22.
まだ国境までは遠いし、この周辺には何もないはずだ。止まった馬車に不審を覚えて前方を見たリーディは、目の前の光景に小さく声を上げた。
「あっ……」
馬車の前に立ち塞がる、ひとりの男の姿。
髪も服装も、持っている剣の刀身もすべて黒いその姿は、間違いなく漆黒の剣士。リィとして知り合い、ほのかな恋心を抱きつつあった湊斗だった。
「そんな……、湊斗様?」
王都から遠く離れたこんな場所で、彼と遭遇するとは思わなかった。
しかも彼は剣を手にしていた。
また襲撃なのかと、馬車の中に緊張が走る。
父の見舞いのために祖国に帰るはずのリーディには、数人の護衛しかいない。
あまり仰々しいと、セットリア国王に怪しまれるかもしれないからだ。国境近くの町で、先に王城を出ていた警備兵と侍女、そして兄と合流する予定だった。
(どうしよう……)
隣に座っていたノースが、リーディを庇うようにして身を乗り出した。同乗していた他の侍女達も、覚悟を決めたような顔をしていた。
だが彼女達のそんな悲壮な決意も、漆黒の剣士を止めることはできないだろう。
湊斗は、桁違いに強い。
このままでは、犠牲が大きくなるだけだ。
リーディは組み合わせた両手が白くなるくらい、ぎゅっと握り締める。
(兄様は、湊斗様がディスタ公爵に利用されていると言っていた。でも理佐が彼らの手の中にある以上、こちらが何を言っても駄目でしょうね。でも……)
せめて、湊斗を騙していたことを詫びたい。
無謀かもしれない。
だが漆黒の剣士に狙われてしまったら逃げようがないのだから、馬車に隠れていても同じことだ。ここに兄がいない今、他の誰にも漆黒の剣士を止めることができない。
「姫様!」
止めるノースを振り切って、リーディは馬車の窓から顔を出す。
「リィ」
リーディの姿を見た湊斗は、弱々しい声でそう呟いた。
その声に、胸が痛む。
彼にしてみれば、恋をした相手のすべてが嘘だったのだ。困惑するのは当然だろうし、恨まれても仕方がない。
(ちゃんと謝らないと。湊斗様は、あんなにまっすぐに好意を伝えてくれたのに)
彼と話をしようと、リーディは馬車を降りる。
湊斗が呼んだリィという名前がリーディの偽りの名前だと知っているノースも、その背後に付き従ってくれた。
最後に会ったときも着ていた侍女の服装のまま、リーディは湊斗の前に立った。
湊斗も、静かな目でリーディを見つめていた。
殺気は感じられない。
「ごめんなさい、わたしは……」
名前も身分も偽りだったことを謝罪しよう。そう思って口を開きかけたリーディに、湊斗は少し微笑んだ。
「うん、わかっている。君はリィじゃなくて……。イリス王国の王女、リーディだったんだね」
「え?」
どうして彼がそれを知っているのか。
驚くリーディの目の前で、湊斗は持っていた剣を鞘に納めたまま地面に突き刺す。
敵意はないというのだろう。
「アドリュにすべてを聞いた。俺も君に謝らないといけない。理佐のためとはいえ、君に剣を向けようとした。……本当に、すまない」
思ってもみなかった言葉に、リーディは呆然とする。
「湊斗様……」
理佐がいる以上、湊斗がこちら側につくことはないと思っていた。
相当な覚悟をもって彼の前に立ったリーディは、安堵から足の力が抜けそうになるのを必死に堪える。
「兄様は、何を……」
「リーディのこと、セットリア王国とイリス王国の関係、すべてを話してくれた。そして警備の隙を見て、理佐を連れ出してくれるはずだ。国境近くで合流する手はずになっている」
湊斗はそう言った。
警備兵に扮している兄ならば、たしかに理佐を連れて王城から抜け出すこともできるだろう。
「リィ……、いや、リーディかな」
「リィでいいわ。子どもの頃、そう呼ばれていたの。わたしのほうこそ、あなたに嘘をついてごめんなさい」
名前も身分も、すべて偽っていたことを謝罪する。そして、どうして理佐の部屋に忍び込んでいたのかも。
「そうか。やっぱりアドリュの言っていることはすべて正しかったんだな。それなのに俺は……。俺のほうこそ、許されないことをした。よりによって君に剣を向けるなんて」
「理佐様のためなら、仕方ないわ」
彼の大切な、唯一の身内。
守りたいと思うのは当然だ。
「その理佐も、俺のしたことを知って怒っている。俺の足枷になるくらいなら、ひとりで生きていくと言われてしまって」
肩を落とす湊斗を慰めるように、リーディは彼の背に触れた。
きっと理佐が思っている以上に、湊斗の中で妹の存在は大きい。
妹を守るためなら、今まではけっして請け負うことのなかった、奇襲のような仕事も引き受けてしまったくらいだ。
「リィに嫌われて、理佐にも見捨てられたら、俺はもうどうしたら……」
「わたしは別に、湊斗様のことを嫌ったりしません」
ひとりごとのようなその言葉に思わず反応してそう言うと、彼は驚いた顔をしてリーディを見る。
「だって俺は、リィを襲おうとしたのに」
「理佐様のためだとわかっていますから」
微笑んでそう言うと、湊斗はふいに頬を染めて視線を反らした。女神か、と呟く声が聞こえた。
そんな反応をされてしまうと、リーディもつい意識してしまう。
「と、とにかくアドリュにリィの護衛を頼まれたんだ。はやくイリス王国に入ってしまおう」
「兄様に?」
「ああ。リィは俺が必ず守る」
力強い言葉に、不安がすべて消えていく。
国境まではあと少し。
しかも湊斗が守ってくれるというなら、怖いものなど何もない。
これで兄と理佐、そして先に逃げていた者達と合流すれば、全員揃ってイリス王国に帰ることができる。
(でも兄様、大丈夫かしら)
ふと、不安になる。
向こうにとっても切り札となる理佐を、そう簡単に連れ出すことなどできるのだろうか。




