11月(下) 第六階層・黒雷の試練
仲間たちの姿が再び見えなくなり、足元の水も消え去った。
周囲の空気が変わり、視界は黒一色に染め上げられる。
音が吸い取られたような沈黙の中に、金属の軋むような冷気が漂っている。
「ここにも通路や小部屋はなし、と」
ブッシュワーカーだけが、すぐそばに立っていた。
彼の言う通り、ここは第四、第五階層と同じく円筒状の空間のようである。
「なんでオレまで……」
壁は深い闇をたたえた黒い金属で構成されている。
中央の床には、何もない。
平らな円形の広場がぽっかりと空いており、その周囲を取り巻くように、壁際には黒鉄の螺旋階段が静かに伸びている。
見上げれば――天井はない。
円形に穿たれた開口部から、夜空が見えている。星が滲み、風がゆっくりと空気を動かす気配がする。
空の南側はまだ赤い。塔の外で見た大火の余燼が、未だ夜を染め続けていた。
「おい、あの穴って――」
「黒雷竜が出入りするための穴、だろうね」
当然だが、竜の姿など今はどこにもない。
だが、中央の広場には巨大な何かが、確かにそこに居たような気配があった。
軽く焦げたような跡、爪が抉ったような傷、かすかな獣臭さ。
迷宮機能の例に漏れず、それらの痕跡は今にも消え入ろうとしている。
「この第六階層で最後ってことさ」
わざわざ語られずとも分かる。
ここが終点、ネームレスタワーの頂。そして、終わりの場所なのだと。
会話の間にもブッシュワーカーは壁際へと進み、さっさと階段を上り始めている。
ここまで来たなら、最後まで見届けるしかない。
バリスタは腹を括り、彼の後に続いて螺旋階段の一段目を踏んだ。
「なあ。さっきお前が言ってた、オレを選んだ理由って――」
「竜を倒す願いがどうこうって話ね。あれはウソだ」
「…………は???」
「なんか間が持たなかったからさ。皆を納得させるのに、何か言わないといけないのかなって」
バリスタは愕然となり、言い返す言葉がすぐには出てこない。
「お前なあ……」
「まあ、嘘つきは僕だけじゃないけど。まったく、よく言うよなあ」
何かを思い出したのか、前を行くブッシュワーカーからは軽く笑ったような気配がした。
あの場に、彼以外にも嘘をついている者が居たというのか。
どうでもいい情報すぎる。
自分が選ばれた理由も、バリスタはどうでもよくなってきた。
天井の開口部が近くなり、階段の終端も迫る頃。
星空から射す冷たい光が差し込んでいる。そして、声がした。
『待ち侘びたぞ』
声の主は、初めから終点に居たかのように――そこに立っていた。
水面のように揺らぐ空間に、朱と翠の鮮やかな衣。
それは帝国の一部で着られていたような民族衣装、吟遊詩人が稀に用いる様式にもよく似ている。
絢爛でありながら、どこか古めかしい。それを着るのは黒髪の童女――いや、童女の姿をした何者か。切り揃えられた毛先は無造作に散らされ、意図的に乱されたような洒脱さがあった。
顔立ちは幼く、しかし表情は不敵。
軽く目を細めた笑みは、無邪気というには冷たく、威厳というには遊び心に満ちていた。
甘さと冷たさ、気まぐれと威厳。判別不能な揺らめきに、目を奪われる。
「お前は――」
『さあ、続きを見せてみよ。塔の試練に相応しい結末を』
彼女の声には、どこか楽しげな調子さえある。
「あなたが名無し? どうも、名のある古の神を再現した存在にも見えるんだけど……」
記憶を探るかのように、ブッシュワーカーが首を傾げた。
『この塔を創った迷宮生成術師は、『名前』とは物事に意味と形を与え、その可能性を封じる呪いと考えたのじゃ。事実、あのゼファーは名を与えられたことにより――滅亡そのものの概念から一歩、こちら側の常識に引き込まれた怪物となっておる。本来ならば、視認できるのかどうかも怪しいほどの存在じゃろう』
ブッシュワーカーはふむふむと頷いているが、バリスタには全く意味が分からない。
『この塔で竜に抗おうとする者に名は要らぬ。故に名無し』
「あっ……? もしかして、オレらの本名が呼ばれないのって――」
『元はそういった呪いから来ておる。今の登塔士どもは本来の理由を忘れ、惰性で続けておるだけだがな』
呼び名を変えた程度で何らかの効果があるとは思えない。
ネームレスはさておき、今の登塔団のほうは本当に何も無いのだろう。
ゼファーの言い伝えといい、昔から続く無意味そうな風習にも、歴史を辿れば成立しただけの理由があるのだ。
『そしてもう一つ、竜に抗うために始められ、それと知らずに街の者が続けたことがある』
「登塔団以外にも、んな連中がいたのかよ。それってなんなんだ?」
『街の衛兵に代々受け継がれている、《弩弓兵》の存在じゃ』
――え……?
『付いてくるがよい』
ネームレスは階段の上から、塔の外側へと姿を消す。
上がってこいと言っているのだ。恐らくそこは屋上なのだろう。
屋上といっても大部分は竜のための開口部であり、床があるのは外周部の縁だけだと思われた。
ブッシュワーカーは再び階段を上り始め、バリスタがそれに続く。
上からネームレスの声が響く。
『のうブッシュワーカー? 汝、何故バリスタを選んで連れてきた。水鏡に映った姿は汝自身であったのに、わざわざ同行者として指名までしおって』
第五階層の試練でブッシュワーカー自身も、竜に挑むのは自分だという自覚があった。
それでもバリスタを塔の頂上に連れて行くべきだと、ネームレスに交渉した。
そういうことになる。
『さしずめ、汝には最初からあれが見えてたのじゃろ?』
屋上に出る。
円環状の回廊は星の光に晒され、遥か下方には夜の大陸が広がっている。
そして、屋上の通路には点々と、見慣れた構造物が置かれている。
それは、地上の城壁に備えられたものと同じ旧時代の遺物。
あの『弩弓』と同じ形をした兵器が全部で8門――地上同様、八つの方角に向けて設置されていたのだ。
「こいつは……」
『地上から二百四十メートル。こんな場所にある兵器など戦争の役には立たん。この弩弓で狙うべき標的は、ただ一体しか存在せぬ』
「…………!」
『何か質問はあるかの』
ブッシュワーカーがすぐさま返答する。
「気になるのは、この場所自体が黒雷竜に対して無防備に見えることかな」
『この塔は周囲の空間も含めて絶縁領域でな。屋上に出ていても奴の雷は通らん。まあ、直接喰われることはあるかもしれんがの……』
「近付かれる前に、決着を付ける必要があるわけか」
先に聞かれてしまったが、バリスタにも質問はある。
歴戦の狙撃手である彼は、この武器の問題点にすぐ気付いた。
「いや、待ってくれ。ドラゴンの最大飛行高度はどのくらいなんだ?」
『千メートルを優に超える。この場所よりも遥か高空じゃな』
「だったらこんな場所に弩弓を置いても誤差じゃねえか。『塔の壁を登る』ようなもんだ……」
掴みかけた希望が、もろくも崩れ去るような失望を覚えた。
バリスタの情緒は忙しく乱高下を続けている。
『面白いことを教えてやろう、バリスタよ。――空気というものは本来電気を通さぬ。自然界の雷は空雲から地上まで落ちているように見えるだろうが、実際には数十メートル程度の短い段階を空中で踏んでいるのじゃ。地面と接続する際の雷撃距離も、せいぜい二百メートル』
――よく分からない……。
『そして、黒雷竜は小さい』
「小さい?」
『考えてもみよ。天空に広がる雄大な雲海に比べれば、あの黒トカゲなどゴミカスのようなものであろう。ブッシュワーカー、汝は分かるか?』
「黒雷竜には、雷に本来必要な段階を踏むほどの出力が無い?」
『その通り。空中では奴の雷などほんのわずかな距離しか届かぬ。地上に対しての攻撃も、高度二百メートルまでは降りる必要がある。塔の屋上より、いくらか下じゃな』
途中の話は全く意味不明だったが、最後の部分だけは分かる。
「それじゃあ……!」
『この街の民を守る目的なら、弩弓の位置などこの高さで充分。ネームレスタワーそのものが、黒雷竜と戦うための砲台じゃ』
*
バリスタは弩弓の点検を始めていた。
なにしろ二百年以上、誰も使っていない兵器である。
しかし――
「どこも問題ねえな……」
「この弩弓も迷宮の一部なんだから、壊れても復旧するよね」
どうやらそうらしかった。
むしろ地上の同型よりも状態がいい。
『ゼファーの奴が戻ってくる前に聞いておこうか。どちらが竜を倒す?』
「えっ? それはどっちかに決めるもんなのか?」
「弩弓同士の場所は離れてるし、多分この南東の1門しか使わないでしょ」
ゼファーが南東から戻ってくるなら、他の弩弓の方位角を調整して戦うのは確かに効率に欠ける。
弩弓を2門使うよりも、観測手を置いたほうがいいのかもしれない。
だが、ネームレスが聞いているのは、果たしてそういう意味なのだろうか。
弩弓を直接扱う技術だけならば、バリスタのほうが一歩勝る。しかし――
逡巡するバリスタに、ブッシュワーカーが後押しするように告げる。
「バリスタ。今こそ貸しを返してもらおうか」
「貸し――」
あれは3月のことだった。
熊に襲われた人たちを、弩弓による狙撃で助けた事件。
この出来事とブッシュワーカーの機転により、バリスタは辛くも登塔団に残留することが出来たのだ。
「お前は、全部最初から……」
「僕のことはいい。君の本音はどうなんだ」
「本音……オレは――」
あの、竜に燃やされた街並みを見たときのことだ。
――燃やされたのが、金持ちの住んでる南側地区だけで、まだ良かった……。
そのようなことは、とても口には出せぬ。
――生まれ育った北側地区じゃなくて、本当に良かった……。
そのように思わなかったなどと言えば、嘘になる。
そんなことを考えてしまう自分が許せない。
そんな己が、どうして皆を代表して戦えようか。
バリスタが、この街の出身であるからこそ芽生えた本音。
だが、それでも――
――『君が弩弓兵を目指すというなら、その技術。――この街の人たちを、守るために使ってほしい』
そうだ、この街の者だからこそ――
乗り越えなければならない。
生き残った者たちを、守らねばならない。
死んでいった者たちの、無念を晴らさねばならない。
本音よりも大事な建前は、己自身の中にあった。
――ゼファーは今ここで、オレが倒す。
バリスタの矢が届く相手であるならば、倒せぬ道理などはない。
『どうやら、覚悟は決まったようじゃの』
ネームレスが両手を胸の前にかざし、その上に。
なんらかの力が、収束する気配がする。
バリスタのような魔力に対して鈍い人間にすら、それははっきりと感じられた。
力は徐々に細い、そして黒い影を成し、この世に顕現する。
時刻は深夜。
日付はとうに変わっており、12月が始まる。
『受け取るがよい。この世で唯一、黒雷竜を封印せしめるもの。これぞ――』
ネームレスの手から宙を漂い、バリスタの両手の中に収まるそれは。
未知の金属で形成された、細長く真っ黒な棒であった。
詩人の歌に出てくるような竜殺しの武器。そんな都合の良いものは、存在した。
ただしそれは、学者が言っていたような魔剣などではなく――
バリスタは一目で理解する。
これこそがこの弩級で使われるべき、正規の『矢』なのだと。
『竜殺兵器――《震天箭》である』