第78話 四方迷宮の扉
帝国末期の生まれであるカイエは、数奇な運命に翻弄された少女であった。
幼き頃に父母を殺された彼女は、僅か十二にして父母の仇を討つことに成功する。
劣勢であった帝国軍に象徴として祀り上げられたカイエは、周囲の予想に反し戦果を積み重ねていく。
カイエの望みは、平和な世界で普通の幸せを掴むことであった。
それは、動乱の帝国に対する疑問へと変貌していく。
自分が戦うことで、徒に戦乱の時代を長引かせているのではないかと。
カイエにはひとつの影が付き従っていた。
万一彼女が戦死するようなことがあった場合、その姿と能力を模倣するための影。
帝国の間者を務める種族、ドッペルゲンガーである。
彼女の望みを叶えることを約束した影は、彼女自身の寿命と引き換えに『カイエの影』となった。
そしてカイエの物語は、カイエの影が引き継ぐこととなる。
カイエの影となって帝国から最初に命令された仕事は、本物のカイエの暗殺であった。
影は速やかにこれを実行し、帝国に報告する。
この暗殺は世間に知られるところとなり、カイエの死は国中に広まった。
本物のカイエは、若干十五歳で歴史の表舞台から姿を消した。
全ては影の策略である。
影はカイエに心酔していた。
本物のカイエは死んではおらず、名前を変え、辺境の地で人知れず暮らしていたのだ。
影はその後、名乗ることも己の素顔を晒すこともしなかった。
人前に出るときは、獣の骨から削り出した仮面を常に着用していた。
時は流れた。
帝国は滅び、王国の世となっていた。
盗賊ギルドの隠れ里が樹海に飲まれ、ドゥーベに見いだされ、メラクを名乗った頃。
影は世間と隔絶された樹海において、カイエの名を伏せる必要を感じなくなっていた。
幹部となってからは、周囲に舐められては動きづらかったという事情もある。
影が明らかにした、魔撃手カイエの名には絶大な効果があった。
幹部のひとり、傀儡師までもが態度を改めた。
しかし興味はない。
このような男など、殺そうと思えばいつでも殺せる。
それでも影は、他者に素顔を見せる気にはなれなかった。
戦場には似つかわしくない、幼く優しげな顔。
あのカイエが少しでも舐められることなど、影にとって許し難いことであった。
自分よりも更に幼い顔立ちである、黄金の魔女が堂々と振る舞う姿を見た。
自分の振る舞いが少し馬鹿らしくなる。
彼女の前でだけは、ときに素顔を晒して語り合った。
メラクの里が滅んだ。
里を滅ぼした者たちも、白氷竜の前に散ったと聞く。
上には上がいる。
一部の精鋭を除き、メラクは解散した。
魔剣士が皆に適当な命令を下し、後は自由に生きるようにと促したのだ。
だが傀儡の術の影響ゆえか、今までの因果の応報か。
ほとんどの者たちは、樹海に屍を晒すこととなった。
諜報の頭目など、一度部隊が全滅した後にまた命令を聞きにきて、再び手勢を率いて出撃していった。
その後二度と戻ることはなかった。
魔女が死んだ。
氷壁城の試練にて、魔女の気配はこの世から消えた。
自分の寿命も残り僅か。
最後に竜に挑むのもいいだろう。
しかし、影にとって予想だにしないことが起こる。
メラク最後の生き残りとなり、自身も散ろうかというこのときに。
奇跡と巡り会ったのだ。
二百年の歳月を越えて、英雄は再びこの世に蘇った。
その顔を見たとき。
影は真相に辿り着き、感激に打ち震える。
先祖返り――
間違いない。
この子はカイエの先祖返りだ。
全てを納得した。
鬼人も傀儡師も魔剣士も、カイエの敵であろうはずがない。
黄金の魔女であれば、きっと自分と同じ結論に至るはず。
竜のことなど、もうどうでもいい。
それはもはや、自分の役目ではない。
なにしろ五大幹部を全て退けた、新たなる希望の子がここにいる。
過去の英雄は去り、その意志は未来へと受け継がれていくのだ。
それが、影の最後の思考。
自分と同じ顔の存在を見たときが、己の死ぬときである――
自身ドッペルゲンガーであるはずの影は、伝承の如き最期を迎えた。
*
「別人だよな、やっぱ……」
カイエの亡骸を見て再確認するように、エリクは声に出して言った。
やはり、モリア本人ではない。
モリアより髪が長いし、髪を編み込むような暇もあったはずがない。
背丈は同じくらいだが、体格が違う。
男女の双子だったと言われても信じてしまいそうだが、この女はドッペルゲンガーなのだからそれはない。
――モリアのドッペルゲンガーだったとか?
いや、だとしたら英雄カイエとはなんだったというのか。
エリクは、それについて考えることはやめた。
モリアと同じ顔の女――その死に顔は安らかであり、それ以上を考えるのは野暮だと思ったのだ。
部屋から立ち去ったエリクが、その後この件に関して語ることはなかった。
カイエが最後に考えたこととは。
何故無抵抗に死んでいったのか。
もう誰も、それを知ることはない。
*
『試練は終了した。生存者は城の中庭に集まるがよい』
ミザールの声が響いた。
ふたりを探しに行く手間が省けたようだ。
最初に中庭に到着したモリアは、周辺の状況を探るべく辺りを見回した。
上階からこの庭を見下ろしたときはまだ昼間だったが、今は真夜中だ。
見上げれば氷の天蓋に開いた大穴から星空が見える。
庭の中心部はすり鉢の底のような地形で、階段状になった周囲の構造は闘技場の観客席を連想させた。
やがて、四方の出入り口のひとつからドニが、別の出入り口からはエリクが顔を見せる。
「無事であったか、モリア。カイエとやらは倒したのか」
「ええ。他の挑戦者はもう、誰も残っていないでしょう」
「…………」
エリクはモリアの顔をしばし眺めると、無言で目を逸らした。
再びミザールの声が響く。
『モリアとエリク。汝らふたりの試練達成を、ここに認める』
それを聞いて、エリクはようやく口をひらいた。
「てことは、どっちも報酬を貰えんのか。最後はモリアと殴り合いでもすんのかと思ってたけどよ」
「そんなこと考えてたの? 僕はやらないからね……」
「ところで、爺さんの分の報酬はねえのか?」
『ドニの望みを叶える者は、我に非ず』
この期に及んで、謎掛けのようなことをミザールは言う。
ドニは黙って聞いていた。
他の挑戦者をひとりも倒していない自分には、報酬を受け取る資格などない。
そのように考えているのかもしれなかった。
おもむろに――周囲の景色が歪み始めた。
闘技場が、建造物が、永久氷壁が消えていく。
エリクとドニの姿も消えた。
「これは……」
イルゼの『影の夢』にも似た空間――そうモリアは認識した。
星明かりに照らされた氷の大地に、モリアは立っている。
遠くには無数の氷山と暗い色の海が見える。そこは氷海と呼ばれる、人跡未踏の地。
そして――
目の前には、巨大な熊が蹲っている。その体毛は雪のように白い。
「ミザール……?」
『然り』
しかしこの巨大な白熊の姿も、異空間の中でそう視えているだけだ。
本当にこれが、ミザールの実体なのかは疑わしい。
どうやらミザールと戦うことはなさそうなので、その辺りの情報はどうでもいいと言えなくもないが。
気になっていたことを、試みに聞いてみる。
「ミザールには《白氷竜》ドゥーベや《神樹》フェクダみたいな呼び名はないの?」
『《氷壁城》ミザール』
「えっ……」
つまり、この迷宮守護者の正体は――
「氷壁城そのものが、迷宮守護者ミザールだったと?」
『然り』
思い返せば、城内でのミザールが及ぼす影響は余りに絶大だった。
あらゆる出来事を見聞きする能力、大量の瞬間転移、破損した箇所の高速修復などやりたい放題である。
彼は、この小さな世界における『神』なのだ。
「謎が解けなければ喰われるとか思ってたけど、最初から喰われてたのか……」
そして、そのミザールを以ってしても不可侵の存在が――『竜』。
『ドゥーベは間もなく完全に蘇るであろう。そのとき残る四方竜をも取り込み、世界の終焉そのものである『ひとつの竜』に回帰する。残された時間は少ない』
――『残された時間は少なく、やるのなら今すぐにでも実行すべきです』
イルゼの言葉を、心の中で反芻する。
『四方竜と竜殺兵器は対の存在。両者は互いに遠く離れることはない』
つまり、四方迷宮とはそういう呪いなのだ。
ドゥーベは竜殺兵器のそばにいる。
「……メラクが全滅した時点で試練が終わったのは、彼らは他者と両立し得ない報酬を望んでいたと、そういうことだよね」
『汝らは竜を倒すことを望み、メラクは竜を屈服させ、その力を我が物にせんと望んだ』
「ミザールはそんな無茶な願い、聞くつもりだったの?」
『我には――――いや、誰にも正解など分からぬ』
――やはり、不正解とも限らないのか。
メラクの望みは自身の力だったかもしれないが、竜との対話という試みは独創的だ。
ドゥーベに導かれたメラクだからこそ、思い付くことが出来たのだろう。
そしてそれは、竜に対する答えを見いだせない者たちにとっての、可能性のひとつではある。
『さて、汝の願いは竜殺兵器か。それとも――』
「時間の猶予もあまり無さそうだし、竜殺兵器かな。他の選択肢は、もう少しよく考えたほうがいいと思う」
『汝の選択を尊重しよう』
再び周囲の景色が歪んでいった。
前後左右、天地上下、全ての光景は星空となった。
『汝の望む武器を創造せよ』
「どういうこと?」
『万物を断ち切る剣を創造したところで、剣の心得が無い者には無価値である。最も理想とする武器を思い描くがよい』
星々の光が胸の前に集中するような感覚があった。
両の掌で包むようにして、その光を見る。
そこに生まれたものは――ひとつの『石礫』だった。
*
気付けば、元の中庭に立っていた。
ドニが心配そうにこちらを見ている。
エリクは――
「エリクは何処に……」
「気付いたら消えてしまっていた。お前は大丈夫なのか?」
「ミザール、エリクはどうなった?」
返事は無い。
そんな理不尽な対応があるか。
ミザール以外に、誰がエリクの行方を知っているというのだ。
――質問の仕方が悪いのか?
「エリクの……望んだ報酬はなんだ」
『エリクの望みは、四方迷宮の扉』
「四方迷宮の……扉?」
『我がしたことは扉を開けたことのみ。何処に行ったのかまでは知らぬ』
なんだそれは。
そんなものの存在は全く知らなかった。
それが如何なるものなのか、なんとなく見当は付く。
それよりも何故、エリクはそれを知っていた?
「他の四方迷宮に行くための扉、ってことでいいのかな」
『然り』
「それは……僕にも使えるのか?」
『百年後であれば』
目の前が一瞬真っ白に染まる。
エリクの目的は、モリアが思い描くそれと変わらないはずだ。
幼い頃から、同じ場所で、同じ目標をずっと目指してきた。
竜を屠り、迷宮の果てを――ラゼルフたちが成し遂げられなかったことを、この手で。
ならば何故、報酬に違いが出る?
思い当たる理由はラゼルフしかない。
ラゼルフはモリアに重要な情報を話していない。
そして、エリクにも別の重要事項を伝えていないに違いない。
エリクは……ドゥーベがまだ生きていることを知らないのだ。
思えばエリクは、「四方竜を倒す」としか言っていない。
あれはドゥーベのことではなかった。
だから他の四方竜を倒すため、さっさと次の迷宮に行ってしまった。
その行き先は四方迷宮の中で、最も到達が難しい場所。
残る二箇所は場所が分かっているのだから、そこしか考えられない。
そこへ行くための現在恐らく唯一の手段を今、エリクはひとりで勝手に消費してしまった。
モリアを置き去りにして。
「エ、エリク……あの考えなしめ。ラゼルフのジジイも……肝心なことを言い忘れて――」
悪態が口をつく。
モリアは『四方迷宮の扉』を知らなかったし、エリクは『竜殺兵器でなければ四方竜は倒せない』ことを聞かされていない。
半ば迷宮守護者であるエリクには、竜殺兵器が使えないかもしれない。
だから話さなかったという可能性もあるが、それがこの結果だ。
あとエリクは、やっぱり腕力で解決する気だった。馬鹿である。
「モリア、どうした。いったい何があった。それにエリクは?」
様子を見かねたドニが声を掛けてきた。
今は片付けるべき問題がある。やや不本意だが、エリクはまた追いかければいい。
エリクと合流したときに、情報をしっかり共有しなかったせいでもあるのだが――
モリアは、自分のことは棚に上げる性格であった。
「エリクなら大丈夫です。僕たちの本来の目的を果たしましょう」
「それは……」
「アリオトを襲う白い獣と、今この場で決着を付けます」
そうだ。
モリアとドニは、そのために氷壁城へ来たのだ。
「ミザールから受け取った報酬は竜殺兵器。迷宮支配者である《白氷竜》ドゥーベを封じるための武器」
「白氷竜だと? そんなものの話が何故ここで出てくる」
「上を見て下さい。あの氷の天蓋に開けられた大穴は、白氷竜がこの城に出入りするためのものです」
モリアの言葉にドニは目を剥いた。
飛び立つ白竜を里の者が目撃したのも氷壁城の方角だった。
南へ飛んで行く姿が確認された後、その竜を見た者はいない。
「かの竜は、生贄として殺戮するためだけに、迷宮の外からセトラーズを呼び寄せる存在」
「…………!?」
「そして今、その竜に最も深く関わっているセトラーズは――アリオトだ」
「モリアよ……いったいなんの話をしているのだ」
「白氷竜ドゥーベには、元々あるべき形が無い。分割された存在故に、数という概念すら無い。つまり――」
ラゼルフ小隊との戦いで、牙折られ翼もがれし竜――
彼は生贄を喰らってその力を取り戻そうと試みる。
彼らにとって、実際に食べる行為は必要ない。
迷宮の外から訪れた新たな生命が散る度に、それは回復するのだ。
「――あの白い獣の群れこそが、今のドゥーベです」
「い、いや待て。ならば何故、ミザールとドゥーベは同じ場所に居る?」
「竜殺兵器は竜のそばになければ意味がない。これはそういう呪いなんです」
セトラーズは竜に喰われるためだけの存在。
だが――
その竜を殺し得る者もまた、セトラーズである。