8.
「うん、そのまさかだ。ついでにお前の身分証も用意した。リィ・セリナとアドリュ・セリナ。兄妹で王城に勤めている。中級貴族だった両親は既に他界。出身はイリス王国に近いサリティという町だ。きちんと設定を覚えておくように」
正式な身分証を渡されて、口を開き掛ける。
きっと発していたのは怒声か悲鳴かの、どちらか。
でも再びノースに口もとを押さえられる。
「姫様、申し訳ありません。本当に、申し訳ありません。ですが私にはアンドリューズ様を止めることができませんでした。こうなってしまったらもう、国王陛下でも止められないでしょう。隠し通すしかないのです」
「……」
そのあまりにも切実な響きの声に、リーディも少しずつ冷静になっていく。
たしかに、イリスの王太子と王女がふたりでセットリア王国の王城に忍び込んでいたなどと知られたら、もう婚姻どころではない。
それにすべての発端は、リーディだ。セットリア国王が連れてきた女性を見てみたいと、軽率に王城に忍び込んでしまった。
心を落ち着かせようと数回深呼吸をしたあと、兄に向き直った。
「セットリアの人達なら、多分騙せると思う。でもあの人なら見抜いてしまうかもしれない。だから手合わせなんて考えないで、なるべく近寄らないようにしてね」
「あの人……って、あれか。漆黒の剣士か?」
リーディが頷くと、アンドリューズは深刻になるどころか、楽しそうな笑みを浮かべる。
「へえ。そんなに強そうだったのか。異世界から来た人間だっていうのは聞いたことはあるが、俺もまだ会ったことはないからな。なんとかして会いたいものだが」
「なっ……」
一気に頬が紅潮したのを感じて兄を睨みつける。ノースが慌てて口を塞いでくれなかったら、今度こそ大声で怒鳴っていただろう。
「リーディ様、申し訳ありません」
彼女のせいではないのに必死に謝るノースとは裏腹に、アンドリューズは笑いながら部屋を出て行く。
「そろそろ交代の時間だな。リーディも気を付けろよ。おっと、リィだったな。また王城で会おう」
来なくていいから、と叫びたくても声が出ない。
ノースの腕の中で暴れるだけ暴れて、ようやく落ち着いたリーディは深く溜息をつく。
「ごめんね、ノース。こんなに苦労を掛けて……」
取りなしてくれた彼女に心底申し訳ない気持ちになってそう言うと、ノースは晴れやかな顔をしてこう言った。
「わたしなら大丈夫です。リーディ様。だってこの離れには、アンドリューズ様がいらっしゃいませんから」
「……」
言葉を返すことができなかった。
そう、顔を合わせるのはリーディのほうが多い。
王城の警備兵と、侍女として。
今度は何をしでかすかわからない兄のことを思い、リーディはそのまま床に崩れ落ちる。
「ああ、もう。イリスに帰りたい……」
だがイリス王国に帰るわけにも、いつまでもここで脱力しているわけにもいかない。
仕方なく侍女としての部屋に戻り、疲れ果てたリーディは朝までぐっすりと眠ってしまった。
不安も怒りもすべてが臨界点を越えてしまい、今となってはもう何の感情も沸いてこない。
それどころか一晩ゆっくりと眠ったら、妙にすっきりとした気分になってしまい、なるようにしかならないとまで思えてきた。
それに兄ならば、褒められたことではないが普段から色々な場所に侵入している。むしろ自分のほうが、慎重に行動しなければならない。
身支度を済ませ、朝食の用意ができているのを確認してから、理佐の部屋に向かう。
扉を守る警備兵は、夜の間もずっとそこに立っている。
厳重な警備だが、事情を知ると保護しているというよりは、理佐が逃げ出さないように見張っているようにも見える。
漆黒の剣士――湊斗は、この状況をどう思っているのだろう。
「理佐様、おはようございます」
そう言いながら部屋に入ると、眠っていた彼女はまだ夢の中から抜け出せないような、ぼんやりとした視線をリーディに向けた。
「夕べ遅くまで起きていたのですか? もう朝食の用意が整っていますよ」
「うん……。お兄ちゃんがうるさくて眠れなかったの。床に転がしておいたわ」
「湊斗様?」
慌てて床に視線を走らせると、ソファーの後ろに転がって眠っている漆黒の剣士を見つける。
「ああ、見つけました。そんなところで眠ったら風邪を引いてしまいますよ」
そう言うと、湊斗も眠そうな顔をして起き上がる。
「ありがと……」
さすがに兄妹だけあって、まったく遠慮のないふたりの様子が微笑ましい。
こうしていると普通の青年のようで忘れてしまいそうになるが、湊斗はあの漆黒の剣士だ。
(でも理佐様の立場だったら、とても頼りがいがあるお兄様ね。ちょっと羨ましいかな……)
アンドリューズもたしかに強いが、頼りがいがあるかと言われると素直に頷くことは難しい。安心どころか、常に爆弾を抱えているような気持ちにさせてくれる兄なのだ。
そんな後継者を持ってしまった父の心労は、察して余りある。真面目な父が口うるさくなってしまうのも、仕方がないのかもしれない。
「お兄ちゃん、そんなことで寝たら風邪を引くよ」
「転がしたのはお前だろ。それより、腹が減ったな」
「ではすぐに朝食をふたり分、ご用意致しますね」
リーディは笑ってそう言うと、さっそく準備に取りかかった。仲の良い兄妹の姿に、自然に頬が緩む。
「だめだよ、三人分だよ。リィも一緒に食べよ?」
「わたし、朝はもう食べてしまいました。これ以上食べたら太ってしまいます」
「えー、リィは細くて華奢だから、もう少し太ってもいいと思うよ? ね、お兄ちゃん」
「お前はもう少し……、いや、なんでもない」
すっかり仲良くなった理佐からリィと呼ばれるたびに、少しだけ心が痛む。
素性を隠し、こんなに親しくしてくれる彼女を騙している。