乙(きのと)・苦悩
「この世は苦悩に満ちておる」
ヴィローはゆるやかに言った。
天下麻の如く乱れる、とまではいわぬ。
だが、郡領制を敷く帝国が統治するこのレオーネ島も、今や動乱の只中にある。
九つの郡が互いに牽制し合い、しばしば衝突を繰り返し、民草の暮らしも安定とはほど遠かった。
「苦悩だの動乱だの、難しいことは知らねえよ。で、オレは何をすりゃいいんだ?」
ヴィローはエリクを見やり、口の端をわずかに吊り上げた。
この過ぎた策も飾りも持たぬ男こそ、我が《シュアン郡》の代表武侠に相応しい。
「別に何も。六日ほどの船旅だ。釣り糸でも垂らしておればよかろうよ」
エリクに考えさせる必要はない。
だが、我が郡の進むべき道だけは、あらかじめ示しておかねばならぬ。
互いに望まぬ方角へ進んだとて、本人にとっても郡にとっても不幸でしかない。
教えるだけの時間は、まだ残されている。
東の空に白光が射し始めた頃、港にはすでに朝の潮の匂いが満ちていた。
空気は冷たく澄み、海面を撫でる風が岸から帆へと流れ込む。航海には悪くない風だ。
レオーネ島南東の突端、シュアン郡の港湾。
防波堤の先に浮かぶのは、淡く灰青色に塗られた二本マストの中型帆船。
木製の甲板にはすでに乗組員たちが整列しており、点呼の声が波間に響いていた。
彼らはこの道に慣れた老練な水夫たちで、総勢三十二名。
船体には目立つ積荷はない。必要最小限の食糧と水、あとは二日おきに寄港する中継港で補給すればよい。
「そろそろか」
ヴィローは甲板をゆく足を止め、風を嗅いだ。
「この船から魚釣れんのか?」
後から来たエリクが、手すりに体を預けながら海面を覗き込んでいる。
「釣れなくもあるまい。だが貴殿の釣り糸が外れたら、勇魚でも引っかけてしまいそうだ」
「……勇魚は寝てる時間だろ」
二人のやり取りを背に、船の中央部では船長が最後の確認を済ませている。
船員たちの掛け声とともに、マストの帆がはらりと音を立てて膨らんだ。
船首はスッと岸を離れ、水を割って進み出す。
南東のシュアン郡から北西の帝都へ向かうには、西方航路を取るのが定石とされている。
予定ではまず西へ進んで隣郡の港に寄港し、その後レオーネ島の外周を回るようにして北上することになる。
「帝都でお偉いさんとの会議って話だったな。……何を話すんだ?」
「議題は『開国』だ」
エリクは釣り糸を垂らしたまま帆の揺れる音の合間に声を落とし、ヴィローは隣で静かに答えた。
船の縁に並んで座る二人の周囲には人影はない。事前に人払いがされていた。
「ここレオーネ島、すなわちネメティス帝国は、長い歳月にわたり鎖国を続けておる。それも、《原初の海》と呼ばれる境界領域を利用し、外界との海路を封じるという古の技術を用いてな」
帆の隙間から差し込む陽が、甲板に波紋のような影を描いた。
「新大陸との航路が開かれれば、エリクも助かるであろう」
「そりゃあ、帰れるからな。それに……」
エリクは言いかけて口を閉じ、空を見上げる。
「……貴殿がここに来た目的にも、合致するか」
ヴィローが視線を投げると、エリクは頷く代わりに肩をすくめてみせた。
「であれば、郡守会議では『開国派』が勝利を勝ち取らねばならぬ」
「開国派?」
「読んで字の如く。鎖国を廃し、開国を目指す者たちをそう呼ぶ。吾輩もそうだ」
「ならオレも、開国派ってことか」
「まあ、そうなるな」
ヴィローは僅かに笑みを浮かべ、続けた。
「だが、貴殿が無理にこの国の流儀に合わせる必要はない。吾輩と利害が一致しているということだけ、分かっておればよい」
しばしの沈黙の後、ヴィローは再び語りだす。
「少し、蛇足になるやもしれぬが聞いてくれ。我が郡の立場は、正確には『郡領開国派』と呼ばれておる」
「郡領……」
「皇帝陛下を象徴として戴きつつ、各郡が独立裁量によって自治を行う。それが郡領制だ。対して、皇帝がすべてを掌握し支配する体制を専制と呼ぶ。よって、専制開国派という派閥も存在する」
「なるほど蛇足だ。オレには関係ねえな」
ヴィローは微笑を崩さず、わずかに首を横に振った。
「それがそうとも言い切れぬのだ。同じ開国を掲げていても『専制開国派』であれば、我々に刺客を放つこともある。あるいは代表武侠の御前試合で、貴殿と命のやり取りがあるやもしれん」
「お前も郡守も皇帝の配下なんだろ? だったら、別に専制でも同じなんじゃねえのか?」
エリクは疑問というより、率直な印象を口にした。
「専制派の言う『皇帝』とは、必ずしも今の陛下を意味しない」
「んー?」
「専制派の中には現皇帝にお引き取り願い、新たな君主を立てようとする者もおる。穏当に言えば禅譲だが、過激になれば帝位簒奪。自らが玉座に就こうとする輩さえおろう」
「ああ、なるほどな」
言葉の印象だけを取れば、『専制派』のほうが皇帝に忠実に見えるかもしれない。
だが実際には現皇帝を退けようと目論む、野心を抱えた者たちであることが少なくない。
「もっとも、専制派とて必ずしも悪しき者ばかりとは限らぬ。彼らなりに国を想い、変革を目指しているという可能性もある」
ヴィローの声には、責め立てる色はなかった。あくまで事実を並べているに過ぎない。
「吾輩が言いたいのはただ一つ。我らの敵が悪人とは限らず、そしてその渦中に『貴殿を巻き込んでしまっている』ということだ」
風が甲板を吹き抜ける中。エリクは釣り糸を揺らしたまま、ゆるりと空を仰いだ。
「オレやお前の命を狙う刺客が来たら、何派だろうが関係ねえ。叩き潰すだけだ。真剣勝負ってのは、打ちどころが悪けりゃ誰だって死ぬ。それ以外のことは、オレは知らん」
「まさに。吾輩が貴殿に求めておるのは、それなのだ」
ヴィローは我が意を得たりとばかりに、声を低くして笑った。
船は一昼夜の航海を経て、レオーネ島南西部に位置する隣郡の港へと辿り着いた。
朝靄の残る波止場に舷梯が下ろされ、乗組員たちは手際よく係留や補給の準備に動き出す。
エリクはその隙を縫って甲板を下り、あくびをひとつ、途中で噛み殺しながら肩を回した。
「……刺客、来ねえじゃねえか」
「友好関係にある隣郡の港へ赴くだけで刺客が現れるようでは、世も末であろうよ」
ヴィローは無造作に外衣の合わせを整えながら、淡々と答えた。
港の市街地にある酒楼は簡素ながら小綺麗な造りの二階建てで、郡の役人や水夫たちの憩いの場として賑わっている。
地元の雑穀粥と蒸し魚が並ぶ卓は活気に満ちていたが、その騒がしさはむしろ心地よく、どこか昔の家のような温もりすら感じさせた。
天井の梁から吊された風鈴が、海風に揺れて小さく鳴る。
エリクは胡坐をかき、粗削りの椀を手に粥をかき込んでいた。
ヴィローは湯気の立つ茶碗を傍らに、帳面をひらいて目を通している。
そこへ、血相を変えた水夫が転がるように店へ飛び込んできた。
「進奏官殿! 大変です! ガンユウの奴が攫われちまいました! 俺たちがシュアン郡の使節団だと確認してから、襲ってきやがったんです!」
男の額には汗がにじみ、声は切羽詰まっていた。
攫われたというガンユウは、乗組員の中でもひときわ体躯の良い無骨な男である。
「刺客、来たじゃねえか」
「世も末であるな……」
ヴィローは帳面をぱたりと閉じ、湯の冷めた茶をひと口すする。
エリクは飯椀を放り出すように置きながら、傍らの斧を手に取った。
現場は、港からそう遠くない波打ち際の倉庫裏。
海風にさらされた漆喰の壁は一部崩れており、足跡が乱れている。
その中央、粗末な木箱の上に、一通の文が置かれていた。
紙は潮風に晒されてすでに端が湿っていたが、墨はまだ濃く、筆跡は粗い。
――『貴郡の代表武侠は預かった。郡守会議への出席は諦めよ。あるいは代表武侠なしで行くがよい』
「我らの中では、どう見ても──」
ヴィローは手にした文をくしゃりと折った。
「ガンユウが最も代表武侠らしい風貌であろうからな」
「弱そうで悪かったな」
隣で斧を肩に乗せたエリクが、むすっとした顔で返す。
旅装の隙間から覗く筋肉は無骨だが、背丈は特別高くもなく、横幅も薄い。
ましてや、齢二十にも満たぬ若造である。
ヴィローはおかしさにくつくつと笑った。
昔日、ソルダン郡の市で贋金が多く出回った。
役人が騒ぐと、商人らは口を揃えて曰く。
「本物の貨幣は出来が悪い。こちらの方が正貨だろう」
遂には真貨の信用も失せ、市場に残るは贋貨のみなり。
――ウェンホウ郡政局編纂部刊
『貨通奇説集』「贋に負けた真の銭」