なーんつかえんちゃ 寛治
第一章 家族のはじまり
遥か立山連峰から連なる山々の城ヶ平山。小さな山並みながら富山県上市の大岩不動をかまえ、山からのそれぞれの流れを集めた大滝を山腹に携え、滝の脇の山道 は、それぞれの村 下浅生、中浅生、上浅生を登り、中腹には、中ノ又、柿沢 小さな村を抱えもち生活が息づいていた。
父 発田太は、平家の落ち武者の末裔話に出てくる一帯に生まれた。上浅生に父の兄権三、柿沢に父の妹りく、中又のいなわに親戚が、それぞれの村に手を携えていた。父は、上浅生で親から引き継いだ木材を切り出す林業を兄と共に生業としていた。
昭和元年の頃、父は、魚津の漁師の娘 母 咲と上市の町で仕事の関係から知り合い周りも驚く早さで結婚することになった。そこで、父は、大雪に負けない当時としてはごっつい立派な二階屋を一年がかりで何人かの 仲間の助けを受け、自分で建て十八歳の咲を嫁に迎えた。
父の建てた中浅生の家は、大岩から下浅生をやり過ごし、両脇木々で覆われ日の当たらない山道を登っていくと、中浅生にかかり右下の方に山を切り開いた材木の切り出し置き場が見える。その脇の細い道を下りて行くと流れの早い小川があり丸太棒を三本組んだ橋が、一か所あった。
小川の両側には、冬になると、ネコヤナギの木が川に向かって群生し、銀色の産毛の綺麗な芽を見せた。橋を渡ると畑が広々と続き、前方遠くに見える山林の前に数軒が軒を連ねている、左端の二階屋が発田の家だ。父の仕事は、時代の要望もあり木材を切りだす林業。多忙を極めたが、大雪で仕事も止まることも少なくなかった。また、父は、生活安定のため、畑の農業と山へ籠っての炭焼きにもあわせて力をいれていた。山と一体になれる炭焼きの仕事を、父は好きだった。
母は、海の生活から山に入って初めは、戸惑ったが畑仕事の楽しさと、厳しいが山の自然に触れて二人で一緒に頑張れることに喜びを感じていた。
その後、昭和三年、長男 太一が生まれた。太一は、元気な子ですくすく成長し小学校、中学校ともに文武に優秀な成績を通して両親を喜ばせた。その時代もあり、兄は、空軍のパイロットに憧れをもっていた。
昭和十三年、長女 すみれが生まれた。
その二年後に 次女 こみちが、生まれた。
第二章 厳しい時代のなかで
その頃、戦火厳しくなり、姉こみちが生まれた年昭和十五年、ついにはこの山奥の父 太のところまで徴兵がかかった。これまで貧しいが幸福な5人の家族に、今までにない不安と緊張が走った。母は、子供を抱えながらも村の人達とお互い助け合いながら気丈に頑張り留守を守った。敗戦の色濃くなった昭和十八年、幸運にも内地軍の資材管務から除隊し、無事に戻った。
そして、終戦の昭和二十年、父 太四十歳、母 咲三十歳。終戦の八月十五日、日本敗戦の日に、寛治が生まれた。
その日、父は、気持ちの整理が出来ず、母と口を利かなかったそうだ。父は、除隊後、母が守っていた農業と山での炭焼きに力を注いだ。敗戦、納得のいかない気持ちを抑え二人で子供達のために、今できる仕事に突き進んでいった。その五年後、弟の念冶が生まれた。
戦時中、兄の太一は、空軍パイロットを目指し十五歳で、母の兄である伯父の東上助次の世話になり、東京で航空高専門学校に入学した。終戦後十八歳となった兄は、目標を失ったが気を取り直し、卒業から十年、叔父のもとで商売の勉強に打ち込み頑張った。そのころ、伯父の東上助次は、東京で浴場業を営み成功し数件浴場を経営していた。叔父は、妹の咲から太一を預かり勤勉な性格な兄を見込み、家族全員で頑張れる浴場経営の独立をすすめ実現させた。
そして、兄は、結婚を機に、父、母、兄弟を東京に呼び寄せた。
第三章 ニャン太との出会い
寛治が一歳になるころ、小学三年生の姉すみれと、一年生になる姉こみちは、近所の山崎兄弟五年生の吉造さんと三年生の学君の四人で、中浅生からの大岩小学校まで毎朝通学した。
雪のない時期は、みんなで楽しく花を見たり、虫を観察したりしながら、途中、中ノ又村、柿沢村へと山道をくだり、隣村の子達4人と合流し、最終的には八人グループで、学校まで一時間かけて通った。
冬の雪の時期になると子供達は、それぞれ太い青竹を割いて作った自分に合った竹スキーを自作した。姉たちは、学校までの山道を普段遊びで培ったすべり技術ですごい速さを楽しみながら登校した。ただし、億劫なのは、学校からの帰り道は、竹スキーを抱え、背負って山道を登って帰らなくてはならなかった。
寛治が五歳になる頃には、隣村でも知らない者がいないほどの竹スキーの腕前は名人になっていた。姉たちの登校に毎朝一緒に滑ってついて行ってしまい、帰りは一人でクタクタになりながら帰ってくる日々を過ごしていた。
ある日の帰り道、寛治が大岩神社横を通りすぎ山道に入り林の左下の大滝のザーザー落ちる滝の音を聞きながら山道を登っていると何か聞こえたような気がした。耳を澄ましてみると滝の音の隙間に “ビャー”という何かの鳴き声が聞こえた。
寛治は竹スキーをまずは置き、とても五歳の子供が降りられるようなところではなかったが、雪を掻きわけて竹笹をつかみながら、川の方へ滑り下りていった。そこには、滝壺からの川の岸になっているところに、茶色のものが見えた。近づくと寛治にむかって弱々しくニャーと鳴いた。
そのネコは、痩せていたが、寛治の身の丈の半分位ある大きな茶色のネコだ。
後ろの足が動かないようだった。ぐんにゃりしているネコを寛治は、スキーを背負う時に使う紐で、子供をおぶるように脇の下から紐を通して背負った。ネコも寛治にもたれるように背中にぴったりくっつき、ゴロゴロと助けてくれるのがわかったように喜びを表した。
寛治は、滝の流れ落ちる川の河原から山道まで草や小枝をつかみながら、雪だらけになりながら懸命に這い上がった。そして、道に置いてきたスキーを脇に抱えて、膝がガクガクしながら一歩一歩登り中浅生の右側の方に木材置き場が見えた。その脇の小道を這うようにやっとのことで寛治とそのネコは、家まで着いた。
寛治は、「ただいま!」「フラフラだが!」大きな声で家に入ると急に力が抜けて気を失った。
たまたま家にいた父と、弟 念冶を背負った母は、寛治を見て何が起こったのかと駆け寄った。
寛治に折り重なったネコを、父と母が、紐をそっと外してやった。そして、ずぶ濡れで痩せた大きなネコをタオルで包み擦ってやり横に寝かせた。気を失っている寛治を父は毛布で包み部屋に運び体をもみほぐした。母 咲は、すぐに温かい湯に砂糖を入れてゆっくり寛治に飲ませた。
寛治は、すぐ気がつき元気になり、「ネコどうしたが?」と聞いた。
父は、「大丈夫。向こうで休んでいるよ」と寛治に伝えた。
ネコは家についてから寛治の部屋で次の日になっても死んだように眠っていた。
寛治は心配になり、好きなスキーにも行かず、食いしん坊のはずなのに食事もとらず、
ずっとネコに付き添った。そんな寛治を見て姉二人も一緒になって見守った。
次の朝、ゴロゴロゴロという声で寛治は目を覚ました。寛治の顔の前に、茶と黒の寅柄の顔があり、ビックリした。
「お母ちゃん、ネコ起きたよ!」と大声で言うと、姉二人も飛んできて「よかったがや!」と一緒に喜んだ。
「お腹すいてるんだろが」と母は、にぼしを混ぜた大盛りご飯をネコに用意してくれた。
ネコが、ガツガツして食べはじめたのを見て「さあ、カンチャンも食べねい、用意できとるよ」と隣の部屋のお膳へ呼んでくれた。朝食を食べながら寛治は、昨日のいきさつを話した。
母は、「どうして大岩の大滝の河原にいたがねえ?」と不思議がった。
そして「お父ちゃん、おれが面倒みっから、家においてやってくれらせ」と頼んだ。
母は笑いながら「かんちゃん、ほんとにみれるんかね」と言うと姉二人も笑った。
朝食が終わり、みんなで部屋へ見に行くと、前からずっと居る自分の家のようにリラックスしてみんなの顔を順にみながら、横に大きく伸び寝転がり体をなめていた。
父が、ネコの痛めていると思っていた左後足を、頭をなぜながら触ってみた。
ネコは、怒りもしないで見せた。
「思ったより大丈夫そうだ。捻挫しているんだろう。五歳くらいになるのかな」と言った。
そのネコは、全身が、茶と黒の寅シマ柄だと思っていたら、右手と左手の内側の外側から見えない部分に、白の楕円形の柄がそれぞれあり、三毛ネコとわかった。性別は、すでに立派なものが見えていたのでオスとわかっていた。希少な三毛ネコのオスだ。
「三毛ネコのオスなんているんがねぇ」と母は言った。
「カンチャン、名前付けてやらなねぇ」学校から帰った姉すみれが、言った。
「私もつけたい」とこみちも言った。
寛治は、「ニャン太にするが」とあっさり言い放った。
こみちは、ちょっと不満そうだったが、「かわいいからニャン太でいいや」と納得した。
弟を抱っこしながら見ていて母が「もう考えていたんかねえ」とすみれと顔を合わせて微笑んだ。
仕事から帰ったきた父は、名前について聞くと「おれと同じ名前だやな」と笑った。
ニャン太は痛めていた後ろ足を舐めて日に日にびっこを引かなくなり、
一週間後には、元気な足に戻った。
また、痩せていた体ももりもり食べて、がっしりした体になり、ネコとしては稀な大きな体で、その体格をみた近所の人もとなり村の人たちも「太のとこは、犬を飼った」と噂するくらいだった。ニャン太は、ネコと思えない利口さで、特に寛治の言うことをよく理解し、朝起きてから寝るまでついてまわった。
ニャン太は、“家へ帰れや”“待っていろや”“ついておいでや”“寝るぞ”“拭いてやっから来い”“あれ持ってこ”等を犬を思わせる理解度で行動した。
一年後・・・寛治が六歳小学校に入学したころになると
学校にいる時間は、ニャン太は、寛治と離れているが、寛治が帰ってくるのを帰り道で待ち構え、一緒に山へ川へと動き回った。
父と母は、寛治の行動を親の目から離れて見えない心配も
あったが、なんとなくニャン太が
一緒だと安心していた。
第四章 父と炭焼き・つぶら池
寛治が五歳のこの年。弟の念冶が生まれ、母が無理できず、赤ん坊にかかりきりになり、この夏にかけて姉二人と畑仕事をしながら、父に次ぐ男手として、寛治は力を発揮した。
父も木の切り出しが一段落した時に、みんなと一緒に畑仕事に入り様子を見ながらお気に入りの炭焼きで山に入った。寛治も時折父と一緒に山に入り、炭焼き小屋に泊まることもあった。
父は炭焼きでは、黒炭を専門に焼いていた。
炭焼きは、生木を窯で高温にして蒸し焼きにする方法で陶器の焼き物と似ている。
山の中の炭焼場に着くと、クヌギ(どんぐりの木)を主体にカシ、ナラの木も加えて長さ八十センチ位に切りそろえる。炭にする木の束を炭焼釜の横に山のように積んである。
大きな窯の口へこの生木を中へぎっしりと積み上げ入れ、入口をレンガで積み粘土などで密封する。もう一方にある焚口から薪を6時間ほど焚き続け、煙突から出る煙で中の温度を判断し、
今度は、焚口も塞いで二十時間蒸し焼きにする。窯の温度は、三百度から六百度にもなる。
父が窯に掛かっている間、寛治は、近くにあるクルミの木に登り、クルミの実を布袋で自分の持てる重さに幾つも作り、収穫した布袋を寝泊りする小屋の横に積み上げた。クルミは、貴重品で、山を下りてから上市の町の食品工場で買ってもらい収入源となっていた。寛治の得意技だ。
父は、手が空くと寛治を近くの池に
連れて行った。
山道から、目の前にパーッと
きれいな池が表れ池に近づくと、
歩いている足元が、
プカプカ水の上に浮かぶ、
草の密集する湿地帯の浮島になっている。
水芭蕉も群生する美しい池だ。
「つぶら池いうんや」父が言った。
二人は、釣り糸を垂れながら、
きれいな景色を楽しんだ。
父が「この先に大蛇伝説のある釡池という池があるが。次来たときに連れてくが」と言った。
夜のおかずになる魚をお土産に池を後にした。
帰り際、小川で立ち止まり、これは男滝からの川、もう少し先の小川は、女滝からの川。と教えてくれて、男滝の水を大きなフキの葉ですくって口に入れてくれた。「よく噛んで飲めや」寛治はモグモグ噛んで冷たい水を飲みこんだ。父は笑いながら「この水は荒いんや、腹こわすからな」続けて「女滝の水はすぐ飲んでも大丈夫だが」と言ってまた笑った。
滝の川が合流し、やや大きな川になっている所まで着くと、川に入った。岸の淵を手で探りながら、穴になっているところへ何かつかむような手のひらを上にしてそっと手を入れた。
バシャバシャと音がして暗緑色に斑点・赤い点のある大きな岩魚を取ってみせた。
「イワナは魚の腹を触っても神経がいってねくて、わからないんだや。こうやって腹の下へ手を入れてつかまえるん」と手のひらを上にしてつかむ格好を教えてくれた。
寛治もすぐやってみたが、何番目かの穴で魚に触ったが、逃げられてとれなかった。
※つぶら池・・湿地帯もあり水芭蕉も群生する美しい池
※釡池・・・人口溜池。高峰山の噴火によりできたといわれ大蛇にまつわる昔話もある。
第五章 ニャン太との特訓
寛治は小学校から帰ってからは、近所の子供達と遊ぶか 家の手伝いをして過ごした。ニャン太は、寛治が畑の手伝いの時、仕事が終わる頃を見計らってやってきて、どこかへ行こうとせがんだ。寛治は、時間ができるとニャン太と裏山の方へでかけていった。一体どこにいっているのか、家の者には、詳しくわからなかったが、そこそこの時間がたつと必ずニャン太と一緒に帰ってくるので心配されることはなく、生活の流れの一部になっていた。
冬のある日、中学生のすみれから「お母さん!こみちからも聞いたんだけど、ずっと前からカンチャン、スキーで転ぶ時、変なんだよ」「私たちは、転ぶ時は、お尻をついたり、もっとひどい時は背中までべったりして転ぶでしょ。でも、カンチャンは、何回転んでも腹這い(ハラバイ)になるんよ」「あと、運動会でお母さんも見たでしょ。カンチャン走り方変なんよ」
「足が速いのはわかっているんだけど、腕をあまり動かさず、水をかくように動かして足も両足にバネがついているみたいに飛び跳ねるような変な走り方なの。どうして、あんなに速く走れるか不思議がられているんよ」「みんな、カンチャンのネコ走りって言ってるんよ」
すみれは、気になっていたことを母に一気に語った。
この頃、二歳になる弟が、動きまわるようになり、寛治への目が行き届いてなかったな、と母は思った。「思い返せば、このところカンチャン何やっとるのか見ていなかったが、今、裏山に行っとるのね。ちょっと念冶を見てて私、見てくる」と裏山へ向かった。
母は、裏山への山道を登って行った。山道の林で目につきにくいが、小屋が何軒か見えてきた。
村で共有の馬小屋の隣から3軒小屋が並んでいた。畑で季節ごとにまく各種の種の保管・管理する小屋が二軒ともう1軒は季節により手伝いの人が泊まる小屋。三段ベッドに四・五帖の畳の小屋だ。その三軒目からドスンという音が聞こえてきた。
そっと窓をのぞいてみると、ニャン太が、畳の端から端へ身を低くし二回行ったり来たりし、ベッドの二段目へ駆け上がり飛び下りクルリと回転し、背中を下にして落ちてきて、地上すれすれで、また、クルリと回転して両手両足を着いて音なく着地した。また、部屋の隅で見ていた寛治が、その後同じように、端から端へ二往復した後ベッド二段目へ駆け上がり、飛び下り、クルリと二回転して着地したが、手足が間に合わず、ドスンと腹這いになって落ちた。さっきから聞こえていたドスンという音はこの音だったのだ。高い所から落ちる時、人間にとって無理な動きを何度もネコと繰り返しやっているのが見えた。
三度目に入ろうとした時、
母が「カンチャン何しとんが!」
「あ!!お母ちゃん」ニャン太も何??という顔で、優しい目で母をみた。
「ニャン太が来てからずっと練習していたんだや、
一番上の三段目からはもうできるんだ。
音もしないよ。
二段目は、まだ、足が間に合わんで、
ドスンと音がしちゃうんじゃ」
寛治は、ニャン太を
なでながら言った。
第六章 兄と伯父の来訪
昭和二十九年(一九五四年)秋、東京に行っていた兄と伯父の東上助次が、上浅生の家に訪れた。
家族全員での夕飯の時に東京での仕事が整ったので、来春四月以降に引っ越してこれるかどうか確認に来たという話だった。父と母は以前から勿論打ち合わせしていて、姉二人もほぼ知っていた様子だ。寛治はまだ、小さいので全部決まってから知らせる事になっていたようだ。
「東京の新宿柏木という所で、オフロヤさんだ。柏木浴場という名前でやることが決まったがや。来年の五月に引っ越す。みんなで行こまいか」父が言った。寛治は間髪入れず「ニャン太も絶対つれていくけ!」と誰からも打ち消すことのできない強い決心をみせた。「カンチャンは、話には聞いていたが逞しくなったな。つかえんよ。つれてこいちゃ」「利口なネコいうやないか、そのネコか、でかいのう」と兄 太一は言った。寛治は、兄の言葉にちょっと安心した。また、歳の差があることもあるが、初めて会った兄に、自分とかけ離れた人に見えた。
話も進んでいった。寛治は、遠い東京で自分の周りがどう変わっていくかのという不安と同時にニャン太との新しい一緒の生活が楽しみや希望が、入り混り交差した。ニャン太は、寛治の傍でぴったりくっついて目をつむっていた。
家族への連絡も終わり兄と、伯父 東上さんは、翌日東京へ帰って行った。
第七章 ニャン太どこ
兄と伯父の来訪後、一週間後の日曜の朝。寛治は、いつものように早朝に起きてニャン太と裏山へ出かけようと、脇をみたがニャン太が見当たらず、探しに玄関へむかった。すると、玄関には、ヤマブドウ、クロマメ、ヤマグワの実が重ねて置いてあり、その上に紫色の実がぶら下がっている木通の つるが置いてあった。
「これ、何んけ?!」寛治は、何か感じた。
外に飛び出し、ニャン太!ニャン太!と
叫びながら裏山へ走って行った。
大きな声にみんな目を覚まし、玄関へ出て来て
「何んけ!これ!」と同じように声をだした。
一時間後、寛治が目を赤くしながら帰ってきた。
何も聞かないが、家族は、寛治の様子を理解した。
「カンチャン、朝ご飯食べよう。一緒に捜しに行くからや」
と姉すみれが優しく言った。
その日曜は、一日中発田家は、全員で四方八方、ニャン太を捜しに走り回った。しかし、ニャン太は、その日を境に二度と姿を現すことがなかった。
寛治が、大岩不動の大滝の河原から背負って家に連れてきたニャン太。四年間にわたり、発田家で暮らした。助けてくれた寛治の事を人間ではなくネコだと思っていたかのように、寛治にニャン太はネコのあらゆる技を伝授した。ある意味、きっと寛治の人間としての旅立ちを感知し姿を消したのだ。
寛治が一緒に遊んだ裏山でよく食べていたヤマブドウ、クロマメ、ヤマグワの実。
舌をまっか赤にしてよく、ニャン太を驚かせていた。今年はなかなかいい木通が見つからなかった。それぞれの思い出あるものをお土産に置いて姿を消してしまった。
家族揃ったところで、「カンチャン、初めから不思議だったんよ。大岩の大滝の河原で泣いてたニャン太の声が、山道のカンチャンの耳に聞こえるはずがないんだが。だから、神様がカンチャンにしばらくの間あずけしゃったんが。きっと」
「よくかわいがってニャン太も喜んで次の仕事へ行ったんよ」と母が、寛治を慰めた。
姉二人も「カンチャン、本当よく面倒みたが。偉かったが」と泣いた。
「ネコと思えんほど利口でかわいくて、おらの家へ来てくれしゃってみんなと居てくれた。
ありがたく思うとるねん」とさみしそうに父も言った。
第八章 寛治の命拾い
寛治は、ただ呆然としていたが、ふいにニャン太との冬のあの事を思い出した。
柿沢の親戚に家の者みんなで出掛け、学校の用事で寛治一人留守番することになったことがあった。その日は、大雪で周り一面雪景色。みんなが帰ってくる時間になり、寛治は、帰ってくる様子を見に外にでた。家の傍の急流の小川は、山から勢いよくきれない川音で流れていた。
「この小川は、普通の川の流れでないので危ないんだ」「落ちたら絶対ダメだ。油断するな」と父から注意されていた。
その日は、大雪が川を覆い隠れて見えなくなっていた。いつも丸太の橋は渡らず、ニャン太と簡単にとびこえていた。いつものように、ニャン太が先に飛び越えた後、寛治も飛んだが、雪で覆われた川幅の目測を誤り、勢いをつけて川に落ちてしまった。先に飛び越えた向こう岸のニャン太の顔が急流で流されて、あっと言う間に見えなくなった。全身、氷の中で射すような冷たさと痛みを感じ、体が動かなくなっていった。持ち前の運動神経で流されながらも体制を立て直し、岸から川に向かって群生しているネコヤナギの枝を必死につかもうとした。何度か失敗したが、やっとのことで枝をつかむことができた。
どのくらい流されたか解らなかったが、必死に枝につかまっていた。
だんだん体の冷たさが感じなくなり、
気が遠くなり、手の力も抜けてきた。
もう、ダメだ。
と思ったその時。
上流から流れてきた枝のいっぱいついた木に、
茶色の物が見えたように思った。
その途端ものすごい勢いで
寛治の目の前に流れてきた。
とっさにその枝へ飛びついた。
しばらく流され川幅一杯の枝は、
小川にひっかかり止まった。
助かった!!
寛治は岸に這い上がると、ビショビショになったニャン太が何もなかったかのように、
優しく寛治を見ていた、ニャン太を抱きしめた。
家に帰り、寛治は、自分のずぶ濡れを忘れ、ニャン太を大きなタオルで涙を流しながら、包み込みこすりながら拭いてやった。
この一件は、実は、父には内緒でニャン太との秘密になった。
この時、ニャン太はネコじゃないと寛治は強く思った。
この冬、寛治のニャン太への思いの傷は、癒されることはなかったが、
家族みんなの優しさで立ち直り、
寛治は東京出発を元気にむかえることになった。
第九章 かんちゃん、いざ東京へ
昭和三十年(一九五五年)東京出発の日を迎えた。当時、姉すみれは、十七歳、こみちは、十五歳。二人の姉は父と母を支え、寛治十歳、念冶五歳の面倒もよく見ながら家族のため女としての強い力を発揮し、東京出発を逞しく迎えた。
畑と炭焼場は、上浅生の父の兄
権三に受け継いでもらった。
家族六人は、山を下り大岩神社の茶屋で皆一緒に名物のトコロテンを食べて、バス、電車、夜行列車、電車の順に乗り継いで二日がかりで富山の山奥から、東京の中心になりつつあった新宿の兄の待つ柏木浴場についた。
昼にかかる頃、久しぶりに兄と家族の対面となった。
「カンチャン、ニャン太のこと残念だったね。また、縁があってカンチャンと出会えるネコが来たら、飼ってあげれば。また、そういう日がくるよ、きっと。今日からお風呂屋のカンチャンになるんだぞ、元気よくな!」ニコニコしながら、兄太一が頭をなでてくれた。
兄と同じ歳の結婚相手の義姉も「ユキです。よろしくね」と優しく言った。
あまり見たことがないが映画俳優のように、二人ともみえた。
兄夫婦が用意してくれたご馳走が並んだ。
大きなお膳が二つくっつけてあり、八人はお膳を囲んで座った。
父の好物の豚カツ、母の好物のお刺身。姉や寛治兄弟が大喜びする焼肉、焼き鳥、卵焼き、サラダ盛り合わせ、オレンジジュース、初めて見るご馳走だ。酒を飲まない一家なので、
兄の「これからみんなで頑張ろう!」の一声で、乾杯
幸福一杯の食事をみんなで堪能して楽しんだ。
第十章 親友のりすけ
寛治は、いつものように朝六時に起床。一瞬周りの様子から自分がどこにいるのか頭がグルグルしたが、横に寝ている念冶の顔を見て気が付いた。「ネンジ起きろ!」念冶は眠そうにいつものようにくにゃくにゃしている。「外へいくぞ!」と声をかけ、二人は外に出た。
大きなフロヤの建物の横には、くるくる回る渦巻のネオンの看板がある。あとでわかったのだが、そのクルクルネオンは、パーマ屋さんだ。前の家の軒先には、いっぱいの材木がたてかけてあり、大工さんかなと思った。
その時、「おはよう。引っ越してきたんだね、おれ下道のりお。五年生だよ」
竹ぼうきで家の回りを掃きながら丸顔の子供が言った。「発田寛治だが。弟の念冶。おれ五年生。ネンジは、五歳。よろしく」と寛治はあいさつした。「オフロヤさんの子だよね、おれんち建具屋。毎朝家の前を掃くのが俺の仕事。弟もいるよ、いつお、三年生」「今日学校いくがと思う。同じクラスだといいんじゃけど」と寛治は笑った。「じゃ、朝飯だからバイバイ」のりおは、建具やの脇の細道を走って行った。下道のりお(のりすけ)発田寛治は、その後一番の親友になり、長い付き合いになる初めての顔合わせとなった。
第十一章 転校
昭和三十年(一九五五年)五月母に連れられて田舎とは大違いの大きな小学校淀橋第一小学校の門をくぐった。校長先生に案内され、小さな和室に通された。五年二組の担任岩崎先生を紹介された。寛治は、今まで見た人の中で一番きれいな人だと思った。
母が「発田寛治です。よろしくお願いします。母の咲です」と挨拶をした。「この子は、外で動き回って元気なんですが、勉強となると、なあーんも力が抜けしゃて、東京に出てき心配なんやす。小さいながら家の手伝いをびっくりするほど、やりはって父親も仕事の手順、考え方は俺も負けそうだがと手前味噌なんですが、感心しているがです」とちょっと富山弁がでた言葉で話した。
岩崎先生は渡された書類を見ながら「お兄さんご夫婦と一緒なんですね。勉強の方は心配いりません。何より元気なのがうれしいですね」と優しく言ってくれた。
「こちらは、お昼は給食がでます。今日は水曜日、四時間で終わりなのでミルクだけになります」このタイミングにちょうどチャイムが鳴り、給食の時間になった。
「それでは、教室へどうぞ。みんなに紹介しますので。お母さんもミルク召し上がって帰ってください」と寛治の肩に手をかけて教室に向かった。
第十二章 転校初日の初めてのミルク
給食の用意でざわざわしている教室に入り、寛治は黒板の前に行った。母は廊下に残っていた。みんなが席についた頃、「みなさん、富山県大岩小学校から今日転校してきた 発田寛治君です。みなさん、なかよくしてあげてください」と紹介された。
大きな声で「発田寛治でが、宜しくお願いしなせ」寛治は思い切り言ったがナマってしまった。
みんな一斉にパチパチと拍手してくれた。「今日はお母さんも見えています。ご一緒に給食を召し上がっていただきますので、先生の横に席を作ってください。
寛治君は秋山さんの隣が空いていますからその席にしてください」
準備ができて男の子が「いただきます」と声をかけて、
みんながミルクを飲みながら話声が広がった。
寛治は、甘いちょっと変わった味のはじめてのミルクを
少し緊張しながら飲んだ。
第十三章 柏木浴場
柏木浴場は新宿でも大きな浴場で公衆浴場のシンボル大き
な高い煙突がそびえ、風呂場には、広い流し場の左側、
右側と真ん中に、カランからでる蛇口が一人分のお湯と水の
二つ1組で四十人分戦艦のずらりと並んだ鉄砲のように
飛び出している。大きな湯船の正面の壁には富士山と
連なる山々と湖に浮かぶヨットの絵が、仕切りになっている
塀を越えて女湯の湯船の壁まで一気に広々と描かれている。
女湯は男湯よりやや小さめだが、同じ仕組みで流し場がある。
入口に男湯、女湯の仕切りとなる高く囲った全景が
見渡せる番台がある。いつもは、母咲がその番台に座り
お客を迎え料金をいただき、石鹸、シャンプー、化粧品等の
販売も行った。髪洗いの板札も出した。時代柄、所持品、
衣類を盗む板の間稼ぎもいて、油断なく高い所から見張り番を
するのも、重要な役割だった。
男女の脱衣所には相撲部屋のような大きな体重計、身長計がある。脱衣カゴが重なり積み上げられたものが何組かあり、脱衣はそのカゴを使う。数年後、ロッカーの普及によりその脱衣カゴは使われなくなり姿を消した。皆うれしい牛乳スタンドもあった。男湯、女湯の脇の壁の高所からは、映画案内のビラが各映画館別に、何枚もならんでさがっている。
寛治たちは、この店の裏に住んだ。
部屋は沢山あり、父母、姉二人、兄夫婦が各部屋。
寛治と念冶の部屋は、屋根裏部屋となった。
戦後十年の新宿駅周辺は多種多様な商いが集約しだし、強いエネルギーを生み出していた。
夜から朝にかけて人の流れが途絶えることがなく、繁華街の先駆けとなった。
柏木浴場は、駅から徒歩二十分位。
そのころ、いわゆる住宅街で、かろうじて雑踏から逃れていた。だが、数年後には、すぐ足元まで商店が並ぶようになるほどになった。
第十四章 風呂の仕込み
朝七時頃、下道のりちゃんが迎えに来てくれた。のりちゃんとは、同じクラスにはなれなかった。
近所の子供達でグループになり登校した。学校まで二十分だ。姉二人は、それぞれ自分たちのためと洋裁学校へ入学し、帰宅後は、家の仕事を手伝った。東京にきてから 父母は、兄夫婦と一緒に浴場業を始めた。弟念冶は、来年小学校になる。念冶は、広い家を走り回り、寛治や母につきまとっていた。
浴場は、午前十一時頃から仕込みを始める。釡に火を入れて焚き出す。まず、下風呂の湯を沸かす。下風呂というのは、窯から続いている貯水プールのようなもので、この中の水を先に沸かし熱湯にする。この熱湯を、水栓金具カランを通して浴場の湯船へ湯を送り、満タンにする。開店すれば、次々に訪れるお客さんが、洗ったり、流したりする湯を どんどん送り、カランの蛇口からお湯、水を満足するまで使えるようにする仕組みになっている。仕込みには二時間位かかり、釡を焚きながら今日の分の薪をマサカリノコギリで、程よい長さ太さに揃え、釡口の入れやすい所に山のように積んでおく。
寛治も父を手伝い、薪を運び、積み上げを手伝った。そんな時、山での炭焼きを思い出した。
父は、山での炭焼で持ち合わせた技術で、抵抗なくこの道に入って行った。
第十五章 燃料貯金
当時、まだ、車が少なかったなか、兄はオート三輪自動車で建築解体の業者と提携していた。
家屋を解体したのち、中古建材として使える材木を職人が選別した後の廃材の材木を引き取って薪として利用した。自動車の運転のできる兄を寛治はすごいと思っていた。
柏木浴場の広い敷地内、家屋の横の空いた土地に、兄が運んでくる材木を置いた。時には、寛治も手伝った。なかでも太い材木をきっちりと組んで積み上げ、やぐらのように家の半分くらいの高さまで積み上げる。いわゆる燃料貯金である。
毎日持ってくる細かい木材や細い木材は、早めに薪として燃やしてしまう。冬場になり、解体の作業が減る時期には、引き取る木材も少なくなるので、貯金した木材を少しずつくずし、燃材にするのだ。
兄が外にでて燃料となる木材を集め、父が釡の番を、店を母と義姉、姉二人で
力合わせ、柏木浴場は始動していった。
第十六章 相撲
昭和三十年に相撲のテレビ中継などが始まり、人気だった。栃錦、若乃花、吉葉山、千代の山、鶴ヶ嶺、鏡里が活躍していた。
朝、学校へ着くとランドセルを机の上に投げだすと、直ぐ運動場へ走っていく。授業の始まる
八時三十分までの三十分間は、男の子は相撲、女の子は縄跳びが流行っていた。運動場に、棒を使って円を書くと土俵のできあがり。対戦する二人以外は、土俵の外をぐるりと並んで順番を待つ。勝負が決まると、負けた者が輪の一番後ろにつく、勝ち抜き戦だ。寛治は、一週間もすると授業と遊びの中ですぐにみんなの名前と顔を覚え、うちとけた。寛治は授業中、元気がなかったが、朝と昼休みの運動場の相撲では無敵だった。五、六人相撲で破っていくと疲れで土俵を譲ることもあるが、寛治にとっては、一番のアピールの場だった。今までの勉強も運動もクラストップの体の大きな寺本学を寛治は、若乃花並みの土俵際の俵をつたって残し腰投げで土俵の外へ投げ飛ばした!寺本学は、べったり背中に土をつけて「ヤー君強いね」「次は負けないよ」と手を差し出して握手した。
その日を境に、みんなの目が変わった。
第十七章 でっかいガキ大将-
転校から一か月過ぎた頃、雨の昼休み大人より身の丈の大きな目つきの鋭い服部栄二がクラスに入ってきた。入り口付近の何人かがよけて離れた。
寛治の方を見て「おまえが、富山から来たやつか!」「名前なんていうんだ?!」
寛治は、体の大きさにギョッとしたが、田舎の中ノ又のアンチャン特攻隊帰りの頭が半分火傷している権吉さんのことが頭をよぎった。「カンチャン。喧嘩は、勢い と 覚悟 だぞ!先手必勝だが」「まず、目を見て口でも先手をとるんだかよ!」
寛治は目をじっとみて「おまえ、名前なんちょいうが、先に言えや!」ときっぱり言った。
周りのみんなが、硬直しているのがわかった。
服部は、にやっとして「服部栄二だ。おまえ、相撲強いらしいじゃん」
「発田寛治だ」寛治は普通に答えた。
「帰りに成子神社に寄って帰れや、話があるけん。いいな」と服部栄二は言い放って出て行った。
級長の青木重司が、すぐ駆け寄ってきて、「ぼくの家神社の近くだから、一緒に帰るよ」
「家でお父さんに話して、一緒に神社に行くように言うよ」青木重司の家は、酒屋さんで、隣は、淀橋警察署だった。寛治は、青木に「重ちゃん、ありがとう。大丈夫だけ先に帰って」
六時間目の授業が終わり、賑やかだった教室が、波をひくように静かになり青木は、心配そうな顔をしたが、寛治に促されて帰っていった。学校の裏門から出て成子神社に向かった。寛治は、帰りに何人かで成子神社の防空壕の跡にある小さな山へ何度か遊びにいっていたことがあった。
歩きながら、田舎の大岩小学校のみんなのことを思った。服部栄二は、なんでこんなことをするのだろうか?今まで、自分のしたことを否定されたことがなく、喜ばれることが多かった。自分はなにも悪いことをしていないなと、自分で確認し、これから起こることに、
「ニャン太みてろよ!」と闘志を燃やした。
境内の山が見えてきて神社の正門の鳥居へ向かう。
脇の道に人が見えて、大きいのが一人と
ほかに五人が見えた。神社の側溝の厚い石の蓋を
一か所開けて六人が待っていた。
ひときわ大きい服部栄二が、寛治に向かって
「おい、おまえ、そこに足いれろ!」と怒鳴った。
他の五人はうっすら笑っている者、下を向いている者もいた。
絵に描いたような転校生に対するいじめの光景だった。
服部栄二は、寛治の前へグッと出て、もう一度口を開こうとした時、
“グッシャ”と音がした。
服部栄二の鼻は、つぶれ血が噴き出した。
寛治の右こぶしが、素早く強烈に鼻にめりこんだ。
大きな体が二つに折れ、顔を抑えた。
寛治は、他の者を見ながら、「だらが!!おまえらもやっか」
と強い言葉を放ち、静かに前に出た。
他の五人は後ずさりをしたが、顔中血だらけになりながら
服部栄二は、反撃にでようとした。
寛治は、ネコのような素早さで後ろに回り
右足で下半身の急所を蹴り上げた。“ギュン!”
と変な声を出してうずくまり、戦いは終わった。
中ノ又のアンチャンが、しょっちゅう教えてくれた自分を守るための戦い方だ。
鳥居の脇から、バラバラと何人かが駆け寄った。青木のシゲちゃん、寺本、運送屋のイサオちゃん、質屋のマッチャン、旅館のミノル、寿司やのハマちゃん、床屋のナガサカ。みんな同じクラスで、何人かは、いつも神社の山で遊んでいる仲間だった。
寺本が「栄二以外の奴が、手をだしてきたら、みんなで飛び出そうと決めていたんだ」といい、
床屋のナガサカが、「カンチャンが栄二にやられたら、しょうがないと思ってみていたんだ」
と続けた。「みんなありがとう、来ていると思わなかったよ」寛治はうれしかった。
鳥居の後ろの方から見ていて、この場が収まるのを見てほっとして帰っていく大人が見えた。青木のお父さんのようだった。
「さあ、みんなで帰ろう」寛治たちの集団が動きだすと、服部たちのの集団が無言で帰りだした。
二、三日して寛治の家に新宿でも大きなトンカツ屋”ハットリ“の親父さんと息子栄二が、寛治の父と寛治に話がしたいと訪れた。英二から話を聞き、親父さんは、栄二を一喝。寛治の勇気と強さを褒めたうえで、寛治に詫びを入れた。父は、寛治から何も聞いていなかったと言い、栄二の顔を見て、改めて寛治の乱暴について詫びた。手土産のトンカツを見て、父の大好物という話になり、「今度、店へ行かせてもらいます」一方、服部の父は、「今度、風呂に入りにきます」
お互いの親同士意気投合した。
寛治もその後、学校でも栄二とは、お互いを認め合い、クラスは違うが仲良くなった。
栄二も「今度の夏の盆踊りの後の相撲大会では、絶対負けないからな」と笑いながら、寛治に宣誓した。
第十八章 漢字テスト
すっかり東京の生活に馴染み、毎日を楽しく過ごしていた。学校では、飛びぬけた運動神経で、一本筋の通った性格は、誰からも慕われた。ただ、勉強となると思うようにいかなかった。
寛治のクラスでは、一週間に一度、漢字のテストがあり、その成績順に座る席が決まり、次の漢字テストまでその席順で過ごすことになっていた。岩崎先生は、この時期に学力の分かれ目があり、漢字の力をつける良い時期とみんなの気持ちを刺激し向上を狙ったものだ。
田舎の大岩小学校では、一年から三年で二クラス。四年から六年で二クラス。全校で四クラスしかなく、寛治が引っ越してきてすぐに、大岩小学校と柿沢小学校が統合された。大岩小学校時代は、自分の名前と生活について字と言葉で表現できればよく算数についても、生活の中の数字で計算ができればよい。というレベルであった。漢字についても、書けなくてもひらがなで表現できればよく、空いた時間は、自分の家の事を自分の力の能力で助けるという生活だった。
寛治は、漢字を無理に覚えるということは、理解できずいつもテストも書けず、成績が悪かった。
運送屋のイサオちゃん、コロッケ屋のカトウ、食道のウエマツ、魚屋のナガミネ、いつも同じ顔ぶれで、いつも後方の席で過ごしていた。人気のある女の子、秋山さん、中川さん、福島さんと並んで座ってみたいと思うが、遥か前方の席、いつも届かなかった。
家に帰り、姉すみれに漢字の事を話すと「私がおしえてやっちゃ」と笑って言ってくれたが、
「女から教わるのはやだが」と寛治はごねた。「そいじゃ、アンチャンに頼んであげるちゃ」姉は、兄にその話しをしてくれた。
兄太一は、父・母の自慢の優秀な息子だ。「アンチャンどうして、できんがかの?」「おれ、頭が悪いかの?」と寛治は言った。「カンチャン、人間の頭はみんな同じで頭のいい人も、頭の悪い人もおらんの」「何かができる人とできない人の差は、そのことを前もって準備して練習したか練習しないとの差なんよ」「カンチャン、漢字の練習どのくらいしたん?」
「できるように思うて、覚えよう思うて、一回よくみたんよ。自分では、覚えた思うて、次の日、テストをやると全然できんのよ」寛治は元気なく言った。
兄は、「何回も何回も書かにやダメなんよ、次のテストにこの本の中の五ページある漢字を全部にノートに書き出して、それを十回くり返し読みながら書きな」「アンチャンも特別なことをしていたワケではないんよ。みんなより余計に何回も時間をかけて書いたんだと思うよ。がんばりな」
「あとで、また、来るから」と仕事に戻った。
寛治は納得してノートに漢字を書き出し始めた。一ページが終わったところで
「アンチャンは、自分とは違う人間なんだ!?」
「おれ、あと四ページ書き出す力ないわ」
「大人になったら漢字のない国で仕事すればいいや」
とその場では本気で思い窓から隣に
積み込んである材木の山へ
脱出し、のりすけ達の遊んでいる広場へ
はだしで走っていった。
寛治は、苦手な勉強には深く考えず、
相変わらずよい結果はでなかった。
第十九章 ミルク飲んだるよ!
ある週の授業四時間の水曜日、ミルク給食の日。みんなでミルクを飲みほして、片づけに入ろうとしたとき、岩崎先生が「今日もミルクを飲まない人がいるみたいね。頑張って飲みましょう。」
「みんなちょっとまっていてあげてね」
ここ何日か同じことをやっているが、飲めない女の子が二人いた。安井千代と秋山ヤス子だ。
いつも秋山は泣きながらミルクを飲みほした。安井千代は、毎回怒ったように口をつぐみ絶対に口をつけなかった。この頃の学校給食のミルクは、スキムミルクといい脱脂粉乳を使っている。
今では考えられない味の悪い飲みにくいミルクだった。そのミルクは、味より、栄養と戦後学童の発育向上のために国が推奨していた。口のおごった人には飲めなかった。
安井千代は、新宿では一番のテキヤの頭、安井組の組長を父に持つ娘だ。
学校の行き帰りは、ばあやが付き添うおじょうさんでクラスの中でも、だれもが近づきがたい存在だった。
「安井さん、みんな待っているけど、今日も無理かしら?」千代は下を向いたまま何も言わな
かった。教室全体はシーンとなった。岩崎先生も甘いところを見せられないと、千代を見つめた。
おさめどころのない雰囲気になったその時。
寛治が千代に近づき、
机の上のカップをとってゴクゴクと
ミルクを飲みほした。
「うまかったが!」と笑った。
みんなが大笑いし、先生も
「カンチャンの栄養になったね」
「さあ、帰りましょう」と笑った。
それから、ミルク給食の日は、安井千代のミルク、秋山ヤス子のミルクは、当番がカップに少な目に入れて、「いただきます」の合図と同時に寛治が、千代とヤスコのミルクを飲みほし、
その後自分のカップに移るというのが習慣になっていった。
寛治の行動で、嫌いな食べ物を押し付けるのには限度があると先生も生徒も感じた。
数週間後、無理にではなく自然と千代とヤス子もミルクを飲むようになった。
第二十章 赤い花柄傘
帰り際、雨が降り出した金曜日。傘がなかった寛治は、走って帰ろうと雨の中を飛び出していった。いつもの魚やの角を曲がったところで「発田くん!」と呼び止められた。振り向くとばあやと一緒の安井千代だ。千代は、寛治に持っていた傘をさしかけながらばあやに「発田くんよ」と言った。傘を寛治に渡し「私、ばあやと一緒に傘入っていくから使って」「学校では、言えなかったけどいつもありがとう。今度、うちに遊びにきて」寛治は千代の声を初めて聞いた。
いつもつり目のこわい顔と違い切れ長のやさしい目できれいな声だった。
「うん、今度行くね」「新宿ガード手前の大きな寺みたいな家だろ、
中は見たことがないが何度か前を通ったことがあるよ」
千代は、「雨が降ると仕事にならない者が大勢いるから、
晴れた日だったらいつでもきていいよ。それじゃ」と別れた。
寛治はウキウキしながら赤い花柄の傘で帰った。
第二十一章 安井組
雨が続いた数日後、晴れた日曜日。近所ののりすけ達は、ボーイスカウトで出掛けていた。団に入っていない寛治は、空いている時間だった。借りていた傘を返しに、安井千代の家に行ってみようと思いついた。
姉に話すと「ちょっと待っていてね」と奥へ急いで母を呼んできた。「あんた、安井組の娘さんから、赤い傘借りた言うが、ほんとなんか?姉ちゃん達と大騒ぎしとったんよ」安井組のおてんば娘の千代は、このあたりでは有名みたいだ。
「つかえんよ。優しいこやよ」と寛治は言った。
「上浅生のおじさんが、富山のカマボコを送ってくれしゃったの」「お土産に持っていかんしゃい」と母は綺麗に包んでお土産を持たせてくれた。
安井組は、新宿ガード前の車の行き来の激しい交差点の角に大きく構えている。
門に入ると砂利の道が続き脇には、大きな石や木が続きしばらく行くと、中のうす暗い板張りの道場のような家が表れた。「ごめんください」と大声で言ったが思ったような声がでなかった。
「はい!」と声がして、「どちらさんでしょうか」と若いさっぱりとした人がでてきた。
「あの、安井千代さんいますか?発田寛治です」
「ちょっと待っていてください」と
奥へ引っ込むと奥の方からトントントンと駆け
足が聞こえ、千代がニコニコして
「発田くんよく来たね。あがって」と迎えてくれ千代は
学校で会っている時よりずっと明るく今まで見たことのない色の大人みたいな服を着ていた。
うす暗い板張りの道場みたいなところを通り両側の壁に両側に大きな絵がそれぞれ掛かっていた。
絵には、目をつむり、手を合わせているお坊さんが座っていて、横に立った侍が刀で切ろうと振りあげている刀に、稲妻が走りカミナリが落ち、刀が折れ、侍が倒れている絵だった。もう一方の絵は、お釈迦さまが天と地を指さしている絵だった。
「これ、お釈迦さまだよね」寛治が言った。「発田くん、すごいね。よく知っているんだね」
寛治は、「カンチャンでいいよ。田舎の学校の時、本で見たことがあったんだ。
この人はだれなの?」ともう1枚の絵を指差し尋ねた。「日蓮さまというお坊さま。私もよくわからないの。お父さんが、日蓮さまとお釈迦さまが好きみたい」「雨の日は仕事の都合でこの道場で組の人が集まり、父中心に打ち合わせや話し合いをして食事をして帰っていくの。今日は晴れだから、みんな外で仕事にではらっているの。
「奥へどうぞ」
第二十二章 千代の部屋
道場を抜け廊下を通り、広い庭の見える明るい部屋で、机、オルガン、二段ベッド、茶箪笥が配置よく並び中央にテーブルがある6帖くらいの部屋に通された。
「私の部屋なの、ゆっくりしてって」千代は優しく言った。
寛治はお土産の富山のカマボコを出して「これ、食べて」と差し出した。
しばらくすると「失礼します」とふすまが開きいつものばあやが顔をだし、ニコニコして
「こんにちは、いつも千代ちゃんのことありがとうね」
とジュースとクリームといちごがのった見たこともないもの
(ショートケーキ)が出された。
「ゆっくりしていってね」とばあや下がる時、
千代が「富山のお土産のカマボコをいただいたよ」と手渡した。
二人は、ケーキを食べながら学校の出来事を楽しく話し、とくに漢字のテストについて、兄との家での勉強について話したら、千代はお腹を抱えて大笑いした。千代も寛治に打ち解けてきているようで、自分の生い立ちについて話してくれた。お母さんが幼少の時に亡くなり、父と2人、そして親戚のばあやに手伝ってもらい過ごしてきた事を話してくれた。家には若い衆五人、おなご衆五人とで生活しているそうだ。
千代は、「一人なのに、二段ベットあるでしょ。私は上の段で寝るの。下の段は、誰が寝るでしょうか?」と言って「ちょっとまっていてね」と部屋を出て行った。
しばらくすると、両脇に茶と白の二匹のネコを抱えて帰ってきた。
「このニャンコと寝るのよ」と笑った。
「茶のこの子は、チャコ。白の子は、チーコっていうの」と言った。
しばらくネコの事を考えないようにしていた寛治も突然のことだったうえに、
チャコを渡され、久しぶりにネコを抱いた。ネコ毛の柔らかさを感じた。
寛治は田舎でのニャン太のいきさつを千代に話すと、千代は、抱いていたチーコをぎゅっと抱しめながら涙を流して聞いていた。
第二十三章 安井文吾
外が微かにゴトゴトと音と人の気配があり、千代が「お父さんが帰ったみたい。ちょっとまっていて」と外へ出て行った。しばらくすると、襖が開きガッチリした体格の迫力ある顔が、ニコニコして
「やあ、いらっしゃい。安井文吾です」
「いつも千代をありがとうね、色々聞いているよ。根性も男前や言うし、わしとも友達になってくれや」「柏木浴場の息子さんやてね。よく知っているし若い者も使わせてもらっているよ。お父さんにもよろしくね」
「ゆっくりしていってね」と千代と顔を見合わせながら笑みを浮かべて言った。
寛治も「よろしくお願いします」とやっと言った。
二人はしばらく時間を過ごしたのち、
「今度、盆踊りの相撲大会にでるから見に来てね」
「また寄らしてもらうね」と 千代に送られながら
寛治は、別の世界にいたような楽しい一日を過ごして帰ってきた。
第二十四章 のりちゃんの家の朝ごはん
朝の集合場所柏木公園に八時頃出発して学校に向かう。寛治の家では、母が学校に行く寛治のためだけに朝六時半に朝ごはんを作って用意してくれる。寛治が食べ終わる頃、父が起きてくる。オフロヤの夜は、仕事柄深夜なのでみんな朝はゆっくり始まる。食べ終わると学校の準備をして「いってきます」とすぐ家を出て、前の家の下道のりすけの家に迎えに行く。
のりちゃんは、朝ごはんを食べようとしているところだ。下道のおばちゃんは料理上手で、寛治の家でみたことのない料理をよく持ってきてくれた。どれもおいしく、母、姉たちはいつも「こうやって作るんだ」と喜んでいただいていた。
下道のおばちゃんが「カンチャン、玉子焼きがあるよ。食べていきな」といつも声をかけてくれた。「じゃ、食べる」と言うとのりちゃんの隣に座らせてもらい、前の席に座るのりちゃんの弟のいつおに「いつお、うまいか」と言いながら大好きな玉子焼き、ご飯、おつけ(味噌汁)までしっかりご馳走になった。おばちゃんは、「カンチャン気持ちいいね」と食べっぷりを褒められた。
「うちの味噌汁は、職人がいるから、ちょっと辛めなんだよ」とも言った。寛治は食いしん坊。子供のくせに味にうるさく、特に大好きなおつけ(味噌汁)にはうるさかった。よく今日は味が濃い、薄い、辛いと言っていた。「カンチャンはうるさいんだから」とよく母から言われていた。
第二十五章 質屋のマッチャンのおじいちゃん
実は、のりすけの家の他にも、朝早く迎えにいくところがもう一軒あった。質屋のマッチャンの家だ。大きな蔵のある、昼には大きな質ののれんが出る。寛治のオフロやからすぐ近くの四ツ角の一角に建つ店だ。
「マッチャンおはよう」寛治は店の脇の玄関に向かって入っていった。大きな庭でマッチャンが、まだ井戸水をくんで顔を洗っている。庭からは、居間が見え、マッチャンのおばさんとお姉さんが朝ごはんの準備でお膳を用意しているところだった。
マッチャンのおばさんが
「まだ、早いからカンチャン食べてかない?」と声をかけてくれた。
マッチャンの家の朝ごはんは、朝から焼き魚もでるし、煮物もあり、野菜、お豆、おつけときれいにお膳に並び、味も自分好みだった。
寛治は喜んで「おばちゃん、食べていくね」と大声で言い、
マッチャンの横に座らせてもらいご馳走になった。おばちゃんは、「いつもうちのおじいさんがお世話になっているから」と自分の焼き魚の半分を寛治にわけてくれた。
それは、このマッチャンの家で、おじいちゃんの話し相手は、寛治だからだ。
マッチャンのおじいちゃんの部屋には、この辺りではまだ見たことのない長方形の筒のような小さなテレビがあった。
寛治は学校から帰ると相撲中継をおじいちゃんの部屋で観せてもらっていた。すっかり相撲に詳しくなり、取口などをおじいちゃんと一緒に研究して楽しんだ。一番の楽しみは、おばあちゃんが持ってきてくれるお茶と茶菓子だ。
おばあちゃんは、「オフロやのカンチャンは
偉いね。こんな頑固じじい
だれも相手してくれないのに
よく来てくれるのよね」
と笑いながら言った。
第二十六章 柔道得意技 肩車
のりすけの家の職人さんの中に東北出身の夏井正三という身の丈がそんなに大きくないが、体がガッチリした人がいる。夏井さんは、静かな人だが、黒帯三段で柔道の達人だと言う。仕事の作業場から外にでてくるのは、カンナの刃を研ぐ時でそのタイミングを見計らって、のりすけと寛治は、夏井さんから柔道の話を聞いた。砥石に静かにカンナの刃をあて動かし研ぎながら、東北の地方大会で勝ちのぼり、東京の中央大会に何度か出場した選手だった時の柔道の試合の話をしてくれた。寛治が「得意技は何だったんですか?」と尋ねると「肩車だ」と言った。
寛治は以前から柔道に興味があり、富山にいた時に父にせがんで柔道の本を数冊を買ってもらった。勉強の本は一度読むのがやっとだが、好きな柔道の本は、擦り切れるほど読み、内容も理解し、研究していた。だから、柔道の技については、かなりの知識もあり、得意技というと普通の組手から出る背負い投げ、内マタ、体おとしが当たり前だと思っていたのに、夏井さんが、肩車が得意技だと聞いたとき「すげえ!!」と思った。
夏井さんの肩車の技は試合開始の「はじめ!」で相手と組んだとたん、まず、巴投げを撃つ。組ほぐれたら休まず両足へタックル(今は禁止されている)続けて、片足内側への体ごとの小内刈りと連発し、相手の体制と気持ちが、ともに後ろに意識がいった時、右又は左袖をとりながら組むと同時に相手の右足、または左足どちらか下がっている方の袖を強引に引き同時に相手の下にもぐり肩へのせてしまう。
味方の応援席は、夏井のこの形を知っていて一斉に“ヨイショ!”のかけ声がかかり、
それに合わせて相手が投げ飛ばされるすごい場面だ。
寛治は、目の前に起きているように夏井さんの話に興奮した。
第二十七章 新宿警察 柔道教室
のりすけと寛治は夏井さんの話にいつもワクワクしていた。「柔道やりな。受け身覚えるだけでもいいし、精神的にも将来きっと役にたつよ」と夏井さんが二人に言った。そんな折、のりすけのお父さんに、新宿警察署の柔道場の名札を全部作り変える仕事の依頼がきた。これをきっかけに、少年柔道教室があることを知り、すすめられた。少年柔道教室は、警察官の柔道場を新宿の子供達(小学校六年生まで)に場所を開放し、淀橋母の会が後援についてくれることで、月謝はなし。月、水、金の午後三時~五時までの二時間。日曜は、午前十時~正午までの二時間。稽古の日は、自由だが、稽古の始まり時間、途中退出はできない。
そして、最後までやると約束することが条件だった。寛治は、小さな頃から興味のあった柔道ということもあり、話を聞いた二人は、すぐやりたい!!!と思った。
二人共、親からは、「やるんだったら、途中でやめない事」と同じように釘をさされた。水道橋の道着屋さんで初めて柔道着を買ってもらった。
一九五五年夏休みが近い七月に、親の同意書と入会書類を持って二人は少年柔道教室に入会した。
はじめの月曜日。二人は、初めて練習に向かった。新宿警察署のすぐとなりは、級長の青木くんの家の大きな酒屋さんだ。
初めての練習に行く前に、酒屋さんの店により、「こんにちは重ちゃん」と声をかけると
坊主頭の青木のおじさんがでてきて「おー発田くん、何だ?」と言った。
「今度、柔道を習うので、重ちゃんに言っておこうと思ったのです」
「そうか、少年柔道団に入るのか、発田くんじゃ、強くなるんだろうね。重は、今出掛けているから話しておくよ。がんばりなね」と励ましてくれた。
第二十八章 柔道道場へ はじめの一歩
いよいよ道場入門。警察正面玄関から入ると大きく広いカウンターがあり、大勢の制服を着た警察官が机に向かって作業をしていた。その中の一人が「君たち、道場は、そこの横の廊下の重い扉を開けてまっすぐだよ」と声をかけてくれた。廊下の重い扉を開けると、砂利敷きの広い中庭にでた。砂利を踏みながら進むと右側の建物の一番下の方にあるアミ目の小さな窓から声がして「おいで、いい子だな」と顔を傾けてこちらを見ている人が見えた。「君たち今日から入門の子だね、こちらへ」道場の方から一人走って来て声をかけられた。「そこの建物には、近づかないように。服役ってわかる?罪を犯した人が入っているところなんだ。必ず、守ってね」と二人を案内してくれた。七十帖の、大きな道場だ。道場の半分は、畳が敷いてあり、もう半分は、板張りだ。半分は、柔道、半分は剣道として活用しているようだ。子供達三十人位が、それぞれ練習していた。少年部は、小学一年~六年の子達が、全部で四十人位。練習日は自由に選択できるので、その日の人数は、変動する。毎週日曜日には、昇級の試合があり、年齢(学年)も体重も関係なく対戦し師範の先生達が級を決める。白帯から始まり、受身の試験に受かると六級になる。六級は、白帯の先の方二十センチだけの赤の帯、五級は青帯、四級は赤帯、三級は紫、二級と一級は、茶帯。色で級数が決められている。道場では、色々な帯の子供達が乱取りの稽古をはじめていた。
第二十九章 基本の基本 受身
藤井先生が、「やめ」と大声で稽古を一度止め、二人を紹介してくれた。中には、知り合いが何人かいた。柔道が強いと学校で有名な六年生の村田さんの姿も見えた。「よし、はじめ」の掛け声で練習が再開された。「新人は、他三人を加え五人。まず受身をはじめるから」と言って道場の端に連れて行かれた。「新井といいます。よろしくね」とすがすがしく挨拶してくれた。受身を教えてくれるのは、先ほど、案内してくれた人だ。「体に色々なことが起きても、受身がしっかりできていれば地面、地上で頭を打たない。“体の各部を傷めない、守る”“体全体を衝撃から守る”これが、柔道で一番大切なことで、柔道をやっていてよかったな思える要素となる」と教えてくれた。まず、座って足を伸ばし後ろへ転ぶ受身から始まった。寛治は、本で闘うことばかりの技術中心に深く勉強していたが、人から習うことで受身から始めることが、新鮮に感じ、しっかりやろう!と思った。座 、蹲踞、立 各位置から受身も完全に一週間で身に着け六級となった。いよいよ六級になり、進級試合に出場することになった。対戦相手をどんどん倒し、二週目にして、飛び級しで三級の紫帯となった。のりちゃんも寛治に色々教わり強さを発揮して五級青帯になった。下道のおばさんは、「カンチャンのおかげでのりすけまでこんな帯締められてうれしい」と涙を流して、二人の帯を紫と青に煮込んで染めてくれた。
第三十章 元気だから、まあいいか 通信簿
柔道の稽古にあけくれ、たゆまず、生活の一部となっていった。
小学校では、終業式となり夏休みに入る。通信簿をもらい、自分ではほとんど見ずに「ただいま!はい、これ」と両親に渡して近所の仲間と野球の約束がある柏木公園の広場に走って行った。
岩崎先生からの通信記録を見ると“稀な運動神経を持ち合わせすばらしいです。元気で誰にでも優しいのは、一番ですね。勉強はあまり興味がないようなので、もう少しですね。“と書かれてあった。
父のいつもの台詞がでた。
「元気だから、まあ、いいか」と笑った。
母も通信簿を受け取り見ながら「東京に転校してきて、ニャン太のこともあったし、
色々心配したけど、元気でやれていてよっかたが」とほっとした顔をした。
第三十一章 盆踊りと少年相撲大会 準備
東京では、八月十三日と八月十四日が珍しい旧盆だ。新宿柏木公園の隣の大広場で、恒例で十三日に盆踊り、十四日に少年相撲大会が開催された。八月に入ると安井組が公園の中央に、安井組の若い衆がトラックで土を運び、本格的な土俵を作った。隣の広場では、やぐらが組まれ盆踊りの準備も同時に行われた。五年三組の服部栄二「相撲大会は、絶対負けないからな」と言っていたのを寛治は、思いだし、楽しみにしていた。柏木の盆踊りと少年相撲大会は、新宿では有名行事だ。とくに少年相撲大会は、小学六年生までであれば、柏木以外でも新宿区内からの出場可能で、かなりの人数の子供達が参加していた。これらの行事は、新宿区の色々な商店街、業者、会社からの盛大な応援支援によるものだ。安井千代の家の安井組からのも大勢の若い衆も行事の準備から当日の屋台まで尽力する。寛治の家、柏木浴場も、子供力士に相撲の後にオフロに入ってもらえるようにしていて、喜ばれていた。砂だらけの子供達をまず、店の前にお湯に入った大きなタライをいくつか用意してあらかじめ、砂をある程度落としてもらった後に店のなかへ案内し、大きな流し場できれいに体を洗い、風呂でゆっくり温まってもらう手順となっていた。兄太一は
「カンチャンも手伝ってね。もちろん、相撲も勝ってよ!」と笑って言った。
第三十二章 盆踊り
盆踊りの日は、母も姉二人も義姉もなんだかウキウキしている。盆踊りの予行練習で近所の人達と一緒に三日位前から時間を作って練習に励んでいた。いよいよ、本番だ。夕方六時に始まり、大きな音量で色々な民謡がかかり盛り上げていた。ヤグラの上の大きな太鼓の音と民謡に合わせヤグラの周りを多くの人達が踊りながら回っていった。”ヤッショー、マカションでシャンシャンシャン“周りで観ている人たちも一緒にかけ声を掛けて参加していた。子供達は、屋台でもらったワタアメ、アメ細工、カラメルなどをもらって食べながら見ている子、走りまわっている子それぞれだ。
柏木浴場の女手の四人は、店の様子を見ながら、替わる替りに踊りに出かけた。男手の父と兄は、釡番と店で掛かり切りだ。暗くなってくると、沢山の裸電球と色とりどりの豆電球がヤグラを浮かびあがらせた。楽しそうに母、姉達が踊っている姿を今日一日くっついている弟にキャラメルをやって静かにさせ二人で見ていた。夜九時三十分過ぎた頃には、踊る人も減ってきて十時前に「それでは、これが最後の曲で皆さん、入ってください」とマイクで流れ、賑やかに、みんなで踊り終わりになった。静かになっていく盆踊りの会場は、さみしさを感じ、田舎の盆踊りの夜を思い出していた。
第三十三章 少年相撲大会
前夜の盆踊り大会が終わり、いよいよ相撲大会だ。柏木公園の中央にできた立派な土俵で熱戦が繰り広げられる。夕方四時からの大会出場受付が始まる。申し込んだ順に白いさらし布三センチを渡され、各自ふんどしを締めて集合する。昼すぎると待ちきれない子供達が集まってきて、土俵の上で相撲をとって遊んでいた。安井組の若い衆の計らいで、屋台も早めに出ていて、色々お菓子が配られ子供達は、大喜びだった。午後四時近くになると、子どもが出場する人は、もちろんだが、子供達の元気で、それぞれの生活に活気を持とうと期待する人達もどんどん集まり盛り上がっていった。
柏木地区の出場者は、十八人。一二三年生は、八人出場。四五六年生は、十人出場。新宿区内からの淀橋、角筈、戸山町、西新宿からの出場者は、十六人。一二三年生は、六人出場。四五六年生は、十出場。それぞれ地区別でトーナメント方式で予選が行われた。上位四名ずつ、計八名が、準々決勝に進むことができた。
行司は、中学生の二人根本さん、加治さんが受け持った。二人共、中学年生で昨年みごとなさばきだったようだ。一人は、土俵上で、一人は、土俵下正面にいて
微妙な判定になった時だけ二人で相談して判定して、二人の判定のみで決裁した。
第三十四章 少年相撲大会 予選トーナメント
各地区のトーナメントは、学年区別なく戦いとなった。当然、高学年の四五六年生が勝つのが順当だが、本当の戦いは、自分の都合のよい状態ばかりはなく、今を闘う強さを学んでほしいという意図からだ。戦後の今の親の願いも入っていた。
柏木地区十八名。前年度優勝の服部と三位の村田がシードされ、単独で両端。寛治とのりすけは、中頃の組に入り、予選トーナメントが始まった。低学年のチビ力士の健闘に大いに沸き拍手も湧き上がっていた。
寛治、のりすけ共に、危なげなく二勝してベスト八の準々決勝に進んだ。服部、村田も圧倒的な強さで勝ち、柏木地区準々決勝は、この四人となった。他地区に準々決勝に進んだのは、昨年準優勝した曽根(淀橋)、昨年四位の木村(角筈)、前田(戸山町)、遠山(淀橋)の四人となった。
準々決勝は、服部、曽根、村田、木村がシードされ、寛治、下道、前田、遠山がクジ引きで各枠に入った。
寛治の家族も予選が始まる頃には、誰かしらが寛治の戦いをみていて、進捗情報を家に連絡していた。予選で負けるわけないと思いつつ勝負だからと懸命に応援した。
第三十五章 少年相撲大会 準々決勝
午後四時から始まった予選も終わり、決勝リーグの組み合わせが発表された。全員におにぎりが配布され、土俵まわりで五十人~六十人の子供達が賑やかにおむすびをほうばった。いよいよ決勝リーグが始まった。時刻は、午後六時半になった。行司の根本、加治の二人が土俵を掃き清めた。準々決勝の行司は、根本が務めた。
準々決勝 1組目
服部(柏木 小学五年 一六〇センチ・六〇キロ)対
前田(戸山町 小学六年 一五〇センチ・四五キロ)
服部は昨年の優勝者、どの力士よりふたまわり大きく仕切りの時から圧力を感じさせた。組んでも離れても実力充分。前田は細見だが長身だ。強力な投げを持っていた。
立合い
行司 根本の軍配が、かえった。服部の一気のブチカマシをまともに受けて前田は、腰砕けになり、組むことさえできず、次の一突きで仰向けに倒れた。
準々決勝 二組目
木村(角筈 小学六年 一四五センチ・五〇キロ)対
遠山(淀橋 小学六年 一四五センチ・四〇キロ)
昨年四位だった木村は、つっぱりが得意。遠山は警察少年柔道の茶帯二級で
投げ技が得意だ。
立合い
木村が一気に突っ張りに出た。遠山がさがりながら右にまわり、
つっぱりをかいくぐり、右四ツに組み止めた。すぐ腰投げをうった。
決まったかのように見えたが、木村がとっさに体をあずげて一瞬早く
遠山が落ちた。
準々決勝 三組目
村田(柏木 小学六年 一四五センチ・四〇キロ)対
下道(柏木 小学五年 一四〇センチ・三五キロ)
村田は警察少年柔道で茶帯1級、道場実力上位だ。昨年は、服部に体力負けし、
三位に終わっている。一方の下道は、寛治と一緒に道場に通い、青帯五級。
体が柔らかく、相手の力を利用するのがうまい。
立合い
のりすけが、早く立ち村田のふところに飛び込み、双差しに入った。
よし!有利になったと思った瞬間、村田の強引な右腰投げでのりすけは、投げ出された。
準々決勝 四組目 いよいよ寛治の出番!!
寛治(柏木 小学五年一四〇センチ・四〇キロ)対
曽根(淀橋 小学六年一五〇センチ・五〇キロ)昨年準優勝の曽根は、体が他力士よりひとまわり大きく、唯一、服部と互角の戦いができる力士だ。昨年も熱戦の末、おしくも敗れた。強力押し相撲だ。
母は、見ていられないからと義姉と店に残った。長時間もつよう釡に太めの薪を詰め込んで、父と兄の二人は、応援にかけつけていた。姉すみれ、こみちも念冶を連れて不安そうにみていた。
立合い
曽根は、素早く勢いのある立合いで寛治の胸へ双手で押しの体制を作ろうとした時、寛治の体にさわれず、寛治は、消えた。寛治はゆっくり立ち曽根の双手が、体に当たる前にネコのような素早さで腕をかいくぐり右の腰のまわしに両手をかけて引きながら大きく体を開いた。
曽根は、自分で勢いよく前へ出る力が空を切り、顔から土俵に突っ込んだ。
観ていた観衆は、何が起こったかと一瞬シーンとなり、間をおいてウォーーと驚きを見せた。
寛治は、曽根を起こしながら頭をペコンと頭をさげた。
第三十六章 少年相撲大会 準決勝
父と兄は、顔を見合わせて「つかれるなーや」と笑い、いったん家に帰った。姉すみれとこみちは、「念ちゃん、お兄ちゃん勝ったねえ」と念冶の頭をなでた。姉すみれは、「カンチャンと一緒にニャン太いたね」と涙ぐんだ。
準決勝へ四人が勝ちあがった。準決勝 服部 対 木村。 準決勝 村田 対 寛治
準決勝一組目 服部 対 木村
立合い
木村は素早い立合いで得意のつっぱりで一気に、服部を土俵際まで追い詰めた。終わったかと思った時、服部は、顔を真っ赤にして耐えつつ、木村の片手を捕まえて、強引に引っ張りながら土俵下に落ちた。また、木村も片手を引かれたことで体制を崩し同時に落ちた。観衆はワーと声をあげた。どちらか見当がつかなかった。行司の軍配は、服部に上がっていた。土俵下の加治ともう一度確認するために、根本も土俵下におり入念に話し合いをしていた。行司の根本が、土俵に戻り「軍配通り、服部の勝ちです」と大きな声で言った。
服部の最後まであきらめない執念の勝ちだ。
準決勝二組目 村田 対 寛治
店を兄と義姉に任せて、父に連れられて母も応援に駆け付けた。寛治は、村田に対しては、道場で見て柔道の強さを知っていた。尊敬している人だ。お互い柔道からくる投げ技でくるなと思っていた。寛治は、思い切り行こうと集中した。
立合い
きれいな互角の立合いで右四ツにがっぷり組んだ。体格的には、やや村田の方が、身長が髙い位でほぼ一緒だ。村田は、まず引きつけて寛治の上体を起こして素早く右腰投げをうった。柔道と違い、相撲は、体がくっついている分簡単に腰にのってしまい、村田の切れのある技で寛治は、体が浮き投げられた。観衆は、決まった!と思ったが・・・
次の瞬間、円を描いて投げられた寛治がくるりと宙でまわり、村田の正面の
足元にそんきょの形で着地したのだ。その位置からネコのような素早さで
村田の左腰まわしを両手で掴み、強引に引きながら体を開いた。村田は、
回わるようになり、寛治は、もう一度遠心力を使い横に跳び、また、そんきょの形になった。持っているまわしの両手を引くと、村田は土俵の下に飛んでいって倒れた。寛治のネコ返りの技が出たのだった。観衆は、いったい何が起こったのだろうかと戸惑いながら拍手がとどろいた。父は、兄に伝えるために飛んで帰った。姉すみれが「お母さん、言ったとおりでしょ」と言った。母「本当だね、ニャン太と練習していたことだね。ニャン太と一緒にいるんだね」とうなずいた。
第三十七章 少年相撲大会 決勝
決勝 服部 対 寛治
ついに 服部栄二と発田寛治の決戦だ。観客席からは、学校の同級生、それぞれの近所の人達が入り混じり、“エーチャン”コールと“カンチャン”コールの声が飛び交った。
熱のこもった応援も最高潮に達していた。約束通りに応援に来た安井千代は、父安井文吾と一緒に応援していた。キッとしたこわい顔つきでこちらを見ていた。いよいよ立合いだ。
根本の軍配がかえった。
立合い
寛治は今までにない早い立合いで栄二の懐に飛び込み、前ミツを両手でとると一気にもうすごい勢いで真っ直ぐに押し込んだ。
栄二は、アッという間に土俵際まで押し込まれ、俵に足がかかったところで、体全体の力をだし踏みとどまり、同時に寛治を挟みつけるように抱え、強引に真っ直ぐ押し返し、さらに力を加えた瞬間。寛治がものすごい力で自分の方へひっぱった。
栄二の力一杯押す力、寛治の引く力でものすごいスピードで寛治は、土俵際まで下がり俵に足がかかった瞬間ネコがジャンプする恰好のそんきょの形にしゃがんだ。栄二は、急に寛治が消え、止まることができず一直線に押し進んだ。
次の瞬間、寛治が、そんきょから飛び上がるのではなく、下に向けて素早く強く力をかけた。すると栄二の重い大きな体は、信じられないようにフワァっと宙に舞い、寛治の頭上を仰向けに回転して土俵下へ投げ飛ばされた。
観衆は、寛治の倍もある栄二が宙に飛ばされたことが信じられず、シーンとなったが、すぐに一斉に拍手の嵐となった。すぐに、寛治は、土俵下の栄二に駆け寄り、怪我のなかったことを確認して手を差し伸べ、笑って抱きあった。
観客がもっと驚くことがおこった。
行司の根本が土俵下に落ちている栄二に軍配をあげていることだ。子供達は、「カンチャンが、勝ったんでしょう?!」とザワザワした。行司根本は、土俵下の加治と勝負を確認してから説明した。「発田は、俵に足がかかってから大きく土俵の外へそって服部を投げたが、
服部が宙に浮いている間、発田の足は残っていたが、しかし、体が“死に体”と判断しました」※体がない(死に体)・・力士の体制が崩れて立ち直ることが不可能となった状態
レベルの高い判定に大人達から、拍手がわき、行司の見事さに驚いた。
寛治も相撲のルールを改めて知った。そして、改めて栄二に、「おめでとう」と言った。
力一杯やれてニャン太と練習していた“ネコ返り”、“ネコ飛び投げ”も
出せて大満足だった。
連続優勝となった服部栄二は、
「本当は、おめえの勝ちだな」と「これ、もってけ」と賞品の七輪(炭入り)を渡してくれた。
準優勝の賞品は、大きな“すりこぎ”、“すり鉢”で、お母ちゃんにいいお土産になるなと
寛治は思った。
その他の賞品は、三位が、鰹節けずりと鰹節。四位が、かるた、トランプ。
参加賞が、バケツ。だった。
第三十八章 少年相撲大会のしめくくり
相撲がおわり、いよいよ柏木浴場の出番だ。店、玄関脇に少年相撲の参加賞でもらってくるバケツが山のように積まれていた。店の前の道路にはみ出て、お湯の入った大きなタライが5から6つ並び、子供達は、足や体の砂を予め落とし、店に入り、洗い場で体を洗い、大きな湯船につかった。脱衣所、洗い場、湯船と子供達で一杯になり、大賑わい。寛治は、おフロやカンチャンに戻り、のりすけと二人で子供達を順番に面倒をみた。そうやって、寛治のわくわくドキドキの相撲大会の一日は、柏木浴場でおわった。
優勝した服部栄二はというと・・・・
その五年後、相撲業界に入った。その後、東錦の四股名で十年後には幕内上位まで昇進していった。そして、十五年後に引退した。
東錦 栄三郎(星の)西新宿出身(一九四〇-一九九四)一七三センチ・一三二キロ
高砂部屋の幕内力士、最高在位東前頭十五枚目 引退後は、稼業とんかつ屋従事
第三十九章 のりすけの姉さん
一九五五年八月相撲大会も終わり、夏休みも残り少なくなった頃のある日。
のりすけが、「家に泊まりに来ないか?」と誘ってくれた。昼すぎに母に断わり、「夜は、のりちゃん連れてオフロに入りに来るんだよ」と言われながら出掛けた。のりすけの弟いつおを混ぜてのトランプも飽きた頃、「のり、部屋へおいで」ちょっと低い声で呼ばれた。
その声は、のりすけと大分歳の離れた姉さんからだった。何回か、顔を合わせたこともあるが、話したことはなかった。下道のおじさんと時々大きな声で口喧嘩しているのを聞いたくらいだ。
つり目で、鼻が高く、赤い口紅で大きな口、はっきりした顔立ちで、瓜実
顔の怖い感じのする人だった。
のりすけは、呼ばれていくとのりすけでないように急に静かだ。
部屋には、画版の絵が何枚かあり、きれいいな風景や果物、野菜が描かれていた。なかでも、きれいな風景は、富山の中浅生の家を思い出させた。部屋の隅には、ほかにもたくさん画版が重ねて置いてあった。「カンチャンね、初めてしゃべるわね。カンチャンには、お姉さんもいるのよね」
「もう、頭にはいってるから、そこの果物好きなのを食べて。のりとってあげなさい」
のりすけは、「カンチャン何食べる?」と言った。
テーブルには、葡萄、桃、スイカ、バナナなど大きな皿にのっていた。寛治は「食べたことないからバナナにする」のりすけは、葡萄を選び、寛治は、バナナをもらった。はじめて食べたバナナは、こんなにうまいものがあるのか。と思い感激した。
寛治は、田舎の小川のネコヤナギ、山の胡桃の話などの話をした。夕方に
なり、おばさんが「のり、ご飯よ」と声がかかった。のりすけは、先に下りて
行った。
のりすけの姉は「カンチャン、今度伊勢丹の5階においで私居るから。
ご馳走するよ!じゃーね」と言うと突然近づき、抱きしめてくれた。
寛治はただ硬直していた。
「ごめん、ごめん、これ、ハグっていって、外国で挨拶なのよ」
と話してくれた。
下におりて行くと
「お姉さんは、絵の仕事で外国に時々行くんだ。外国の変な習慣で
気に入った人には、ハグするんだよ。カンチャン、気に入れられたんだよ」と言った。
第四十章 夏休みの終わり
のりすけ家の夕食は、おばさんの得意料理 かた焼きそば、肉団子、酢豚、八宝菜の中国料理だった。下道のおじさんは、怖い顔の人で何人も職人を束ねていた。寛治が来たことで、ご機嫌で大きなトックリの酒を自分でグイグイ飲んでいた。おじさんは、柔道の話を色々聞かせてくれた。
職人さんの三人は、隣の部屋で食事し終わったら帰っていくが、夏井さんも一緒に話に加わり、寛治の顔をみてニコニコしていた。
おばさんも加わり「どんどん食べてね」勧めてくれた。
おじさんは、祭にはまといを振る盛り上げの中心人物で、このあたりでは有名だ。相撲、柔道、お祭りの話に盛り上がり楽しそうだった。そうして、楽しい食事は終わった。
食事のあとは、オフロだ。のりすけの弟も一緒に連れて柏木浴場へ向かった。寛治の家に戻り、下フロの上へ着衣を脱いで、裏からの洗い場への入り口から念冶も加わり、四人で入っていった。
ゆっくり大きな湯船に浸かり、そのあと店へ行ってオレンジ牛乳を飲んで四人とも大満足だ。オフロのあと、のりすけの家に戻り、三人で並んで寝た。
真夜中になり、揺り起こされ寝ぼけていると
「おい!起きろ、ちょっとこいよ」とのりすけに起こされた。のりすけは、身をかがめて、そっと窓をあけた。同じ二階の仕事場の窓に二人は向かい夜の闇のなかに、
三軒先にある道路傍にある飲み屋養老の滝の二階の窓が明るく電気がついた。
そこには、下着姿の女性達が右へ左へとふざけながら布団を敷いている姿が、
明るい電気によって浮き出されていた。女子寮みたいだ。
しばらく見ていたが、そのうちぱっと
暗くなるとのりすけが、
「終わった」
「さあ、寝るか」
と言い、部屋へ戻っていった。
寛治は、寝ぼけがすっかり覚めていた。今日ののりすけのお姉さんのこと。
夜中の見学。寛治にとってずっと忘れることのない夏の出来事となった。
そうして、夏休みも終わった。
第四十一章 二学期
夏休みも終わり、家族みんなで東京に出て来て四か月の月日がたった。それぞれ、生活に馴染み、元気に毎日を送っていた。寛治も田舎ののんびりした暮らしから、やる事がいっぱい増え、前へ前へどんどん進んでいくことを感じた。
二学期に入り、学校では、田舎ではなかった授業を親に見せる参観があった。五年二組は、国語の漢字の授業の参観だ。一週間前に参観のお知らせの手紙を配布されたが、苦手の国語の授業だったので“親も忙しいから”と自分で決めて、釡に入れて燃やしてしまった。
釡で燃やしたのは、その手紙だけでなく他にもあった。兄に「カンチャン、何のテストでもやったものは見せろや」「できなくてもいいんや、一緒にみて間違ったところ一緒にやり直ししとこや」
と言われていたが、ほとんど、テストは何もしないで釡行きだった。
後日、母から「カンチャン、この間、のりちゃんのお母さん、学校の授業を観に行ったと言うとったが、そうなが?」と言われた。その質問に寛治は、
「忙しい家の人は、来なくていいことになっとるの。次、運動会観に来てな」と平然と言った。
九月中頃になると、十月の大運動会に向けて、練習が多くなった。
嬉しいことに勉強時間もつぶして、行進、遊戯、組体操、騎馬戦、団体競技を何回も何回も練習を重ねた。
大運動会の花形は、やはり各組の対抗リレーだ。
五年二組からのリレー男子は、足の速い三人エース寺本学、行動はいつも遅いが駆け足だけは早い橋本一馬、そして、寛治が選ばれた。
リレー女子は、おてんばの安井千代、男盛りの前野ユリの二人。
男女合わせて五人が選ばれた。
第四十二章 大運動会
一九五五年五月。東京では春の小運動会、そして秋の大運動会。年に二回運動会があることをのりすけから教えてもらった。十月九日(日)の朝、ボンボンボンと遠くに花火があがり、いよいよ秋の大運動会だ。
発田家の推進力である寛治の活躍を見逃さないように、家族は、前日から運動会のプログラムを見ながら打ち合わせして準備した。当日、店の仕込み、開店準備を早朝から、父、兄で行い家族の場所取りを朝早くから、念冶を連れた姉こみちが、学校へ出かけて行った。
母と姉すみれと義姉ユキで、みんなのお楽しみのお弁当作りした。海苔巻き、お稲荷さん、玉子焼き、ゆで玉子、果物。贅沢にりんご、柿、皮がまだ緑のミカンを用意してくれた。
運動会が開始間もなくすると全員揃い、応援体制万全だ。午前中は徒競走。五年男子四組目に寛治が見えた。
五人でスターする100m走だ。グランド1周する。一番外枠の5コーススタートした。
50m位まで後ろの方を走っていたが、半分過ぎた最後のコーナーに入った途端、一番外枠からグングンスピードを上げて前を抜き切りゴールした。
姉すみれが「カンチャン、普通の走りになったん?ねえ、お母さん」と笑ながら言った。
「そうやね、でも、早いね」母も満足した顔で言った。
遊戯、騎馬戦、棒倒し、元気な寛治が躍動した。
午前中演目が終わり、運動場一杯にそれぞれの家族が家族
揃ってのお昼となった。寛治たちの家族も八人揃い、楽しい昼食となった。
父、母みんな楽しく話しながら、海苔巻き、お稲荷さん、大好きなゆで玉子をうまいうまいと食べた。柿、みかんは、今年の初物だ。トンカツ屋の栄二がニコニコしながら顔をだし、お稲荷さんをくわえていった。のりすけの家族も何組か向こうに見えて、手を振っていた。
午後の部に入り、大玉転がしが終わり、いよいよ高学年五六年生の選抜リレーだ。
男三人、女二人の五人チーム構成で、
第一走者(100m)寺本、第二走者(50m)前野ユリ、第三走者(100m)橋本、第四走者(五〇m)安井千代第五走者(100m)寛治。
五年生は、五組までで組順のスタートコースとなるので、二組は、第二コースだ。
いよいよスタートとなる。応援のみんなも緊張が走り集中していた。
バン!
第1走者 寺本スタート良く力走。三位につけスピードも落ちず三位バトンタッチ。
第二走者 前野ユリは、50mを飛ばして1人抜き、二位でバトンタッチ。
第三走者 橋本は、素晴らしいスピードで先頭を抜き、一位でバトンタッチ。
第四走者 安井千代は、負けん気の走りでトップを維持し、寛治がみえてきてバトンタッチの体制に入った途端、足元が滑り前のめりに倒れた。バトンを持った手が地面にたたきつけられ、バトンが手の中でバラバラになってしまった。千代は、必死にバラバラのバトンを寛治に渡した。
第五走者 寛治は、バラバラのバトンを握りしめ、最後の100mに向かった。
前の人は、20m先に1列の一団となって走っていた。第2コーナーを
回った時、目の前を茶トラの大きなニャン太が大きな獲物に飛びかかるように
横切った。あと50mのところから、足のバネを使い、ネコのような素早さで
前の一団に追いつき、第4コーナーを回ったところで、前三人を抜ききり、
ゴールが見えてきた。先頭の一組のアンカーは、ゴールのテープが
見えて両手を挙げてテープを切ったと思った瞬間、脇を稲妻のような動物が通り抜けた。
ネコが獲物に飛びかかるように寛治がテープを切り、顔から地面につっこんだ。
逆転だ!!
千代が泣きながら、寛治に駆け寄った。
鼻をすりむきながら、
寛治は、地面から笑って顔をあげた。
千代は、白いハンカチで
寛治の顔をやさしく拭いた。
大きな拍手が大きく長く続いた
姉すみれは大興奮しながら
「でたね、ネコ走り、ニャン太がいたね!!」と言った。
父と母を見ると、泣きながら静かに拍手をおくっていた。
第四十三章 新宿少年柔道大会
一九五五年十二月 大運動会も終わり、落ち着いた日々が続いた。淀橋警察の柔道ものりすけと二人でたゆまず続け、四か月となった。寛治は、夏井さんの技、理論を聞き工夫を重ね強さを増し、憧れの村田と同じ一級になっていた。のりすけは、三級となり、寛治のムラサキ帯譲り、
のりすけのおばさんが、寛治のためにのりすけの帯をなんとか努力して茶色に染めてくれた。
だが、どうしても、青が消えず独特の茶色になった。藤井先生に「この色でいいですか?」と聞いたら「寛治だからいいや、もうすぐ黒だからな」とうれしいことを言ってくれた。
とうとう師走十二月になった。十二月四日(日)新宿区少年柔道大会が開催された。淀橋母の会 新宿淀橋警察署協賛。会場は、新宿大ガードを西側からくぐり東口の歌舞伎町ゴールデン街をやりすごしすぐの花園神社境内だ。
花園神社は、酉の市で何万人もの人がでる。芸能の神様で駆け出しの俳優達が店をだしたり、境内で芝居をやったり、文化の発祥地となっていた。屋台や芝居は、安井千代の家の安井組の仕切りとなっていた。試合会場は、神殿の前の広場に前日からかかりっぱなしで、地上から一段高い三十五帖の晴れやかな舞台を作り上げた。
淀橋警察からは、村田、遠山、寛治、三人が選抜されて出場した。
他地区、アメリカ進駐軍の子息三人も合わせ、十六人が選抜され、十六人
トーナメントだ。
試合がはじまり、熱戦が繰り広げられた。
寛治は、二勝して、勝ち上り準決勝に進んだ。
淀橋警察の三人順当に勝ち上がり、
アメリカ進駐軍のジェームスと四人で準決勝となった。
第四十四章 新宿少年柔道大会 準決勝
花園神社のそばには、東上助次のもつ花園湯があり、試合の応援に伯父も
父と一緒に応援にかけつけてくれた。
準決勝 村田 対 ジェームス
準決勝は、昨年度優勝の村田、同三位の遠山がシードされ、準決勝は村田 対 ジェームスから始まった。応援の人は、勿論、神社を訪れる大勢の人達も高くなっている試合場を何重にも取り囲み異様な熱気になった。はじめ!オツ!両手をあげ、村田がジェームスと組み合った。村田は、右組み、ジェームスは、左組みケンカ四つだ。お互い有利な組み手を激しく取り合った。村田は、左軸を引き、体を崩し、右の組み手にうまく組み止め、直後左から投げ打ち、ジェームスが下がったところを気合と共にヤッと逆の右の背負い投げをうった。決まった!と思った時、大きなジェームスは、懸命に長い左足を村田の左足ももにかけ、村田をつぶし、覆いかぶさるように倒れた。すぐ、村田の首に腕をまわし前エリをとり、反則ではないかという絞め技で攻めあげた。村田の動きが止まったところを上四方固めの寝技で押さえ込み一本をとった。番狂わせだ。
進駐軍の外人の子が、勝ったことで観衆は、ちょっと不満を見せたが日本の柔道を立派に身に着け外国で生活しているジェームスに改めて拍手がおくられた。
準決勝 寛治 対 遠山
伯父の助次おじさんも父もグっと身を前にのりだした。
道場では、村田と同じトップクラスの強者で稽古はしたことがないが、よく見て勉強させてもらっていた。遠山は、組み手は、左右どちらでもよく、体がやわらかく、内また、ハネ腰が、強烈で一発で決める技を持っていた。
“はじめ!“
遠山は、寛治よりやや上背のあるのを利し衿首を右で取り左手は、寛治の組み手を遮り払っている。寛治は、左手を伸ばし、まず前たてをとった。その瞬間に、寛治の右袖の先を左手の小指を目立たないように小さく曲げて取り、強くひきつけ右から得意の内またにでた。完全な技で、寛治は重力のない物のように、体が宙に舞った。観衆は、ワッと湧き、伯父も父もワッと体を硬くした。宙をまわり、畳近くなった体がネコのようにくるりとまわり、両手、両足同時に畳につきネコのような素早さで遠山の体に潜り込み肩の上にのせた。
肩車だ!!
遠山は何か動物が下に潜り込んできたかのように見えた次の瞬間には、畳の上に投げ飛ばされていた。夏井さんに教わっていた肩車だ。
寛治の見事な一本勝ちに観衆も拍手をおしまなかった。
第四十五章 新宿少年柔道大会 決勝
決勝 発田寛治 対 アレン・ジェームス
決勝に進み連絡を受けて、兄夫婦が店番を引き受け、観客席には、母と姉のすみれとこみち、弟の念冶が駆けつけて、父と伯父とが顔をそろえて応援にきた。安井組の若い衆の一団の中に、組長安井文吾と千代寛治のクラスの寺本、青木、他いつもの顔ぶれ、岩崎先生も見えた。近所ののりすけ家族、質屋のマッチャン家族も来ていた。準決勝の後、肩車での勝利に夏井さんは、「カンチャン、おれよりきれるな!」と顔を出してくれ「もう一つな!」と優しく両肩をたたき、席にもどった。
いよいよ決勝戦だ。「発田寛治君」「アレン・ジェームス君」二人が呼び出され、大きな拍手が起きた。会場全体は三十五帖畳敷き、中央部分二十四.五帖赤布帯で仕切った正方形の試合会場だ。
淀橋警察の柔道師範藤井先生が審判を務める。お互い、中央に進みでて礼をした。
“はじめ!”
ジェームスは、寛治より身長差二五センチ体重差一〇キロ違い、普通の大人より大きい。
ジェームスは、寛治の両脇をつかみ、寛治がまだどこもとれずにいるなか、強引に引っ張りながら、足を寛治の腹にあて巴投げにでた。見事に決まり、寛治は空中に投げ出された、観衆は終わったと思った。空中へ飛ばされた寛治は、ネコのように体をまるめて、地上の畳に落ちる寸前に回転とひねりでジェームスの方へ向かって、両手、両足を畳の上に音もなくつき、次の瞬間、ネコのような素早さでジェームスに突進し、右足にしがみつき、寛治の右足をジェームスの左足に大内刈りをかけた。
ジェームスは真後ろに倒れたが、背中を着くことを堪え、しりもちをついた。
ジェームスも必死にもがきながら、寛治を抱え込み長い右手を使い、寛治の首にまわし衿の道着をつかみ、力任せに体を横転した。寛治は塀がかぶさったかのように、下敷きになった。首は、完全に絞めの形になり、審判からはちょうど見えない角度で、反則になる絞めに入りギシギシ首に食い込んできた。
村田さんがやられた手だ。だんだん意識が遠のいてきた。その時、大きな茶柄のニャン太の顔が前にでてきた。ニャン太が後足を折りたたみ、バネを使って飛び上がってみせた。
寛治は、ボーっとしたなかで、足を抱え込むように縮め、バネを使い思い切り飛び上がった。
すると首にかかっていた腕と道着をつかんでいた手が強くはじかれて、外れた。お互いが腹ばいで頭だけがくっついている状態になった。
寛治はすかさず、ジェームスの背中にしがみつき、右肩を下から抱え通して、横倒しにして、横四方固めに押さえ込んだ。ジェームスは、力任せに寛治を突き放した。
寛治は、体が起きたが、そのまま架裟固めに流れるように押さえ込んだ。「押さえ込み!」審判の声がかかった。
ジェームスは動けなくなった自分に怒りをこめてウー!とうなり寛治の顔を突き放した。寛治は鼻がつぶれたかと思うほど痛みを感じたが、冷静に体を動かし、顔をジェームスの腹の方へ移し、上四方固めに決めて押さえた。ジェームスは、ピクリとも動かなくなった。
三十秒たち
一本! 審判の手が挙がった。
観衆の大きな拍手をあびて、
優勝が決まった。
また、ニャン太に助けてもらった。
何もなかったように、
優しく寛治を見ている顔を強く思い出した。
一九五五年も終わる
第四十六章 アメリカ真剣勝負の道へ
その後、寛治は、淀橋第一中学校に進んだ。“十一歳の発田少年優勝!“警察の広報誌の少年柔道大会優勝記事を機に一般、マスコミに伝わり、“新しい柔道ネコのように素早い固め技の天才”として話題になった。大会で対戦した駐留軍の少年ジェームスの父を通して、横田駐屯地の関係者から、アメリカハイスクールへの留学を勧められた。
「おれ、柔道で食っていくわ。しかも、漢字がないのがいい」寛治は、父、母、兄にアメリカ行きを懇願した。「カンチャン、漢字はないけど英語だぜ」と兄は笑った。
父も母も先の見えないところへは、出したくないと思ったが「自分の道を見つけたんだ。止めることはできんよ」と認めた。
中学校三年間、柔道と英語に集中し、とくに柔道は、無類の強さを発揮して中学生では異例の黒帯三段になっていた。日本の柔道連盟からは、寛治のアメリカ行きを引き留めに連日家に訪問があった。
だが、中学校を卒業して寛治は、アメリカへ出発した。
ジェームスも寛治の出発に合わせて、ニュージャージー州のリンデンに帰国。一歳年上のジェームスと兄弟のように生活することになった。
その後、ハイスクールを卒業し、日本では東京オリンピックで湧く一九六四年。寛治はプロ柔道家として独立した。また、地方のプロモーターの設定したボクシング、プロレスリング、キックボクシングと異種格闘家との他流試合を重ねて 身長一七〇センチ、七〇キロの体格にも関わらず一強烈な対戦相手をネコのような素早い動きで、投げ技、関節技、絞め技の固め技でギブアップさせる話題の格闘家となった。試合は多方面に知れ渡り、全米有数のプロモーターから声がかかるようになり、プロ柔道家として一つの形を築いた。
その後・・・・・・・
十年に渡り、厳しい戦いを続け、三十歳の時に、地元の娘と結婚。結婚を機に現役を引退。
ニュージャーシー州の格闘技プロデューサーとして活躍し、子供を五人もうけ、ネコ三匹と一緒に楽しく暮らしている。