甲(きのえ)・発芽
ふと、モリアの視界に影が差した。
重くも軽くもない足取りで、『誰か』がすぐ傍らに腰を下ろす。
そちらを向こうとして、かすかに顔を動かした。
――何か、おかしい。
その『誰か』の白く長い髪は、微かな重みだけを残して肩を滑り落ちている。
濃い海のような色の外套を羽織り、同じ色の帽子を頭に載せていた。
その顔は相変わらず無表情で、醒めきらない夢のような光を、半ば閉じたような目の中にたたえている。
『モリー、起きているかい?』
穏やかな声が耳を撫でた。
懐かしさに心が揺れる。
彼女の声は昔と変わらず、どこか温かみを伴って胸の奥を包む。
「……ティーリス」
名を呼ばれたティーリスはわずかに瞼を伏せる。それが、笑みの代わりであるかのように。
彼女はラゼルフ孤児院にやって来た頃のモリアよりも5歳ほど上、つまり10歳くらいの少女である。
外見通りの子供だ。
何もおかしいところは無いはずだが、敢えて言うなら――
「そんな服……持ってたっけ?」
『院長がサンに贈った服なんだけどね。布が余ったのか知らないが、どういうわけかボクの分もあったんだ』
確かにラゼルフの着ていた旧帝国の軍服は大人用だし、子供のサンやティーリスでは丈が大幅に余る。
それに、あの服は黒かったはずだが、色も染め直したのだろうか。
濃い海のような青は、髪も肌も白いティーリスによく似合っていた。
――やっぱり、何かがおかしい。
ネームレスタワーの屋上で、黒雷竜の最期を見届けたのがつい先ほどの出来事。
モリアは今16歳のはずだ。
ならば、5歳上のティーリスは21歳か?
彼女が亡くなったとされているのは19歳のときだが。
いずれにせよ、目の前の10歳相当の子供ではない。
化けて出てきたにしては、幼すぎる外見ではなかろうか。
「なんというか、なんか……ちょっと縮んだ?」
『魔導護符の呪いじゃないかな』
頬に指を軽く当て、首を傾げたティーリスは、事も無げにそのようなことを言う。
「狩猟の神って、そんな権能あったっけ?」
『彼女は月の女神でもあるからね。新月から満月へ。形を変えながらも、死と再生を繰り返す。『月』は若返り、あるいは不死や不変の象徴。これを有り難がるか、呪いと取るかは、人それぞれというものだよ。キミはどう考える?』
彼女の選ぶ語彙は、どことなくモリアの選ぶそれに似ている。
いや、そうではなく。
モリアが彼女の影響を色濃く受けているのだ。
彼女はモリアの師でもあるがゆえに。
『おっと、そろそろ着く頃だね。しばしのお別れだ、モリー。でも安心するといい』
幼かった頃と変わらぬ声で、彼女は言う。
『ボクはいつでも、キミのそばに居る』
気付けば、傍らにティーリスの姿は無い。
四方迷宮の扉をくぐり、未知なる場所へとやって来たのだ。
モリアは警戒心と共に周囲を見渡した。
危険な迷宮の奥地に飛ばされたということも、充分にあり得るだろう。
その部屋は、広い神殿のような空間だった。
白亜の壁や柱には、翠の蔓草がゆるりと絡む。
高く抜けた天井は半球を成し、その中心の窓から室内に光を撒いていた。
図鑑などでよく見る意匠。
だが、記憶の中のその形とは、どれもこれもどこかが違う。
――所詮、本で見た知識だからな。
現実とは差異があって当然と、そう思い直す。
今は部屋の内装よりも、室外の気配に集中すべきだろう。
――気配は一体。二足歩行。人型としては、かなり大きいな。
部屋の入り口に現われたのは、予想通り巨大な人影だった。
過去、体格に優れた者は何人も見た。
レミー、ギルター、バリスタ。
しかし記憶の中の彼らよりも、更に一回り二回りは大きい。
有り体に言って筋肉の化け物だ。
この大きさの生物は、いわゆる『普通の人間』ではない。
人影は重々しくも、どこか丁寧な響きでモリアに語りかける。
「そなた――仙境からやって来た《漂海者》であろう?」
*
郡館の廊下を、男が一人歩いていた。
青年と呼ぶにはいささかとうが立ち、壮年と見做すにはなお若すぎる。
男は、名をヴィローという。
銀の色をたたえた長い髪は一つに束ねられ、肩から背に流れている。
着ているのは、紺碧と薄鼠の織り成す柔らかな衣。
たっぷりとした袖が垂れ、細い腰には、簡素な帯が結ばれている。
帯には長剣が一振、ひっそりと納められていた。
その眼差しは、冷えた水面のように澄み。
動きには、押し殺された獣の気配が宿っている。
「進奏官、ヴィロー。参りました」
そう告げて一礼すると、気負うことなく室内へと足を踏み入れる。
郡政官の執務室は、漆喰塗りの板壁に囲まれた無骨な空間だった。
壁際には地図と巻物が並び、中央の卓には、書簡が一通だけそっと置かれている。
「本日、皇帝陛下からの使者が到着した。内容は郡守会議への集合要請。しかも――」
郡政官は立ったまま、短く顎を引き、言った。
「――《代表武侠》を伴え、との仰せだ」
ヴィローは眉をひそめた。
代表武侠まで引き連れての郡守会議。
それはすなわち――話し合いがまとまらぬときは、血を以て決着させるという意味に他ならない。
新生ネメティス帝国の短くない歴史に於いても、その前例は数えるほどしかない。
「これは、ただ事ではありませんな」
「知っての通り郡守殿は、先日の領境紛争のため出立中だ。直ちに呼び戻すのは難しい。集合の期日は半月以内。よって、進奏官たるそなたが、郡の名代として参陣するより他にない」
ヴィローは一歩前に進み、卓上の書簡に視線を落とした。
封はすでに切られ、内容も郡政官から口頭で告げられている。
それでも、そこに記された皇帝の印に、ひととき目を留めた。
「……郡守自ら赴かれるべきでは、ありませんか」
問いかける声に、抗う色はなかった。
郡政官は微かに目を伏せ、首を振った。
「時勢を思え。今、郡境を空けることが、いかなる隙を生むか。それに――進奏官とは本来、そのための存在であろう」
ヴィローはわずかに息を吐く。
「承知しました」
短く答え、深く頭を垂れた。
室内に流れる空気は、重くも、また澄んでいる。
郡政官はわずかに息をつき、卓上の書簡を押しやった。
「代表武侠は、いかがするか」
郡政官の言葉に、ヴィローは顔を上げた。
「当然ながら、めぼしい精鋭はすべて郡守殿に随行中だ。一人くらい融通は利こうが、それを問うている時間がない。誰か、見込みのある者はおらぬか」
「一人、吾輩に心当たりがございます」
「それは今、何処におる」
「河口辺りで、釣り糸でも垂れておるでしょう」
室内に、短い沈黙が落ちた。
そして、低く押し殺したような声で、郡政官が問う。
「……そなた、まさか。あの《漂海者》を起用するつもりか」
「左様」
「馬鹿なことを! 国家への忠誠なき者に、この大事が務まるか!」
それに対して、ヴィローはわずかに口元を引いて言った。
「そも、代表武侠に国家への忠誠など必要ですかな」
「なんと申す?」
「帝国と陛下に対する忠誠は、進奏官たる吾輩に『忠』と『孝』があればよく――代表武侠に対しては、吾輩が『信』と『義』を尽くして応えればよい。違いますかな」
「むむ……」
言葉を失い、郡政官はしばし卓上を見つめていた。
郡館を出ると、ヴィローは潮の匂いを帯びた風を辿る。
ほどなく河口近くの川辺へと出た。
そこには一人の男が仰向けに寝転び、空をぼんやりと見上げている。
緩やかな衣をまとってはいたが、どこか身体に馴染まず。肩から腕へと伸びる線は、鋼のごとく無骨に張っていた。
男の傍らには、釣り竿が糸だけを水面に垂らし、石に無造作に立てかけられている。
さらに、投げ出された斧がひとつ。
形は木こりの道具に似ていたが、柄までも金属で打たれ、分厚い革の鞘で刃を包んでいた。
ヴィローが近づいても男は微動だにせず、ただ砂に身を預け、風に髪を揺らしている。
「釣れておるかね、漂海者殿。実は折り入って相談があってな」
「……断る」
「まだ何も言っていないのだが」
「聞く必要はねえ。お前の相談に乗ると、ロクなことがない」
ヴィローは苦笑した。
慣れたものだ。
「いつもそう言うが、結局は助けてくれるではないか。今まで助けられた者たちも、貴殿に感謝しておるぞ」
「テメーが行けよ、進奏官殿。腰の剣は飾りじゃねえだろ」
「これは儀礼用の鈍剣でな。飾りだ」
男はヴィローにちらりとも視線を向けず、ただ空を見たままだった。
「竿も持たずに寝転んでいるとは、暇なのであろう? 何をしておるのだ」
「空が――」
「空?」
ヴィローも空を仰いだ。
なるほど、仰向けに寝転んでいれば、自然と視界に入るのは空だけだ。
男は天を睨むように、わずか目を細めた。
「――落ちてきやしねえかってな」
「何を言うかと思えば、ギブリの憂鬱かね」
ヴィローの妙な言い回しが理解できなかったのか、男は怪訝そうな顔を向けた。
「なんだそりゃ?」
「――昔むかし、ギブリという名の魚があった。ギブリは空を見上げて、天が落ちてくるのではないかと、ひとり心配していたという」
「魚が喋んのかよ」
「喋らぬであろうよ」
ヴィローは涼しい顔で応じた。
風が、川面をわずかに波立たせる。
砂に身を預けたままの男は、もう一度ちらりと空を仰いだ。
「ところで」
ヴィローは声を低め、話を本題へと引き戻した。
「此度の件――事によっては、貴殿の望む魚釣りが出来るかもしれぬぞ?」
その言葉に、男の肩がぴくりと反応する。
砂の上に寝転んでいた体を、ようやく起こした。
「なら今回だけは、そのよく回る口車に乗ってやる、ヴィロー」
「では今回も、いつも通りよろしく頼むよ――エリク」
昔、天を仰ぎ、其の崩れ落つるを憂ふる魚あり。
魚の名をギブリと称す。
然れども、天は墜たず、唯だ彼の心のみ沈みぬ。
妄りに憂ふるを、世に「ギブリの憂鬱」といふ。
――『ネメティス夜話拾遺』巻之一「ギブリの憂鬱」より