第五話 懐かしき友
㈠幽宮・御影の間
令和7年11月6日 午後11時10分
尊陽親王は、神谷警部補から渡された1枚の報告資料に目を落とし、
次の瞬間、震えるようにしてその名前を読み上げた。
「……野々宮 崇宏……?」
声が掠れた。
傍らにいた御春内親王と神谷は、一瞬目を合わせた。
まさかこの名前にこれほどまで親王が動揺するとは、誰も予想していなかった。
野々宮崇宏――親王の“影”
学習院初等科から大学まで、尊陽親王と共に歩んだ幼馴染であり唯一の無二の親友。
親王にとって、特別な存在だった。
◯ 母親を早くに亡くし、常に親王の家庭に出入りしていた
◯ 生家は没落華族の系譜で、学費や生活の多くを親王家が支援
◯ 進路の違いにより一時疎遠になるも、親王にとっては“兄弟”のような存在だった。
幽宮・御影の間に、ひとしきりの静寂が流れた。
尊陽親王は、膝の上で報告書を握り締めたまま、深く呼吸を整えようとしていた。
だが、震えは止まらない。
「……彼が、生きていたのか。」
呟きながら、親王は視線を神谷に移した。
警部補は、決して表情を変えなかったが、沈痛な面持ちのまま頷いた。
「はい、野々宮崇宏――彼は、“C計画”に関与していた可能性があります。少なくとも、有本司の私的諜報網の一端に、彼の名前が複数回現れています。」
「……それは、どういうことですか?」
御春内親王が静かに問う。
その声には、心配と警戒の両方が滲んでいた。
神谷は一拍置いてから、言葉を選んだ。
「おそらく……野々宮氏は、長らく“消息不明”とされていましたが、実際には公安の“非公認協力者”として、別の名前で活動していたようです。
そして――令和4年以降、皇室関連施設の出入り記録にも複数回、匿名で接触していた痕跡があります。」
「それでは、崇宏は――敵なのか……?」
尊陽は、思わず胸元を押さえるようにして顔を伏せた。
背筋をまっすぐ保っていた彼の姿勢が、今、初めて崩れた。
彼にとって、野々宮崇宏とは、ただの友人ではなかった。
皇室という孤独な檻の中で、彼の言葉に救われ、笑い、時には涙を見せられた――たった一人の「同等の存在」だった。
神谷は静かに近づき、もう一枚の資料を机上に置いた。
「……こちらは、彼がかつて遺したメモランダムの複写です。暗号化されていましたが、解析によって一部内容が判明しました。」
尊陽はゆっくりと手を伸ばす。
そこには、かつての彼の筆跡によく似た文字が並んでいた。
――“尊陽を守るために、影に徹する。たとえその手を血に染めるとしても、俺はあいつの代わりに穢れる。”
震えが止まった。
その一文を読み終えた尊陽は、しばらく何も言わず、ただ目を閉じていた。
「……あいつは、俺のために……?」
御春が小さく息を呑む。
「親王……」
尊陽はそっと立ち上がった。
幽宮の高窓から差し込む月の光に、その影が長く伸びた。
㈡「神谷。野々宮崇宏を、探してくれ。いや――“崇宏兄”を。
たとえ、この国中を敵に回してでも……俺は、あいつの真意をこの目で確かめたい。」
神谷は一瞬だけ目を逸らしたが、すぐに向き直って毅然とした口調で答えた。
実は、今朝方北池袋の自宅アパートで、死亡しているのを訪ねて来た職場の同僚が発見しています。
ここ数日、無断欠勤していることを訝しんだ同僚が訪ねて行って発見したらしいとのことです。
尊陽親王の背筋が凍りつくように固まった。
幽宮の静寂が、まるで時の流れを止めたかのように、凍りついていた。
「……死亡……?」
神谷は静かに頷いた。
「はい。室内には争った形跡はなく、第一発見者の証言では、布団の中で静かに息を引き取っていたと。死後数日は経過していたと見られます。司法解剖の結果を待っていますが――現段階では、自殺とも他殺とも断定できません。」
「崇宏兄が……死んだ……?」
尊陽の手が力なく垂れ、報告書が床に落ちた。
その紙の音が、あまりに生々しく、宮中の空気を切り裂いた。
「……俺は……あいつに、もう一度会うつもりだった。
直接聞きたかった。なぜ“C計画”に関わったのか……なぜ、俺を……」
親王は言葉を失い、ただ虚空を見つめた。
その瞳の奥に、かつて笑い合った学習院の校庭の記憶が、断片的に浮かんでは消えていく。
御春内親王がそっと近づき、震えるその背に手を添えた。
「殿下……」
だが尊陽は、首を振った。
「……ちがう。まだ終わっていない。崇宏兄は、“ただ死んだ”のではない。
きっと、何かを俺たちに残している……そうだろう、神谷?」
神谷は沈痛な面持ちのまま、小さく頷く。
「実は、現場の遺品の中に、暗号化されたメモリチップが見つかっています。外部ネットワークには接続されておらず、持ち出しも厳重に防がれていました。
現在、解読班が解析中です。」
尊陽はわずかに目を細めた。その視線には、すでに覚悟が宿っていた。
「――崇宏兄が命と引き換えに遺した“答え”を、俺は受け止める。
たとえ、それが皇統を揺るがす真実であっても……」
神谷は再び深く頭を垂れた。
「……了解しました、殿下。」
その夜、尊陽親王は眠らなかった。
彼の心に宿ったのは、亡き友が“最後に残した言葉”への、静かな誓い。
そして物語は、次なる扉を開く。