21
「でも、わたしは停戦のための人質のようなものよ。そんなに簡単に帰国することなんてできないわ」
二度も襲撃されたのだから、理由としては充分だ。
でもそれを公表すれば、停戦など簡単になかったことになる。
そうなったら、この国から無事に出られる保証などなくなるし、襲撃者である湊斗も、完全な敵となってしまう。
両国の平和のために、そして湊斗と理佐のために、ここで逃げ出すわけにはいかない。
「わたしがこの国を出たら、また戦争が始まってしまうかもしれない。もうすこし、様子を見るわ。でも兄様はすぐに帰って」
敵になるかもしれない国に、王太子の兄がいつまでも滞在しているのは危険だ。
ここに残れば、兄が無事にイリス王国に戻れる時間くらい稼げるだろう。そう決意を固めるリーディの髪を、アンドリューズはやや乱暴に撫でた。
「あっ……、兄様」
「余計なことは考えるな。大丈夫だ。もう手は打ってある」
「え?」
「明日の朝、イリスから連絡が来る。国王が病気で、娘に会いたがっているから一時的に帰国してほしいという申請だ」
「お父様が?」
驚くが、それはリーディが安全にこの国を出るための嘘だと言われて、ほっとする。
「そんな理由があれば、セットリア国王も表立って止めるようなことはできない。だがディスタ公爵にとっては、この展開は好都合だろうな。もしかしたら戻る気がなくなるようにと、性懲りもなく襲撃を仕掛けてくる可能性がある。すまないがノースには、イリスに帰国するまでリーディの身代わりをしてもらう。イリスとの国境には、クレイが軍を忍ばせているはずだ」
クレイとは、ノースの兄でアンドリューズの側近だ。突然兄の名前を聞かされたノースは、驚いた顔をしながらも、しっかりと頷いた。
「承知いたしました」
それから兄とノースは、明日からの手順を話し合っている。
国王に挨拶をするのは代理でいいとか、帰るときに通るルートの確認などだ。ノースだって急な話だったろうに、しっかりと対応できているのはさすがだった。
だがリーディは、まだ取り残されたままだ。
「兄様……」
「お前を残して帰れるわけがないだろう」
戸惑うリーディに、兄はやや厳しい口調で告げる。
「でも」
「とにかく今は、無事にイリスに帰ることが優先だ。色々と言いたいことも聞きたいこともあるだろうが、国に帰るまで待て」
「……わかったわ。約束よ?」
そう言われてしまえば、こう答えるしかなかった。
兄は、約束を破るような人ではない。
イリスに帰国したら、すべてを話してくれるだろう。
「ああ」
アンドリューズは頷くと、イリスから連れてきた警備兵と話をするために部屋を出ていった。
セットリア国王からの使者がリーディのもとを訪れたのは、それから三日後のことだった。
兄はイリス王国からの連絡が、予定通り翌朝には届いたことを確認していたらしい。
だからセットリア国王は、イリス王国からの伝言をすぐにこちらに話さなかったのだと考えられる。
だが今はそれを咎めるよりも、イリス王国に帰ることが先決だった。
リーディは無事に帰ることができたら、父に今までのことをすべて話そうと決めていた。
侍女の真似事をしたことまで言ってしまえば、叱られるどころではないかもしれない。
だが漆黒の剣士――湊斗を敵にするかもしれないのだ。だから襲撃を二度も受けたことも含めて、きちんとすべてを報告する。
最終的に判断するのは父だが、さすがに二度も命を狙われたのだから、おそらく婚約は破棄になるだろう。それを企んだのは宰相のディスタ公爵とはいえ、王城で起こったことはすべて国王の責任だ。
だが今は、こちらが婚約を破棄するつもりだと悟られないように、国に帰らなければならない。
侍女も警備兵も含めて全員で帰りたいところだが、イリスの人間がすべていなくなると、不審に思われる。
表向きは、父の見舞いなのだ。
それを兄に相談すると、顔なじみの人間達に協力してもらうと言っていた。
元の侍女と警備兵は、それぞれ国境を目指し、手前で合流する手筈になっていた。
入れ替わった人達の中にはまだ年若い女性もいたが、彼らは全員が戦闘員で、何があっても自力で王城を脱出することができる者ばかりらしい。
その兄は、昨日の夜から姿を見せない。
やることがあるから国境近くで合流すると言って、先に出ていったのだ。
兄が傍にいないのは不安だったが、それでもすべてを周到に用意してくれたので、リーディはそれに従うだけだ。
だが出発の寸前、セットリア国王から使者が来た。
リーディに扮しているノースがそれを迎える。リーディも王女の付き添いの侍女として、その場にいた。
使者は、淡々と国王からの言葉を伝える。それはイリス国王の病を見舞い、リーディの旅の無事を祈るような定型的な言葉だったが、最後に病状が落ち着いたらすぐに戻って来るようにと言われて、どきりとする。
それはただの建前なのか。それとも、リーディが戻るつもりがないことを知っていて、そんなことを言ったのか。
理佐を利用して湊斗を操ろうとしていたのは、セットリア宰相のディスタ公爵だった。だが、肝心のセットリア国王の意図がわからない。
彼はただ国を守ろうとしている王なのか。それとも、ディスタを上回る野心家なのか。
(そういえば兄様は、セットリア国王のほうが厄介だと言っていた。でもイリスに帰れば、兄様が全部説明してくれる。ここで思い悩んでも、仕方ないわ)
リーディは王女の姿をしたノースと一緒に馬車に乗り込み、ひっそりと王城を立つ。
この国で生涯を終える覚悟で祖国を出てきてから、たったの三か月。まさかこんなふうに祖国に帰ることになるとは思わなかった。
リーディは、疾走する馬車の窓から外を見てため息をつく。
(……これからわたし、どうなるのかしら)
変わらないと思っていた未来は、こんなに簡単に覆ってしまう。変わらないものなど存在しないのかもしれない。
心を通わせたと思っていた相手でさえ、状況が変われば敵になってしまうのだ。
湊斗の姿を思い出し、リーディはその面影を追うように目を閉じる。
あまりにも目まぐるしく変わる状況に、心が置き去りになったような気持ちだった。
朝になればまた、理佐と湊斗と兄の三人で笑い合っていた、あの日に戻れるのではないか。
そんな願望が浮かんで、苦笑する。
(あり得ないことだわ。そんなことを考えてしまうなんて。わたしはもっと、しっかりとしないと)
理佐とは挨拶もせずに別れ、湊斗はイリス王国の王女に剣を向けた。
もうあの日には戻れない。
リーディは乱れる心を静めるように、唇を噛み締める。
ふと隣を見ると、王女として馬車に乗り込んだノースの美しい横顔は緊迫していた。
それを見て、イリス王国に到着するまでは油断できないと、リーディも気を引き締める。感傷に浸るのは、あとでいい。馬車を守る護衛兵も数人しかいないのだ。
王城からイリスの国境までは、馬車で五日ほど。
出発してから三日間は、何事もなく過ぎていた。
四日目を過ぎると、そろそろイリスとの国境に近くなる。
イリス王国は、緑豊かな国だ。
いまの季節ならば、紅葉がとても美しいだろう。次第に増えていく自然に祖国を近くに感じ、リーディは懐かしく思う。
(たった三か月離れていただけなのに、とても長い時間をこの国で過ごしていた気がする)
あまりにもたくさんのことがありすぎて、そう思うのかもしれない。
このまま無事にイリスに辿り着けたらいい。
そう願っていたが、国境を目指して疾走していた馬車は徐々に速度を落とし、ゆっくりと止まってしまった。




