第79話 アルカイド
円形の闘技場を囲む建造物と、そこに開けられた無数の窓。
そのひとつから、白い獣が姿を見せた。
そして、他の窓からも次々に新たな獣が現れる。
「先に見つかってしまいましたか。先制攻撃を逃したのは痛いな」
「そうなのか?」
「竜を封じることが出来るといっても、武器としての使い勝手は今ひとつなので」
「一度里まで、退却したほうがいいのではないか」
「そうもいきませんね。あれを見てください」
一番高い場所の窓に立つ獣の背に、巨大な白い翼が生えていた。
獣は翼をはためかせて中庭の上空に舞い上がり、天蓋の下でゆっくりと旋回を始める。
よく見れば他の数体の背にも、同じようなものが生え始めている。
「奴らが空を飛べるとなれば、里はひとたまりもないぞ!」
「虎に翼……」
グルイーザがそんな表現を使っていたと聞くが、今見ている光景がまさにそれだ。
完全なドラゴンの形となるまで、あと一歩といったところか。
「では、作戦を聞いて下さい。僕は竜殺兵器の使用中、ほぼ無防備になります」
「……? いやしかし、もう獣の群れがそこまで――」
いつなんどき、窓から跳び下りて襲いかかってくるかも分からない。
獣の数は、目視できるだけで三十体はくだらない。
「敵を倒すまでにどれだけの時間がかかるかは分かりません。その間はドニ、あなたが僕を護衛してください」
「なんだと!? それほどまでに扱いづらい武器なのか?」
「竜殺兵器そのものというより、補助の術に問題があります。少しくらいなら、攻撃を躱すことも出来なくはないですが……」
ドニは一瞬言葉を失い、しかしすぐに絞り出すような声で怒鳴る。
「戦いで死ぬことなど、今さら怖くはない。だがそれは無理だ! 儂の力で抑えられるのはせいぜい一度に一体。お前をあの群れから守り切ることなど不可能だ!」
「それで充分です」
「何故だ!」
群れを観察していたモリアは、ドニへと向き直る。
「今までアリオトはあの獣の群れに対し、先陣を切って突出してくる一体を集中攻撃して、群れ全体を無理に攻めることはしなかった。また群れの側も、総力で攻めてくることはなかった。……そうですよね?」
「その通りだ。だが、それがなんだと……」
「たった一頭でも、あのレミーを本気にさせるほどの力を白い獣は持っている。にもかかわらず、何故今までその程度で済んでいたのか。あの獣たちは群れに見えても、全て合わせて白氷竜ドゥーベなんです。いいですか、あの白い獣は――」
人差し指を立て、顔の前に持ち上げる。
「一度に一体ずつしか戦うことが出来ない」
「な……?」
「もちろん、他の個体も全く動けないわけじゃない。でも、戦えるのは同時に一体だけだ」
「ほ、本当なのか!? それは!」
「さあ? ただのホラ話かもしれません」
ドニは口を開けたまま、今度こそ言葉が出ない。
「こちらから積極的に攻めなければ、勝利できない戦いがあります。危険を承知で踏み込まなければならない瞬間は、必ずくる」
今が――
「今が、そのときです」
ドニは歯を食いしばった。
そして、モリアに向け力強く頷いた。
モリアはそれを見ると、手に握り込んだ石礫を上空に――真上へと放り投げる。
真っ直ぐ上に向けて投げられる距離など知れている。
だが石礫はそのまま上昇を続け、城の高さを越え、氷の天蓋の大穴をも抜け、星空へと吸い込まれていく。
「竜殺兵器――《揺光》」
上空に爆発するような光が発生し、石礫は無数の光へと分裂した。
夜空に浮かぶ星々のように、大穴を通した光はモリアを照らす。
獣が動き出した。
最も低い位置にいた一頭が、闘技場へと向けて跳び降りた。
ロングソードを抜いたドニが、その前へと立ちはだかる。
闘技場の中心で、モリアはアミュレットホルダーから一枚の札を引き抜いた。
モリアが考える、「この竜殺兵器をより効果的に運用する」ための、必須ともいえる『呪符魔法』――
その起動呪文を、今再び読み上げる。
「グリフォンの目――開眼」
生来に備わる強大な魔法抵抗力。
彼自身が魔法を使えない原因ともなっているその能力。
矛盾するようだが、これもまた魔力なのだ。
あの魔撃手カイエの『先祖返り』として受け継がれた膨大な魔力は、しかしカイエとは全く異なる形で開花する。
モリアの魔力を吸い上げ続けるグリフォンは、眠れる力を振るうべく天を舞う。
その視界には今、氷壁城に潜む全ての獣の気配が捉えられていた。
*
ドニが白い獣と戦うのは、これが初めてではない。
しかし仲間の援護もなくただひとりで、しかも背後のモリアを守らねばならない状況で。
久しく感じていなかったほどの重圧のもと、この強敵と戦わねばならないのだ。
――あのレミーという若造は、たったの一太刀でこの獣を斬り伏せたというのか!
そのことに対し、驚きや対抗意識など、様々な感情が浮かんでは消える。
あまりいい感情ではないという自覚はあった。
だが、あの男がいれば里の未来は安泰なのではないか。
自分の全てを受け継ぐべきなのは、あのレミーではないのか。
何も、里に縛り付けようというのではない。
彼の先祖がそうであったように――旅に出ては、また里に帰ってくる。
そんな存在が、アリオトには必要なのではないか。
そのような未来を、この目で見たい――
先に死ぬのは自分だ。
その意志は変わらない。
だが自分が死ねば、モリアも死ぬかもしれないというこの状況。
まだ死ぬわけにはいかない。
そのために今ドニが出来ることは、ひたすらに剣を振るうことのみ。
獣の一体が、ついに倒れた。
灰のように、ぼろぼろと崩れ去っていく。
僅かな緊張感の途切れ――
その心の隙を縫うように二体目の獣は――
ドニではなく、モリアの背後へと迫っていた。
「しまっ――」
ドニの心が凍り付いた瞬間。
天地を貫くような一筋の光が、獣を貫いた。
二体目の獣も、灰となって崩れ落ちる。
目を閉じたままモリアは言う。
「――あと三十四体」
――これが、竜殺兵器!
その現象について考える暇はない。
獣たちはいつの間にか窓から跳び下り、観客席のようにも見える階段部へと進んでいる。
空を旋回する個体も、その数を増やしつつあった。
三体目の獣が闘技場へ降り立つ。
竜殺兵器の攻撃速度では、とても間に合わないのではないか。
それでもドニは剣を振るい、足掻くことしか出来ない。
斬り結ぶ最中に、またも先ほどの光が見えた。
翼の生えた獣が一体、上空より墜落して観客席へと激突する。
モリアの声が響く。
「――三十三体」
この城に来てから、ずっとモリアの足を引っ張り続けてきた。
そのことに、ずっと心を乱されてきた。
背後で再び、地面への激突音。
「――三十二体」
モリアが数える間隔は、徐々に短くなっている。
眼前の獣の首を刎ね飛ばした。
これであと三十一体。
自分の誇りなど、もはやどうでもいい。
そう吹っ切れたドニは、心を奮い立たせ吠える。
「次だ! 来い!」
――絶対に、モリアを死なせはせぬ。
今こそ、その誓いを果たすとき。
流星が三度瞬き、ドニの剣が更に一体の首を刎ねる。
「二十六体、二十五体――」
流星が獣を貫く間隔はますます短くなり、遂に一秒を切る。
モリアは数えるのをやめた。
天から降り注ぐ流星。
上空より振り下ろされるグリフォンの爪は、今や完全にモリアの制御下にあった。
「こっ……これは……」
ドニは呆然として、剣を振るう腕を止める。
もはや意味が無い。
流星の暴威は止むことなく、氷の天蓋を、城の天井を、床を。
あらゆる障害を撃ち貫き、次々と獣を仕留めてゆく。
「あと一体」
背後上空より襲い掛かる獣に対し、モリアは振り向くこともない。
「――零」
最後の獣が貫かれ、氷壁城からその気配は消えた。
*
『見事だ。モリア、ドニ。向こう百年は白氷竜が目覚めることはないだろう。だが――』
「他の四方竜が本当の意味で目覚めれば、北も南も、東も西もないか」
『然り。全てはただひとつの真なる竜。この星に生きる命が、向き合わねばならぬもの』
ミザールはこの世界のことを『星』と表現した。
モリアが今立っているこの大地も、天に座す星々のひとつという意味のようだ。
いつかこの目で、その全貌を見ることは叶うだろうか。
「それじゃあドニ、行きましょう。立てますか?」
「あ、ああ……」
座り込み肩で息をしていたドニは、少しよろめきつつも立ち上がる。
瞬く星々の光は薄れ、朝の陽光が空の色を変えつつあった。
中庭から城内へ、そして再び城の外へと進む。
ドニの隣、半歩ほど後を進むモリアは、最初にくぐった城門を初めて内側から見た。
氷の天蓋は城壁の上へと被さっているが、城門の上は空洞になっている。
そこに、その人影は立っていた。
二十歳前後と思しき細身の男。
髪の色は銀髪、腰にはロングソード。
服装も見慣れたような一般的開拓者の装備。
首から提げられているのは、やはり白鉄札に違いない。
「フィム……」
ラゼルフ孤児院の長兄は、モリアに向けて頷くと――存在を揺らめかせるようにして、その姿を消した。
遥か東方より続く彼の長い冒険もまた、白氷竜と共に終焉を迎えたのだ。
「どうかしたか、モリア」
「いえ、なんでもありません」
そして、モリアたちは城門の下へと進む。
今度は転移させられることもないだろう。
色々なお宝を入手した気もするが、その中で残った物は《グリフォンの呪符》と《グルヴェイグの巻物》のみ。
竜殺兵器はもちろんのこと、魔道具やら霊薬やらは、ほぼ全て失われてしまった。
一本だけ残った《飛剣》は、お守り代わりにポーチへと放り込んである。
モリアにとっては《二竜の護符》さえ手元にあれば、それでいい。
「ドニ」
「なんだ」
「僕ひとりでは白氷竜に勝てなかった。あなたが共に来てくれて本当に良かった」
「………………!」
ドニは、何も言わなかった。
モリアはそれを気にすることもないように、城門の外へと向けて歩く。
氷壁城では試練に挑む者たちとの、多くの出会いがあった。
だが、生きてこの城門を出られたのは――
入った時と同じく、モリアとドニのふたりだけであった。
*
永久氷壁の洞窟を抜けて目にした朝の光に、ドニは目を細めた。
獣の脅威は去り、再び生きて里に帰る。
今しばらく、その未来を見守ることが出来る。
ミザールが予告した通り、ドニの望みはモリアによって叶えられた。
ドニは心中で唸っていた。
――何か、何か言わねばならぬ。
このままでいいはずはない。
だがモリアへの礼は、到底言葉で言い表せるようなものではない。
ドニの葛藤を他所に、時間は過ぎていく。
やがて、アリオトの里と樹海への分かれ道に差し掛かった。
モリアは樹海の方向へと一歩進み、そこで立ち止まる。
「里には寄っていかぬのか」
「街で待つ人たちに、急ぎ伝えたいことがあるので」
「レミーはどうする。里に残すのか?」
「彼がライシュタットに戻る気があるかは分かりませんが、せっかくの里帰りです。ゆっくりしていけばいい。あ、それと――」
何かを思い出したように、モリアは付け加えた。
「後で街から人が来るかもしれません。もし合流できたら、レミーにはそっちを手伝ってほしいかな」
「伝えておこう」
「お願いします。それじゃ」
実にあっさりと、モリアは去っていく。
その背中を見つめたまま、ドニは動くことも出来ない。
まだ、礼のひとつも言っていない。
このままでいいはずはない。
ドニは叫んだ。
「メグレズたちが、言っていたことは事実であった!」
その叫びに、モリアは振り返った。
ドニは、やっとのことで、言うべきことを絞り出す。
メグレズの術師連中は、我らアリオトを差し置いて――彼をこう評したのだ。
「モリア。お前は最高の戦士だ」
その言葉に、モリアはニッと笑顔を返す。
そして再びドニに背を向け南へと向かう。
北壁山脈から見下ろす大樹海は、朝の陽光を受け緑青色に煌めいていた。