10.
いつも周囲の迷惑など省みず、好きなように生きている兄の、そんな顔を初めて見た。
どうしてそんなに寂しそうに、切なげな目をするのか。
「兄様?」
だがそれも、ほんの一瞬のことだった。
「まあそれが本当なら、近いうちに配置換えがあるな。手合わせできる機会もあるかもしれないし、楽しみにしておくか」
「しなくていいから! それにどうして兄様の話をしただけでそんな話になるの?」
「明日になればわかる。さて、これから同僚達と飲みに行く約束なんだ。また明日な」
そんなことを言ってあっさりと背を向ける兄は、いつもと変わらない様子だった。
「もう! ばれないように気を付けてって言っているのに!」
そう声を荒げながらも、何となく気になってその後ろ姿を見送る。
自分の思うままに行動する兄はいつだって楽しそうで、あんな顔をするなんて想像したこともなかった。
その後ろ姿が見えなくなると、ようやくリーディは歩き出す。
初冬の夜は冷えて、指先が冷たい。
そっと息を吹きかけると、白く濁った吐息が空へ昇っていく。つられて見上げた夜空はとても澄んでいて、星が綺麗だった。
「ん? 同僚と飲みに行くって……。こ、この国の人達と?」
ばれないように大人しくしているつもりは、やはり兄にはまったくないらしい。
「心配して、損したのかも……」
溜息を付いて足早に部屋に戻る。
だが翌朝、リーディは配置換えがあると言っていた兄の予想が、正しかったことを思い知る。
昨日の兄の様子が気になって、つい眠るのが遅くなってしまった。
起きてみれば太陽はありえない高さまで昇っていて、何度も空を見上げて、さらに時間を無駄にしてしまう。
ようやく寝坊をしてしまったのだという現実を受け入れ、慌てて起き上がり髪を結い上げる。それも慣れていないせいで、なかなか上手くいかない。
(ああもう、急いでいるのに!)
何とか身支度を整えて、大急ぎで理佐の部屋に向かった。
彼女はあまり早起きではないが、主が起きるよりも遅くなる侍女など聞いたことがない。
(ばれないように気をつけるのは、やっぱり兄様じゃなくてわたしかも……)
髪の具合を気にしながら部屋の前まで早足で歩く。
いつも理佐の部屋の前に立っている警備兵が見えた。いつも理佐の部屋の前には、警備兵がふたりいる。
遅くなったことを報告されるかもしれないと怯えながら挨拶をしようとして、その場に立ち尽くす。
本当にこうなるとは思わなかった。
「おはようリィ。随分遅いな」
そんなことを言って笑っているのは、間違いなく兄のアンドリューズ。
「!」
何かを言おうとして口を開き、結局何も言えずに口を閉ざした。
兄はそんな反応を面白がっている。
「まるで雛鳥みたいだな。ほら、早く行け」
「ひ、雛鳥?」
悔しいが、早く行かなければならないのは事実だ。
腹いせに、もうひとりの警備兵に見えないように足を蹴飛ばしてみた。
でも、むしろ蹴った足のほうが痛い。まるで固い岩を思い切り蹴飛ばしたような感覚だった。
(お兄様って、いったい……)
痛む足を引きずりながら、リーディは理佐の部屋に入る。
それにしても、あの頑丈さ。
本当に、一国の王太子だろうか。
部屋の中は静かで、カーテンも開けていない。
そして理佐は、まだ眠っている様子だった。
ほっとしながら彼女を起こし、着替えを手伝ってから朝食を用意する。
それにしても自分が食べられなかったのに、人の給仕をするのは結構つらいものがある。
王女時代には一度も感じたことがなかった空腹感をどこか不思議に思いながら、食後のお茶を淹れていると、来客があった。
湊斗だろう。
だがいつもと違い、扉の前で親密に言葉を交わしているような気配がする。
(ま、まさか……)
恐ろしいことを想像してしまい、血の気が引く。
もしかして、湊斗は兄と会話をしているのか。
息をひそめて会話を盗み聞きする限り、ここに配置するように進言したのは湊斗なのだとわかった。
彼の思惑は何なのか。
そして兄は、何を知っているのか。
目の前に兄がいるのに何も聞けないというのは、空腹を堪えるよりもつらかった。
だが、悶々とした思いを抱えたまま仕事をしていると、唐突にその機会は訪れた。
その日は、珍しく朝からとても天気が良かった。
これから冬になる季節だ。
もうこんな天気に恵まれる機会も、そう多くはないだろう。
その陽気に誘われて理佐が庭園を見たいと言い、湊斗ともうひとりの警備兵が付き添うことになったのだ。王妃の部屋の近くにある庭園は、兄との報告会で使ったあの中庭と違って綺麗に手入れされている。
留守の間に怪しい人物が侵入するかもしれないので、主がいない間も見張りは必要だし、リーディも今のうちに、簡単に部屋の掃除をする必要があった。
主のいない部屋で、兄妹は顔を合わせる。
リーディは茶器を片付けながら、のんびりと扉の前に立っている兄に視線を向ける。
夜を待たずに、こんな機会が訪れるとは思わなかった。
「どういうこと?」
あまり大きな声を出すと他の人に聞こえてしまうかもしれない。
「どうって?」
用心しながら小声で囁くと、アンドリューズは不思議そうに聞き返す。いつもは嫌になるくらい鋭いくせに、肝心なときばかり鈍い兄に溜息が漏れる。
「だから、どうして兄様がここにいるの?」
「どうしてって、それはもちろん、リィがいるからだろう」
「え?」
言葉の意味がわからず、思わず間抜けな声を上げてしまった。兄は奔放だが、こんな相手に伝わらない話をするような人ではなかったはずだ。
「どうしてわたしがいると、兄様がここに配置されるの?」
「湊斗がそう頼んだからだろう?」
だから、それがどうしてなのか聞いているのに。
「だから、ちゃんと理由を説明……」
埒が明かない会話に声を荒げた瞬間に、くらりと目眩がした。
あまり興奮しすぎたのかもしれない。
「リィ?」
とっさに差し伸べられた兄の手に掴まった。
何か言っているような気がしたが、上手く聞き取れない。仕事中なのに、と思ったが、もう薄れていく意識を留める術はなかった。




