である。
《朕、天運のままに国の難を負い、民を守らんと欲すも、力及ばずこのたびの大戦を終結せしむるに至れり。
貴殿の祖、後醍醐天皇の御意に始まる南朝の志、その気高き精神に、今あらためて敬意を表す。
朕の皇位は、制度に守られし北朝の流れなれど、皇統とはただ血筋にあらず、民と共に生きんとする志にあると信ず。
この戦後の混乱において、貴家の血統が利用されることを朕は深く懸念す。
されば、もし貴殿にそのような誘いがあれば、どうかその道に乗られぬことを。
未来において、皇統の二つが交わり、新たなる和を築く時が来たならば、
それこそが、朕らが共に民に祈る形なりと信ず。》
昭和二十一年 裕仁
荘司は、しばしその便箋を見つめていた。
筆跡は流麗だが、どこか哀切と覚悟がにじむ文字だった。
やがて彼は、深く頭を下げてこう言った。
「陛下の御心、確かに拝承いたしました。
我らは、表に立つことを望みませぬ。
ただ、もしこの国が再び道を見失うときは――
“もうひとつの太陽”が照らすべき時が来るかもしれませぬ。」
入江はうなずき、立ち上がると、応接間の窓を開け放った。
外には、わずかに残る桜が、風に乗って舞い上がっていた。
「その時が来たなら、必ずや“対話の道”をお選びください。
対立ではなく、“和”をもって、新たなる皇統の形を築くべく。」
《令和7年現在――光仁天皇の述懐》
甲斐駒ヶ岳・幽宮。
光仁天皇は、時折その親書を取り出しては静かに見つめている。
それは、まだ自身が少年であった頃、父である弘仁天皇から手渡されたものだった。
「この手紙は、北の天皇の“言葉による降伏”であり、また“魂の和睦”でもある」
と、父は言った。
現在、尊陽親王と御春内親王の婚姻を巡って、再び日本の“二つの血”が歴史の表舞台に立とうとしている。
だが、光仁は知っている。すでにその布石は――昭和の敗戦の桜の下で、静かに打たれていたのだと。
「皇統とは、誇りではない。祈りである。
そして、祈りとは、受け継ぐものではなく――絶やさぬことなのだ。」
㈢令和7年 春――甲斐駒ヶ岳・幽宮、朝霧の書庫にて
春霞の差し込む中、幽宮の石造りの書庫に一通の封筒が届けられた。
封筒は漆黒の布に包まれ、表にただ一文字――**「陽」**とだけ、毛筆で書かれていた。
それは、昭和天皇の崩御(昭和64年)から36年の時を経て、入江相政の縁者によって密かに届けられた、**未発表の回顧録「白陽録」**であった。
《白陽録 抜粋:昭和21年春の記録》
《……昭和天皇陛下の御胸中を察するに、戦争責任の重圧は人の想像を絶するものであった。
連合国の審判を前に、天皇を護るべきか、あるいは新たな象徴を立てるべきか、宮内庁もまた揺れていた。
そのような折、私は一人の男と会った。
彼の名は楠木荘司――南朝の嫡流、正成公の末裔にして、静かなる天皇の侍従たる者であった。
彼が口にした言葉は、今も忘れがたい。
「天皇とは制度ではなく、“和を守るための沈黙”そのものである」
米国は、彼らを“切り札”と考えたのかもしれぬ。だが、彼はその誘いを退け、“見えぬ皇統”として在り続ける覚悟を選んだ。
陛下は、その行動に深く敬意を抱かれ、親書をお認めになった。
私はそれを彼に託し、ただ一言「後の世において、貴殿らの“沈黙”が意味を成す時が来よう」と言った。
陛下は、北と南がいずれ融合する“象徴としての未来天皇”の姿を、既に予見しておられたように思う。
それは、力でなく、血でなく、祈りと赦しの交差点に現れるものであろう、と。
もしもこの記録が、未来において皇統が再び揺らぐ日を迎えたとき、必要とされるなら――
それは、昭和という時代が残した“影の和解”の証として読まれることを願って止まぬ。》
署名:入江 相政 昭和61年 秋 書き終う