第三話 井原紘一
令和7年11月4日 午前5時12分
山梨県南都留郡・西湖湖畔
朝霧がまだ湖面に残る時刻、一艘の釣り船が異変を発見した。
風に流されたように漂う、防水ジャケットを着た遺体――顔の半分は湖水に沈み、胸ポケットには記者証。
「京都日日新聞 編集委員 井原紘一」
「発行年月:平成21年3月」
県警水上警備隊が駆けつけ、遺体は静かに引き上げられた。
現場責任者が現場無線に呟く。
「……溺死か。いや、これは“沈められた”跡があるな」
ジャケットの内ポケットからは、水に強い樹脂カバーで保護されたSDカードが見つかった。
ファイル名にはこうあった。
k07_GhostIndex井原録音.wav
日時:令和7年11月2日 午後19時35分〜午後19時57分
それは、あの夜――“灰帯部隊”との一部始終を記録した完全音声ログだった。
神谷への連絡
午前6時21分、神谷のスマートフォンが振動した。
通信可能な山間部に出た一瞬を突いて、園部の端末に山梨県警からの緊急情報メールが飛び込んだ。
【重要・公安連携案件】
身元不明遺体の第一報:京都日日新聞・井原紘一氏と思しき男性、
山梨県西湖で発見。記者証および録音機材、USBカード所持。
死亡推定時刻:11月2日午後9時前後。
身体各所に拘束痕あり。司法解剖指示中。
神谷の顔から血の気が引く。
「……やられたか。灰帯部隊、あのまま引いたふりをして……」
園部が言葉を詰まらせながら呟く。
「警部補、井原さん……私たちのために囮を引き受けて……」
神谷は無言でSDカードの複写リストを確認し、TNN本社のセキュア回線へ即時送信指示を出す。
そして、全国ネットへ
同日午後9時。
予定されていたTNN特別報道番組「祈りの系譜」は“中止”とされたが、
代わりに臨時枠として「追悼特集:最後の記者 井原紘一」が急遽放映された。
番組冒頭。
敬称を添えたナレーションと共に、あのSDカードの音声が流れ始める――
「……君らは“誰のために記憶を消してる”んや?
国のため? 王のため? ちゃう。
君らが守っとるのは、“語らせたくない何者か”の幻影やろ」
「この録音が、何かの証明になればええ……
ワシの声は、たぶんこの国で、もういらんもんになっとるかもしれんけどな」
(沈黙)
「それでも、語らんかったら、始まらんのや――」
スタジオの出演者たちは絶句し、
SNSは瞬く間に「#井原記者」「#灰帯」「#祈りの皇統」で埋め尽くされた。
神谷の決意
幽宮に向かう山道を進む神谷の脳裏に、井原の声が響いていた。
「真実は、語られるまで消えない。
人が“信じよう”と決意するまで、決して過去にならんのや」
神谷は、拳を固く握り直す。
「井原さん……あんたの最期は、この国にもう一度問いを突きつけた。
俺は――まだ、終わらせない」
令和7年11月4日 午後10時20分
警視庁・地下応接室
幽宮突入前、ほんの数時間を縫うようにして、
神谷は特別に許可を得て都内に戻り、外事二課長・稲垣正勝との密室会談に臨んでいた。
防音加工された地下の応接室。
窓もなく、壁の時計が秒を刻む音がやけに響く。
対面した稲垣は、背広の一切に乱れのない、石のような表情をしていた。
神谷「……井原紘一氏の件です。
山梨県警の第一報を確認しました。司法解剖の初見では、外部圧迫による意識喪失と、沈められた痕跡が明確に記録されています」
稲垣(動かず)「聞いている。だが、我々外事部門は、当該案件への直接関与は一切していない」
神谷が身を乗り出す。
神谷「ならば質問を変えます。“灰帯部隊”――
正式には記録上存在しない、公安内部の監視専門の“影班”に、
任意作戦実行を“黙認”したのはどの指揮系統ですか?」
稲垣は目を伏せることもなく、静かに言った。
稲垣「君も知っているだろう。“灰帯”は存在しない。
そういう“定義”の中で、我々は行政を回している。
君がその“定義”を崩したいというなら――もう、公安には居場所はないぞ」
沈黙と通告
神谷は一瞬、言葉を失う。
稲垣の口調には怒気も、敵意も、悲哀もなかった。
あるのは、ただ“事務としての通告”だけ。
稲垣「……井原記者は、国家の敵ではなかった。
だが、国家の“構造”に触れた。そういう者には、ある種の運命が待つ。
我々が手を下さずとも、“運命”は成されることもある」
神谷が、声を押し殺して問う。
神谷「“殺したのは国家ではない”、そう言いたいのか」
稲垣「違う。国家は殺さなくても、死を要請することがある。
それが国家権力というものだ」
沈黙ののち、神谷は懐からスマートフォンを取り出した。
画面には、「TNN録音拡散データ」のリアルタイム視聴者数。
14時間で再生回数 680万件突破
同時視聴数、過去TNN記録を更新中
神谷は冷静に言い放った。
神谷「……国家は死を命じても、
“言葉が生き残れば”、構造は壊せる。
井原さんの声は、もう止まらない。
あなたたちが抹殺しようとした“祈り”は、全国に届いてる」
稲垣の目が、ほんの一瞬だけ動いた。
だが、彼は椅子の背に深くもたれ、冷ややかに口を開いた。
稲垣「君は……やはりもう“警察官”ではないな」
神谷は、席を立ち、最後に言い放った。
神谷「あんたも、“国家”ではない。
あんたは“国家という亡霊”に仕える男だ。
俺はまだ、“人の祈り”に仕えてる――それだけだ」
廊下を歩きながら、神谷は心の中で呟いた
「殺したのは誰か――
それを問うより、**“この死を無駄にするかどうか”**が先だ」
背後で応接室の扉が静かに閉じる音が、永遠の別れのように響いた。