桃吉と守護霊
昔々、お爺さんとお婆さんが住んでいました。ある時、お爺さんは山へしば刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。お婆さんが川で洗濯をしていると川上からどんぶらこどんぶらこと大きな桃が流れてきました。お婆さんは最初、得体の知れない桃を警戒しましたが、桃がお婆さんの前を通り過ぎてしばらくして、お婆さんは桃を追いかけて拾い上げました。
お婆さんが桃を家に持ち帰り、お爺さんと一緒に桃を割ると、桃の中から赤子が出てきました。赤子は泣いていて、身を震わせています。お爺さんとお婆さんはその赤子に桃吉と名付けて大事に育てることにしました。
「桃吉、桃吉、桃や」
「なんだよ。うるさいな」
声は僕に話しかけてきたが、僕はぶっきらぼうに返事をした。
「桃や、お前いくつになった?」
「十歳」
「十歳になったか。桃や、ではお前にはあることを話しておかないといけない」
「あること?」
「お前が大人になった時に、お前はある試練を受けなくてはいけない。それはお前の宿命なのだ」
声はそう言うと、しばらく沈黙した。僕は家の居間の真ん中で寝っ転がりながらテレビを見ている。バラエティ番組をやっていてお笑い芸人が面白いことをしているのをただ眺めていた。声は続けた。
「お前は桃吉だ。だから将来、鬼退治に行かなくてはならない」
「鬼退治?」
「そうだ。鬼退治とは鬼をやっつけることだ」
「やだよ、鬼なんか。怖いじゃん」
「その通り、鬼は怖い。わしも鬼退治をしたことがあるが、大変ひどい目にあった。お前にはあんな目にはあってほしくない」
テレビの中のお笑い芸人の頭の上からタライが落ちてきて、芸人の頭に当たる。芸人は大げさにこけて、そこに機械的な笑い声が差し込まれていた。
「それにお前は大変臆病な子だ。お前みたいな臆病な人間に鬼退治は無理だ。だから鬼退治には行くことになっても行ってはならぬ」
「うるさいなぁ。守護霊様がそう言うなら行かないよ、僕」
「そうだ。行ってはならない。鬼退治など。あれはめっぽうひどいものだ。何も得が無い」
「守護霊様が鬼退治に行った時はどうだったの?」
「うむ。まず鬼ヶ島に船で出かけていった。嵐で三日三晩荒波に揉まれて、犬と猿とキジが海に投げ出されて死んだ。わしはなんとか生き残ったが、鬼ヶ島に着くころには満身創痍であった」
「……」
僕は守護霊様が言うことを黙って聞いていたが、なんとも鬼退治というものはひどいものだと思った。まだ続きがあるのが信じられなかった。
「ぼろぼろになりながら鬼ヶ島に着くと、鬼達がやってきたわしを取り囲んだ。鬼達は金棒でわしをめった打ちにしてきて、わしはその海岸で息絶えたのじゃ」
「そんな、ひどすぎる」
「そうだろう。ひどいだろう。わしは自分で言うのもなんだが、あの時代の中では勇敢な人間の方だった。そのわしがこの有様になっているんだから、臆病なお前にはとても無理だ。だから鬼退治には行ってはならぬ。お前じゃだめだ」
家の中にチャイムの音が鳴り響いた。僕は起き上がると家の玄関まで駆けて行った。玄関のドアを開けると友達の猿島と犬田がいた。
「よう、桃吉。相変わらず冴えない顔しているな」
猿島はそう言って笑うとずかずかと家に上がり込んできた。
「桃ちゃん、お邪魔します。ひひ」
犬田は猿島の後ろに付いて家の中に入ってきた。
「また君たちか。よくもまぁ毎日人の家に上がり込んでくるよな」
「桃吉の家のきび団子は美味いからな。婆さんはいないのか」
猿島はそう言うと、きょろきょろと家の中を見た。
「お婆さんは今、スーパーに行って買い物をしているよ」
「爺さんは?」
「お爺さんは町の役員会があるとかで家を空けているよ」
「なんだ、それじゃあお前が家に一人だけか。きび団子食わせろよ」
「はいはい」
「桃ちゃん、悪いねぇ。ひひひ」
僕は台所に行くと冷蔵庫を開けて中に入っていたきび団子ののった皿を取り出した。居間にいくと丸いテーブルを猿島と犬田が囲んで座っていて、2人はテレビを見ている。
「こんな連中に馳走などせんでもいい」
「わかっているよ」
守護霊様は僕にそう言うが、馳走を出さないとこいつらはうるさくなることを僕は知っていた。せっかく家でテレビを見ているのにガミガミうるさいのが守護霊様以外にも増えてしまったら僕の休日が台無しになってしまう。だから馳走を出すぐらい別に何ともなかった。
「おい、桃吉。何がわかったんだ?」
猿島が丸いテーブル越しに俺に言ってきた。
「別に」
「桃ちゃん、独り言すきだねぇ。ひひ」
犬田は相変わらずよだれを垂らしながら薄気味のわるい笑いを浮かべている。
「ほら、君たちの好きなきび団子だぞ」
「待ってました!」
「桃ちゃん、ありがとぉ」
猿島と犬田はそう言うときび団子を手に取りがつがつと食らいついた。その様子を見ていると僕は動物が餌を食べる風景を連想した。もちろんこいつらにそんなことは言えないが、こいつらは僕と比べると多少、動物的な所が多い。食欲、乱暴さ、粗雑さ。僕みたいな繊細な人間がなぜこんな連中と友達でいるのか、僕にも不思議だった。
「この間、中島先生のやつがよぉ」
猿島はきび団子を食べながら学校の教師である中島先生の話を切り出した。中島先生は僕たちのクラスの担任だった。
「俺がテストでカンニングしたって言ってよぉ。ゲンコツなんてくれやがったんだぜ」
「ひひ。ゲンコツで済んでよかったじゃない、猿島くん」
「犬田てめぇ! 俺が痛い思いして良かったってのか?」
「ち、ちがうよぉ。そんなこと言ってないよぉ」
「ち。カンニングしたのはそうだけどよぉ。ゲンコツくれることねーじゃねぇか。なぁ桃吉?」
「うーん。僕もゲンコツで済んで良かったと思うよ。停学とかになったらいやじゃない」
「ち。お前もかよ。たくよぉ」
猿島はそう言うとごろんと寝転んでテレビを見続けた。テレビでは相変わらずお笑い芸人が面白いことをやっていた。なぜかお笑い芸人達は全身まっ黄色になっている。
「この猿島ってやつは、本当に乱暴な人間だな」
守護霊様はそう言うと下あごを撫でるようにした。
「よし、腹ごしらえもしたし、チャンバラでもやるかぁ」
猿島はそう言うと立ち上がった。犬田はびっくりしたような顔をして猿島に言った。
「猿島くん、ご飯食べたばっかりで運動したら、身体に悪いよぉ?」
「うるせぇ! 犬田、まずは俺の相手はてめーからだ。さっさと枝を拾って来い!」
犬田はしょげた顔をして居間から家の庭にでると、木の下に落ちている枝を二本拾って猿島の元に戻ってきた。
「またチャンバラかよぉ。僕、苦手だから嫌だなぁ」
僕はそう言うと眉間にしわを寄せて猿島に言った。
「ばかやろう、男は腕っぷしが一番だ。腕っぷしが良くなきゃ女にだってモテない。さぁこい犬田!」
猿島と犬田は庭に出ると、犬田がへっぴり腰になりながら猿島に面を食らわせようとした。だが猿島はそれをさばくと犬田の腹に胴を入れるのであった。犬田は猿島に胴を食らうとその場にへたりこんだ。
「どうしたぁ、犬田ぁ。そんなもんか、だらしねーな」
「ううー、ううー」
犬田はうめき声を上げながらよだれを垂らしている。
「次、桃吉! 来い」
僕は犬田の元から枝を拾い上げると、猿島の前に出て構えた。すると守護霊様が言った。
「構えがなっちょらん。もっと剣先を下げろ」
「へっぴり腰だ。腰を入れろ」
守護霊様はそんなようなことを僕に言い続けた。僕は守護霊様のアドバイスが耳障りでちっとも気が乗らない。耳元でこんなことを言われてまともに戦おうというのがおかしい話だ。そんなことを考えていると猿島が飛び掛かってきた。
「食らえぇ!」
「あぶないぞ、右に避けろ」
僕は左に避けようとしていたが、守護霊様のその一言につられて途中で体を変えて右に避けようとした。だが、間に合わずに猿島の面をもろに食らってしまった。僕は頭を押さえてその場にうずくまる。
「はは、桃吉もよわっちいなぁ。なんでそんなに剣が下手なんだ?」
猿島はそう言うと勝ち誇ったような顔をして僕に言ってきた。僕はカチンと来てつい言ってしまうのだった。
「守護霊様のせいだよ。この人がさっきから耳元でうるさいんだ」
猿島はポカンとした表情で僕を見てきた。僕はしまった、と思った。
「守護霊? 守護霊の声を聞いてるのか? 桃吉よ」
「そうだ」
「ははは、そういうのオカルトって言うんだぜ」
猿島はそう言って笑った。
「俺に敵わないからって守護霊なんかのせいにして、だらしねぇやつだ」
「違うよ、僕は剣はほんとはうまいんだ。それを守護霊様がさぁ」
「なんだ。わしのせいにするのか、桃よ」
「うるせえ! お前は俺に負けたんだ。いさぎよく負けを認めな」
「ちょっと、守護霊様、今は黙ってて」
「……桃吉、お前、ほんとに守護霊と話をしてるのか?」
「そうだよ。何度も言ってるだろ」
「桃吉、お前……」
猿島がそう言い終わると、居間からお婆さんが声をかけてきた。
「桃吉、いま帰ったよ。なんじゃ、お友達かい」
「お婆さん! こんにちは!」
「おじゃましてますぅ。ひひ」
猿島と犬田はそう言うと、お婆さんに挨拶をした。
「お婆さん、きび団子、ご馳走になりました! おいしかったです!」
猿島は枝を捨てて威勢よくお婆さんに話しかける。猿島は僕のお爺さんとお婆さんには敬語を使うのだった。僕はそれを聞いていると、猿島はほんとに人によって態度を変えるやつだなぁと思うのだった。犬田も例外じゃなかった。
猿島はお婆さんに走り寄ると何かを耳打ちした。するとお婆さんがぎょっとした顔をして僕を見てきた。僕はああ、猿島のやつ、余計なことをと思った。
「これ、桃吉や。こっち来なさい」
「なに? お婆さん」
「守護霊と話が出来るってのはほんとかい?」
「えーと、はい。ほんとです」
「いつからだい?」
「昔からです」
「そうかえ、お爺さんにも話さないといけないね」
お婆さんはそう言うと神妙な顔をしながら台所に消えていった。猿島と犬田は気が済んだと見えて、家からいなくなった。夜になりお爺さんが帰ってくると、お爺さんとお婆さんが話し合っているのが台所から聞こえてきた。するとお爺さんが僕に言った。
「これ、桃吉。明日の学校は午前は休みなさい。連れていくところがあるから」
僕はそれを聞いて「しまった」と再び思った。猿島のやつがお婆さんに僕の守護霊様のことを言ったせいで、やっかいなことになったなぁと思うのだった。
「ははは。桃や、明日はどこに連れていかれるんだろうなぁ?」
守護霊様は呑気そうにそう言うと笑った。
翌日になり僕はお爺さんとお婆さんと一緒に車に乗ってどこへやらと連れていかれた。しばらく町の景色を車窓から見ていると、季節はすっかり春だなぁという印象を僕は受けた。街路樹も色が付きはじめ、陽気も暖かくなっている。しばらく車に揺られながら町の中を進むと、白い建物の駐車場に車は入っていった。建物の看板には「メンタルクリニック」と書かれていた。僕はメンタルクリニック? なんだそれは? と思いながら駐車場に停められた車から降りて建物の中に入っていく。建物の中は待合室と受付があり、受付には若い女性が二人座っていた。お婆さんが受付で済ませると、僕たち三人は待合室のソファーに座ることになった。目の前には本棚があり、絵本が並んでいる。その中に「憂鬱」という本があった。僕はその本を本棚から取り出すと、ペラペラと中身を読んでいく。
しばらくすると受付の女性が「桃吉さん」と名前を呼んだ。僕は三人で待合室の廊下を通って部屋の中に入っていく。すると年のころは四十代ぐらいであろう白衣の医者が机を隔てて座っていた。
「キジ沢です。どうされました?」
白衣の医者が僕たちに聞く。
「実は……」
お婆さんが僕の守護霊について話し始めた。すると医者は興味深そうに聞いている。守護霊様は「おいおい、ここは病院みたいだぞ」ときょろきょろしている。
「桃吉くん、守護霊はいつからいるんだい?」
医者が僕に聞いてくる。
「昔からです。たぶん生まれたころから」
「なるほど。昔からなんだね」
医者は机の上のパソコンに何かを打ちこむと続けた。
「守護霊はどんなことを言ってるの?」
「いやー、どんなことって……。お腹減ったとかそんなようなことです。あまり大した話はしません」
「なんだと」
守護霊様がかちんと来たみたいで僕の目の前に仁王立ちになった。
「ちょっと、邪魔です」
「邪魔? 邪魔と言うと?」
「いえ、今守護霊様が目の前にいて、それが邪魔なんです」
「なるほど。守護霊が見えているんだね?」
「はい」
「どんな風に見えるの?」
「足元がぼやけてて、体は半透明。色は灰色」
「守護霊に何か命令されたりとかはある?」
「昨日、鬼退治に行くなって言われました」
「鬼退治って?」
「鬼退治は鬼退治ですよ。先生」
「なるほど」
それからしばらくしてお爺さんとお婆さんが色々質問して医者が答えていた。僕はやれやれ、面倒なことになったとうんざり気味であった。守護霊様は部屋の中をうろうろしながら、ぶつぶつと独り言を言っている。
ほどなくして僕らは解放になった。また来週、ここに来るように言われたが、正直僕はもう来たくなかった。
帰りの車中ではお爺さんとお婆さんが色々話し合っていた。僕は窓の外の景色を眺めている。春の陽気が頭を麻痺させるような、そんな錯覚に陥っていた。
「桃吉、お前今、何歳だ?」
猿島が牌を指先で握りながら聞いてきた。僕は答える。
「二十歳だけど?」
「お前、昨日が誕生日だったろ」
「そうだよ」
「おめでとう~。桃ちゃん」
犬田はそう言うと牌を切って自分のツモを見ている。
「人の誕生日覚えてるなんて薄気味悪いやつだな」
「なんだとぉ? 喧嘩売ってるのかよ」
「いや、売ってないけど」
「へ。あ、それポン」
猿島はそう言うとポンした牌をわきに置いた。
「あ~、それ、わしの牌……」
守護霊はそう言うと恨めしそうに猿島が取った牌を眺めた。僕は守護霊の牌を切ると自分のツモ牌を眺める。僕たち四人は麻雀をしていた。
そこに爺さんがやってきて言った。
「おい、桃吉や。お前、働かんのか?」
「えっ」
僕は虚を突かれて素っ気ない返事をした。
「お前、もう二十歳だろう。大人だ。働かんのか?」
「いや~、爺さん。えーと、うん」
「なぜ働かん?」
「何というか、気乗りしないんだよね」
「気が乗らないから働かんのか?」
「うん。僕の仕事は働くことじゃないと思うんだよね」
「……」
「それに守護霊も働かなくていいって言うし」
「おう。働かんでいいぞ、桃」
守護霊はそう言うと自分のツモ牌を眺めた。
「守護霊が働かなくていいと言っているのか?」
「そうだよ、爺さん」
「何を言ってるんだ、お前は……」
爺さんはそう言うと溜息をついて居間の床に座った。片手で頭を掻いている。爺さんのこの様子は僕はまずいなぁという目線で見ていた。爺さんの雷が落ちるような気がしていた。
「いいから働け! 桃吉や!」
爺さんが大きな声を出して僕はびくっとした。突然大きな声を出すもんだから麻雀卓を囲んでいる四人はいっせいに爺さんの方を見た。
「働けだってよ、桃吉」
猿島はにやにやと笑いながら僕にそう言った。
「桃ちゃん、年貢の納め時だよ。ひひ」
犬田もにやにやと薄気味の悪い笑顔を浮かべながらそう言った。
「働かんでいいぞ、桃」
その中で守護霊だけが僕の味方だった。
僕はなぜ働かないのか、自分で考えたことがなかった。僕にとって働かないことはごく自然なことだったからだ。
「働けー! 桃吉ー!」
爺さんはそう言うと立ち上がり僕に掴みかかってきた。僕は爺さんに耳をつねられて「いたい、いたい」と情けない声をあげる。猿島と犬田はその様子を見ながら喜んでいた。犬田などは両手を叩いている。
「いやだ~」
僕はそう言いながら爺さんの指を振り払った。そうすると爺さんがいよいよ麻雀卓をがっと両手でつかみ、それをひっくり返す。他の三人は「あー!」と言いながら落ちた牌を拾い上げていた。
「なにすんじゃ、この爺!」
守護霊は怒った。そして爺さんに向かって何度も右ストレートを放っているが、守護霊の右腕は爺さんの身体を突き抜けて空振りしている。
その日はそれで解散になり、僕は家から逃げ出して図書館に向かった。そして図書館で時間を潰し、しばらくするとまた家に戻ってきたのであった。爺さんに見つからないようにこっそりと玄関を開けて家の中に入り、自分の部屋まで忍び足で歩いていく。婆さんが用意してくれた夕飯を台所から持ってきて自分の部屋で食べる。今日はハンバーグであった。婆さんは爺さんと違って俺に働けなどは言わない。爺さんはここ最近はこんな調子であった。
翌日、また家に猿島と犬田が来て今度は僕と三人でポーカーをやっていた。守護霊はポーカーには参加せず、僕の持ち札を見ながらあーでもないこーでもないとぶつぶつ呟いている。爺さんは横になってテレビを見ていた。
そこへ婆さんがきび団子を持ってきて居間の丸いテーブルの上に置くと、爺さんに向かって言った。
「お爺さん、なんでも町に鬼が出たらしいじゃよ」
「鬼だって? どこの鬼だ?」
「隣町の鬼ヶ島から来てるらしいって噂じゃ。町で暴れまわってるってよ」
爺さんは起き上がると婆さんを見ていたその顔を素早く僕の方に向けた。
「おい、桃吉。お前の出番じゃ」
「えっ」
「お前、鬼ヶ島まで鬼を倒しに行ってこい」
爺さんはそう言った。僕はとうとうこの日が来てしまったかと、背中に電流のようなものが微かに走った。鬼退治だ。僕の宿命。しかし守護霊は言っている。
「桃や、鬼退治なんて行かんで良いぞ」
守護霊はそう言いながら鼻をほじっていた。
「守護霊は行かなくて良いって言ってるけど」
僕は爺さんに言った。
「何を言っとる。お前が行かなくて誰が鬼退治に行くんじゃ」
「僕には向いてないよ」
「お前は桃吉じゃ。桃吉よ、お前が鬼を倒すのはお前の宿命なんじゃ」
「そんなこと言ったって、嫌なもんは嫌だよ」
「馬鹿言っとる、なにが嫌じゃ。人々が苦しめられてるんだぞ、鬼に」
爺さんは立ち上がる。
「お前が、桃から生まれた桃吉じゃ。お前以外におらぬ。お前にしか出来ん仕事じゃ。それが鬼退治じゃ。お前が鬼退治しないなら、この家からお前を追い出す」
「この家から追い出すって、そんな」
僕は愕然とした。
「へっへっへ。桃吉、困ったな」
猿島はそう言いながらきび団子をほおばっている。
「桃ちゃん、どうするの? ひひ」
犬田はにやにや笑いながら僕を見ている。
僕は鬼退治を想像するが、良い映像が何も浮かばなかった。鬼たちに叩きのめされてそれで終わりになるという映像しか出てこない。僕はその映像を浮かべながらなんとか爺さんを説得する方法を考える。
「爺さん、僕を追い出したら誰が鬼退治をするんだい?」
「お前、鬼退治に行きたくないと言っとろうが」
「そうだけど、僕にも住むところが必要だよ。住むところも無いのにどうやって鬼退治が出来ると言うんだ。爺さんは僕をこの家に置いておくべきだ」
「だから、鬼退治に行くなら問題ない。お前が鬼退治に行かないというなら追い出す、と言うとる」
「僕は鬼退治には行きたくないんだけど、家に置いてくれたら気が変わるかもしれないじゃないか。その内、鬼退治に行きたくなるかもしれないじゃない」
「その内っていつじゃ?」
「その内はその内だよ。一週間後か、一カ月後かもしれない」
「よかろう。一週間は家にいてもよい。だが一週間経っても鬼退治に行かないとなるなら、家からは追い出す。わかったな、桃吉」
「……」
僕は沈黙した。僕が家から追い出される。収入のない僕が。収入のない僕が家から追い出されたら僕はホームレスになるのだろうか。家の無いホームレス。季節は秋で外は肌寒くなってきた。こんな季節にホームレスになったら僕は生きていけるのだろうか。鬼退治に行くか、ホームレスになるか。僕は決断を迫られていた。
「桃や、鬼退治なんぞ行かんで良いぞ。ホームレスにでもなんにでもなれ。きっと生きていける」
守護霊はそう言いながらあくびをした。守護霊は自分が鬼に叩きのめされた過去を持っているから鬼退治に対してはナーバスになっている。だから子孫の僕に同じ思いをさせたくないと思って鬼退治には行くなと言っている。つまり守護霊の先祖心から僕のことを気遣ってくれているわけだ。
だが、今の僕には現実が突き付けられている。鬼退治に行かなかったら僕は家を追い出される。それが現実だ。
その夜、猿島と犬田を連れて僕は町の居酒屋に出かけた。僕は居酒屋の中に入るとテーブルの椅子に座り、焼酎を注文する。猿島はレモンサワー、犬田はオレンジジュースだった。僕は焼酎を飲むとぐっと胸につかえていたものが段々とあふれ出すのを感じた。自分の責任と重圧。そして家から追い出されるという現実に今の僕は向き合わなければいけない。なにより、鬼と対峙しなければいけないという恐怖にも立ち向かわなくてはならなかった。
「鬼退治なんて無理だ。僕には無理だ」
「かもなぁ。お前、臆病だしな」
猿島はレモンサワーを飲みつつ焼き鳥を食べながら僕には目もくれずに言った。犬田はオレンジジュースをちびちび飲んでいる。
「第一、鬼ってどんなやつなんだ?」
僕は猿島に聞いた。
「知らねぇよ。町で暴れまわってるって言うから、乱暴者なんだろ」
「猿島くんと一緒だね、ひひ」
「なんだとぉ! おい、犬田ぁ! クシ食わせるぞ!」
猿島は犬田をヘッドロックして焼き鳥のクシを犬田の鼻に押し込む素振りを見せる。犬田は涙目になりながら「やめてよぉ、やめてよぉ」と懇願していた。
「そんな乱暴者に、僕が叶うと思う?」
「まぁ、無理じゃろな」
守護霊は言った。
「無理だろ。お前みたいな臆病者に乱暴者の相手は」
猿島はそう言うと犬田のヘッドロックを解いてレモンサワーを再びやりだした。犬田はぜーぜー言いながらオレンジジュースのジョッキにしがみついている。
「桃吉、お前、正直自分が桃吉として生まれて後悔してるだろ」
「え? うーん、してるかも」
「だろうなぁ。お前は鬼退治をしないと世間が許してくれない。家にひきこもってただ飯食らってるだけのお前なんて世間は許さない」
猿島はにやにやと笑いながら僕に言った。僕は猿島の言うことを聞きながらその通りだと思った。僕は今、思い返せば、桃から生まれたことでずいぶん良い待遇を受けてきたように感じる。学校のテストで悪い点を取っても先生は「お前は桃吉だからな」と言って怒ったりしなかった。運動会でびりっけつになっても周りは「桃吉は桃吉だからな」と言って笑ってくれた。僕は桃吉という身分に甘えて今まで自己研鑽的なことはしてこなったかもしれない。それもこれも僕が鬼退治をするという約束事があるから、みんな許してくれたのかもしれない。だが、今日の爺さんは違った。僕が鬼退治に行きたくないと言ったら人が変わったようだった。僕は鬼退治に行かなければ用無しな人間なんだろう。
「行こうかな、鬼退治」
僕はぽつりと呟く。すると守護霊が血相を変えて言った。
「何言うとる。行かなくていい。お前じゃ無理じゃ」
「でも、僕は鬼退治に行かなくてはいけないんですよ。それが僕の宿命なんです」
守護霊は眉間にしわを寄せて困ったような顔をしている。
「お。鬼退治に行くのか? 桃吉。やめとけやめとけ、お前じゃ返り討ちに合うのがオチだぜ」
猿島はそう言いながら焼き鳥をほおばっている。
「そうだよ、桃ちゃん。無理しない方がいいよ。ひひ」
犬田は細い目をさらに細めながら僕を諭してくる。
「でも、鬼退治は僕の存在意義なんだ。僕が鬼退治に行かなかったら僕は消えてしまうかもしれない」
その夜はそれで更けて、僕らは解散した。僕は緊張と不安で眠れなくなってしまっていた。鬼たちと対峙することを考えると身がすくむ思いだった。正直、居酒屋ではああ言ったけど、僕はまだ悩んでいた。本当に鬼退治に行くべきか、それともこのまま家を出て逃げるべきか。僕の人生は選択を迫られていた。
翌日になり、僕は部屋で目を覚ますと部屋の時計を見た。時刻は朝の十時だ。僕は部屋を出て階段を下りて台所に向かう。婆さんが何か料理を作っていた。僕は婆さんに「おはよう」と挨拶をすると、婆さんは「おはよう、桃吉」と言って笑顔を見せた。
「桃吉や。お前、鬼退治には行くのかえ?」
婆さんは料理をしながら僕に聞いてきた。
「わからない」
と僕は答える。
「それでええ。宿命なんて背負うもんでもないんじゃ。嫌なら逃げたっていいんじゃ。なぁ、桃吉や」
婆さんはそう言うと湯が入った鍋に火を入れた。僕は冷蔵庫から炭酸飲料を取り出すと蓋を空けて一口飲む。シュワシュワとしたノド越しが伝わってくる。僕は冷蔵庫を閉じると、婆さんに言った。
「そうだけど、婆さん。俺、鬼退治に行ってみるよ」
「桃吉や」
「きっと大丈夫さ。何とかなるだろ」
僕は一瞬沈黙してから婆さんに言った。
「婆さん、きび団子を頼む」
婆さんがきび団子をこしらえる間、僕は部屋着から外着に着替えて玄関前で仁王立ちになった。婆さんがきび団子を持ってくると僕はそれを背中のリュックサックに入れて靴を履いた。僕は婆さんに「行ってくる」と言って玄関の扉を開けた。だが足が前に進まない。僕は心の奥から黒いモヤモヤとしたものが湧き上がってくるのが感じられた。その黒いモヤモヤは僕の足を止まらせて僕をひざまずかせようとしてくる。僕はその場に膝を付き、息を漏らしながら玄関の床を見ている。
「桃吉や……」
婆さんは心配そうに僕の後ろに立っている。僕は鬼退治への不安で胸がいっぱいになってしまっていた。そして足が前に進まない。鬼退治? 臆病な僕が? そんなことが可能なのか? 僕は婆さんを見て言った。
「婆さん、やっぱ無理かも……」
僕は部屋に戻ると外着のままベッドで横になった。底知れぬ不安を玄関で感じてからまだその黒い心の動揺は収まらない。僕はまるで心臓を悪魔に握りしめられているかのようにその身を屈めるしかなかった。
「桃吉、お前じゃ無理じゃ。無理するな」
守護霊はそう言うと残念そうな表情を浮かべた。
僕は愕然とした。鬼退治は無理なのか。僕はベッドで横になりながら壁に掛けられた時計を見ている。こんな時、頼れるのはあの人しかいない。
僕はメンタルクリニックのキジ沢先生に会いに行くことにした。
「鬼退治に行くことを考えると不安になってしまって……」
「ふむ」
白衣のキジ沢先生は椅子の背もたれによりかかると、興味深そうに僕の話を聞いている。僕からはパソコンの置いてある机の前に座るキジ沢先生と、その後ろにあるカーテンと観葉植物、そして白い壁に掛けられている丸時計が見えていた。
「鬼退治に行こうと思ったんです。婆さんにきび団子も用意してもらって玄関前まで行ったんです。でも、そこで足がすくんでしまって前に進めなくなって、その場に膝を付いてしまうんです。僕は鬼退治に行くにも、僕のメンタルでは鬼退治に耐えられないということでしょうか」
「なるほど。不安感が強いんですね」
キジ沢先生はパソコンに何か打ち込むと、そう言って話をつづけた。
「桃吉くん、鬼退治のことを想像してるんじゃないですか? それで想像して色々考えて不安になると。違いますか?」
「そうです。鬼退治のことをあれこれ考えると、悪い予感ばかり浮かんでしまって不安になってしまって」
「なるほど。鬼退治はどうするんですか? 行こうとは思ってるんですか?」
「行けるなら行きたいです。このままだと家から追い出されてしまうし……。それに僕の宿命だと思ってるんで」
「宿命ねぇ。しかし、個人の能力と言うものがあるから、無理はいけませんよ」
「この不安感さえ何とかなれば大丈夫だと思うんですけど……」
「不安感は薬でどうにかできますよ。でもね、本当に桃吉くんが鬼退治に行くべきかなのかっていうのは、それとは別の問題」
「先生は僕は鬼退治に行くべきだと思いますか?」
「それはさっきも言ったように個人の能力があるから。そういう仕事をすることになって生まれてきたとしても、個人の能力が不足していたらできないでしょ。できないことをやれって言ってもそれは無理だからね」
「はぁ……」
「まぁ、薬は出しますよ。それで飲んでみて、もう一回よく考えてみることだね。なんなら鬼退治も暴力的な解決ではなくて、鬼との話し合いを検討した方がいいかもね」
キジ沢先生はそう言うとパソコンに何かを打ちこんだ。そして僕は部屋から出ると受付で薬の処方箋を受け取る。僕はメンタルクリニックの近くにある薬局でその処方箋で薬を買うと、自販機で水を買い近くの公園のベンチに座った。公園の木々はオレンジ色になっていて、秋の深まりを感じる。うす寒いベンチで僕は薬を取り出して一錠口に入れて水で流し込んだ。公園の砂場では子供たちが遊んでいた。子供の年の頃は十歳ぐらいだったが、僕はそれを見て僕が十歳の時はまさかこんなことになるとは思わなかったと思うのであった。あの頃はまさか、二十歳になって鬼退治のプレッシャーでこんなに不安になり神経をすり減らすことになるとは思いもしなかった。十年の月日の流れの中で僕は何も準備をしてこなかった。守護霊に鬼退治には行くなと言われていたけど、もっと剣の腕を磨いたり、度胸を付ける訓練をしたりしていたら、今とは違う未来があったかもしれない。だが、そんなようなことを考えてももうどうしようもなかった。現実はあと数日で僕は家から追い出されるということ。でも家から追い出されてアルバイトでもして自立すれば鬼退治には行かなくて済む。だけど僕は、どうも働くということに関してもほとんど能力が無かった。今までの自分は僕には鬼退治という仕事があるから、他の仕事などはしなくてもいいと思っていたふしがあった。だが現実は鬼退治に行くこともできない状態で、その言いわけにしていたものが崩れてしまっている。今の僕は何もできない無力な、もう子供ではない人間でしかなかった。
それから一時間が経った。不思議と僕はあの鬼退治の不安感を感じなくなっていた。それどころか気分は上々ですがすがしい気持ちになっている。僕は鬼退治のことを再び考えた。「今ならいけるんじゃないか」と僕は思い立つと、スマホで猿島と犬田を呼びつけた。公園に猿島と犬田が来ると二人が言った。
「てめぇ、桃吉。こんな寒いところに呼びつけて何の用だよ、こらぁ」
「桃ちゃん、どうしたの? ひひ」
僕は二人の顔を見て言った。
「鬼退治に行こうと思う」
僕がそう言うと二人は顔を見合わせてまた僕の方を見た。
「おいおい、臆病者の桃吉が鬼退治に行くだって? どうしたんだよ、おまえ」
「桃ちゃん、何かあったの? ひひ」
「鬼とは話し合いで解決する。でも、武器は必要だ。身を守るためだ。これから武道具屋に木剣を買いに行くぞ」
「鬼と話し合いだって? なに言ってるんだ、こいつぁ。とうとう恐怖で頭がいかれちまったのか」
猿島はそう言うと頭を掻いた。
「え、ちょっと待って、桃ちゃん。僕たちも行くの? ひひ」
「そうだ。お前たちも一緒に来い。それが宿命だ」
「はぁ~。宿命ねぇ。便利な言葉だね、ほんと」
三人はそれきり、公園から歩き出した。町の武道具屋に向かう。途中、守護霊が言った。
「おい、桃や。考え直せ。お前には鬼退治は無理じゃ」
「大丈夫だよ、守護霊様。今の僕なら大丈夫」
「お前は今は薬で気が強くなってるだけじゃないか。そんなんで鬼退治に行っても後悔するだけだぞ」
「薬の力だって、立派な力だ。この力を利用して僕は僕の仕事をするんだ」
あれほどあった不安感は本当になくなっていた。僕は今なら鬼退治だってアルバイトだってなんでも出来る気分だった。不安感が無くなるだけで人はここまで強くなれるということを僕は知った。今まで僕を苦しめていたのは臆病から来る不安だったのだ。しかし今は薬でその不安もない。僕は気が強くなっていた。
武道具屋に着く。店の中には武道で使われる道具が所狭しと並んでいた。僕はその中から木剣を一つ選ぶとそれを右手に持って自分の前にかかげた。木剣はすらっとして長く、この木剣があれば鬼たちも恐れて手を出してきまいと思えるようなものだった。僕は店主のいるカウンターに行くと、木剣をくださいと言って木剣を買おうとしたが、すると店主が次のように言うのだった。
「これから何か一仕事あるって顔ですね」
「ええ。これから一世一代の大仕事です」
「今、当店で購入された方には無料で占いをやっているんですが、どうですか」
「占いだってよ。桃吉。うけてみろよ」
猿島はそう言うとカウンターに肘をついて僕の方を見た。
「お願いします」
僕は店主にそう言うと、店主は占いを始めた。何か細くて短い棒のようなものを複数もってそれをジャリジャリと掌で回している。そして棒を一本取り出すとそれを見て次のように言った。
「うーん。これは……お客さんついてないですね。大凶ですよ」
僕たちは武道具屋を出ると、その足で駅に向かった。占いの結果はかんばしくなかったが僕は気にならなかった。犬田は占いを見てから「桃ちゃん、やめようよ。帰ろうよ。ひひ」と言うようになったのでそれが少々わずらわしかったが、僕たちは駅に着くと切符を買って電車に乗るのだった。
電車の中で揺られながら、他の乗客がちらちらと僕たちを見ていた。その乗客の一人がなにかつぶやくように、
「鬼退治だ。鬼退治だ」
と言うのであった。その乗客は羨望のまなざしで僕たちをちらちら見ている。僕はそれが気分が良くて少し良い気になってしまうのだった。猿島などは乗客にガンを付けて「こっち見てんじゃねぇ!」と威嚇をしている。ああ、これから僕は鬼ヶ島に鬼退治に行くんだ。もう電車もすぐに着く。鬼ヶ島に着いたら、鬼たちのいるたまり場を探さないといけない。たまり場を探したらそこに乗り込んでいって話し合いをして解決する。話し合いがだめだったら木剣にモノを言わすしかない。
電車が鬼ヶ島駅に着くと、僕たちは電車から降りて行った。そして駅前の広場に出ると町を見渡した。薄暗い町で、コンクリートの打ちっぱなしの建物が並んでいる。駅前の広場の木々はすべて枯れていて、壁には落書きが沢山あった。地面にはゴミが散乱し、空模様が雲でどんよりと暗くなって町の中に不気味さを漂わせていた。
駅前の公園にそれがいた。
「桃ちゃん、あれ……。ひひ」
「おい桃吉、あれ、鬼だぞ」
「あれが鬼か……」
僕がそうつぶやく先には鬼が四人ほどヤンキー座りで座っていた。鬼達は4人で丸い輪を作り向かい合って何やら話していた。すると一人の鬼がこちらに気付いた。鬼は「あーん?」と言いながらこっちに向かって歩いてくる。僕はその光景を見ながら来る場所を間違えたことをはっきりと意識した。
「おめぇ、なぁんだ、その木刀」
鬼の一人は僕が持っている木刀に目を付けたようだった。鬼は下から舐めるようにして僕の顔に視線を移していく。
「ケンカぁ、売ってんの? ああ?」
そこに猿島が僕と鬼の間に割って入った。
「なぁんだ、鬼こら。てめぇ、なぁんだ、こら」
猿島は鬼に因縁を付けると鬼と顔がすれすれになるぐらいに自分の顔を近づけた。
「あんだぁ! こらぁ! あああ!」
鬼は大きな声で叫んだ。すると後ろにいた残り三人の鬼たちがこっちにやってきた。
「ああんだ! んら! ああ!?」
「うい! ういい! こらぁあん!」
「おいい! おいこらあぁ! ああ!」
鬼たちは口々に奇声を上げて僕たちを取り囲んだ。犬田は完全に沈黙し、猿島は額に汗を見せながら虚勢を張っている。僕はガタガタと木剣を握りしめた手を震わした。
「おらぁ!」
猿島は鬼の一人に殴りかかった。猿島の拳が鬼の顔面にヒットするが、鬼はなんともなしに反撃をしてきた。鬼の前蹴りが猿島のみぞおちに入り、猿島はダウンした。猿島はぴくぴくと身体を震わせて前のめりになり顔を地面につけている。
「おーんら! おーんら!」
鬼達が猿島を取り囲み次々に蹴りを入れる。猿島は声にならない悲鳴をあげながら身を縮こませて鬼たちの攻撃を防いでいる。僕はそれを見て叫んだ。
「やめろ! 僕は話し合いに来たんだ!」
鬼達は一斉に僕の方に振り返る。そして僕を取り囲んだ。
「ああ、まずいぞ。桃。逃げろ、はやく」
守護霊は僕にそう言うが僕は止まらなかった。
「君たち鬼が、隣町で迷惑をかけていると聞いた。暴れまわっているんだろ。やめないか、そんなことは」
僕は声が震えているのを自覚しながらなんとか言葉をつむいだ。
鬼達は互いに顔を見合わせて沈黙した。だが次の瞬間、鬼たちは顔を歪ませて大きな笑い声をあげる。僕はその様子を見て、ああ、この鬼たちは話が通じないみたいだと悟った。話が通じない相手に出くわすのはこれがはじめてだが、以前からそういう奴がいるとは聞いていた。彼らはまさにそれだった。
鬼の一人が僕の襟を掴んでくる。その鬼はにやりと不気味な笑いを浮かべて僕の顔面にパンチを浴びせた。僕はそれで一瞬目の前が明るくなり、気が付くと鼻に熱を感じていた。僕の鼻からは赤い血がだらだらと流れている。僕はこれがパンチか、と素直に感心した。
「逃げろ! 桃、逃げるんだ!」
守護霊が叫ぶ。すると犬田がその場から逃げ出していった。残された僕と猿島は鬼達四人に取り囲まれて火中にいた。
次の瞬間、僕は持っていた木剣で目の前の鬼に反撃をした。木剣は鬼の肩に当たり、その鬼は「ぎゃ!」と悲鳴をあげて地面に倒れた。
「んらあ! こらあ!」
残りの鬼たちが僕に襲い掛かる。僕は輪の中から飛び出して鬼を一人一人相手にできる位置に移動した。そして木剣で目の前の鬼に突きを食らわせる。鬼は悲鳴をあげてその場に倒れた。残り二人。残りの鬼達は立ち止まり、すっかり面食らったような顔をしている。僕は木剣で飛び掛かり一人の鬼の腹を叩いた。すると鬼はくぐもった声を出して前かがみに倒れた。残り一人の鬼はそれを見るとその場から逃げ出した。
気が付くと僕らの周りには観衆がいて、皆がわーと歓声を上げている。鳴りやまない拍手の中、サイレンの音が近づいてくるのがわかった。僕は猿島を背負うと、その場から逃げ出した。
どれぐらい走っただろう。猿島を背負いながら走ると足がきしみ、荒い息が口から漏れ出してくる。僕はあごを上げて眉間にしわを寄せながら、何とか走り続けた。そしてやがて体力が付き、長い道路の途中で端に座り込んだ。すると猿島が目を覚まして僕に言った。
「へ……。臆病者のくせに……やるじゃ……ねえか……」
それから僕達は何とか自分の町まで歩いて行った。家に帰りついたのは深夜だった。家にはすでに犬田がいて「ごめんよぉ、ごめんよぉ」と僕たちに謝ってきた。僕達三人は僕の家の中に入ると居間に転がって横になった。
翌日になり、爺さんと婆さんが僕達を見つけ、手当てをしてくれた。特に猿島は手ひどくやられていたため、婆さんが念入りに傷を拭っている。
「いてーよ! お婆さん! いてて!」
猿島は痛がった声を出したがすっかり元気になっていた。
「猿島くん、大変だねぇ。ひひ」
犬田はそれを見て薄ら笑いを受かべていたが、猿島がその表情を見ると犬田の横っ面を張り手で叩いた。
「犬田ぁ、てめえ! 昨日はとっとと逃げやがって! よくここに顔を見せたなぁ!」
「ひぃ、ごめんよぉ。ごめんよぉ」
「まぁまぁ、良かったじゃないか。みんな無事で」
婆さんはそう言うと猿島に絆創膏を貼ってぴしゃりと叩いた。
「いってー!」
猿島が叫ぶ隣で僕は爺さんに傷の手当てを受けていた。と言っても僕は顔面にパンチを貰って鼻血を出したくらいだから大したことはなかった。
「よくやったのぅ。桃吉や」
爺さんは笑いながら僕の肩をぽんぽんと叩いた。僕はその様子を見ながら爺さんがこのあいだとは別人のように感じられた。
「うむ。大したもんじゃ。桃や、すまんかったのう。ワシは桃を見くびっていたようじゃ」
守護霊もそう言うと腕を組みうんうんとうなずいた。
僕の鬼退治はどうやら成功したらしい。周りの反応を見てやっとその実感を得たような気がした。昨日の映像が今のことのように蘇ってくる。僕は自分でもよくあんな風に立ち回れたなぁと思った。
僕はメンタルクリニックのキジ沢先生に会いに行った。キジ沢先生に鬼退治のことを報告する。キジ沢先生は喜んでくれたようで笑顔だった。
「桃吉くん、よくやったね」
「はい。なんとかなりました」
「それで、君の宿命とやらはこれで終わったわけだけど、これからはどうするんだい?」
「え、これからですか? 考えてなかったなぁ」
「もう君は仕事を終えた普通の人だ。普通に働いてみてはどうかな」
「そうですね……。働いてみますかね。もう二十歳ですし」
「うん、それがいいよ。私も応援してるから」
キジ沢先生はそう言うと笑顔で僕を見送ってくれた。僕はその足でコンビニに寄り、就職情報誌を手に取ってぱらぱらと眺める。レジカウンターで情報誌を買うと、僕はその足で家路に着いた。肌寒い秋の風の中、雲一つない青空で太陽がひときわ輝いて見えた。
おわり