第62話 百折不撓
その男は、薄暗い部屋で目を覚ました。
これで何回目だったか。
ゆっくりと上体を起こす。手のひらの指を閉じたり開けたりして調子を確かめる。
装備はボロボロだが、身体の調子は悪くなかった。いつものことだ。
近くには男の所持品である手斧が転がっている。
樹海の樹々を伐採するため、そして武器として兼用するための安物の斧だ。
ボサボサの茶色い髪を無造作に掻いた後、斧に手を伸ばす。
男は立ち上がった。
歳の頃は十代後半。
それなりにしっかりとした体躯ではあるが、開拓者としてはやや頼りないほうか。
身に纏う草色の開拓服は、ライシュタットの量産品。
首からは銀色のプレートが提げられていた。
それは自由開拓者の証――《白鉄札》と呼ばれる認識票。
すう、と息を吸い込んでから男は叫ぶ。
「ミザール!! 出てきやがれ! 今度こそブッ殺してやる!!!」
いったい今はいつなのか。
この『氷壁城』を訪れてからというもの、時間の感覚が無い。挑戦回数は十を超えた辺りからよく分からなくなっていた。
薄闇の奥より返答の声が響く。
性別の判然としない声で、ミザールと呼ばれたそれは言葉を紡ぐ。
『起きたのか、エリク。何度も言うようだが、我に会いたくば力を示すことだ』
男の名はエリク。
今からおよそ二ヶ月前、北方大樹海で行方不明となったラゼルフ小隊――
その、最後の生き残りと目される人物である。
*
「オラァッ!」
何度目かも分からぬ挑戦。
鎧を身に纏った、中身が人かどうかも不明な魔物は、エリクの猛攻の前に遂に崩れ落ちる。
迷宮石の光に薄っすらと照らされた広間。石壁に囲まれたその空間は、昼も夜も変化なく、地上か地下かも分からなかった。
虚空より声が響く。
『ようやく第一歩か。先が思いやられるな……だが――』
「ああ? これで第一歩だと? ふざけてんのか!?」
何か言いかけたミザールを制し、文句を垂れる。
『汝の後から来た挑戦者たちは、続々と次の段階に進んでいる。普通に考えれば、汝に見るべきところは無い』
「そうかよ」
会話すらも面倒だとばかり、エリクは広間の奥にある扉へと向かう。
力任せに蹴破ると、見えたのはやはり石壁に囲まれた通路、そしてその先にある上階への階段だった。
階段を上ると新たな部屋へ出る。室内の中央には人工の泉が設置され、水が湧き出ていた。
しかしエリクの目を奪ったのは、泉の縁石に腰掛けるひとりの人物。
反射的に腰の手斧を抜く。
――新手の魔物か!? いや……この場所は。
若干、肌がひりついた。
魔物の力を由来とする、自分にとっても禁忌の場所。
「おっと、私は魔物でも迷宮守護者でもないよ。その物騒なものを下ろしてくれないか」
その人物は、腰まで伸びた長い金髪を持つ女だった。
迷宮の奥地に似つかわしくない美貌は、人心を惑わす良からぬ魔物を連想させる。
黒と橙色を基調とした服は、北方辺境では見かけないような奇抜な意匠をしており、どこか吟遊詩人の衣装のようでもあった。
「確かにここは、迷宮の安全地帯のようだ。だからといって、お前が敵じゃないという保証もないけどな」
「私は君と同じく、この氷壁城の試練への挑戦者さ」
口元に微笑をたたえ、女は語りかけてくる。
エリクは下ろした斧を腰に納めることはせず、ゆっくりと前へ進んだ。
睨むように女を見据え、疑問を口にする。
「挑戦者……城の外から来たのか。ならお前は、何処の何モンだ」
「私は神代の昔より知識を受け継ぎ、未来へと伝えし者。創世の蛇の眷属にして、十代目《黄金の魔女》。私の名は――グルヴェイグ」
「は?」
何やら大げさな名乗りに、一瞬呆気に取られる。
そして何処の何者であるのか、まるで説明になっていなかった。
創世神の眷属とか抜かしたような気がするが、神殿の人間に聞かれたら火炙りにされても文句は言えまい。
――黄金……黄金か。
何かが心に引っ掛かる。
彼女の変わった響きの名前についてだろうか?
孤児院の院長であるラゼルフや、長兄のフィムによる座学の思い出が脳裏をよぎった。
しかし、エリクは覚えることが苦手だ。
そういうのはセルピナやアルゴのような魔術師組……あるいはあの賢しらな末弟、モリアの領分だろう。
残念ながら、エリクの頭脳では記憶の正体に思い至ることはない。
彼女の名前の一部――gullとは、『黄金』を意味する古代語だということに。
「……オレはエリクだ」
色々考えた末、考えるのが苦手なエリクは普通に名乗りを返した。
「エリク、ここはひとつ休戦といかないか」
「敵でないのなら、元から争うつもりは無え」
「私もそのつもりだが、試練の主催者がどう考えているかは分からないからな」
どういう意味かと、エリクの思考は再び停止した。
会話が止まったことから、彼の疑問を察したグルヴェイグが話を続ける。
「試練を達成しても、全ての挑戦者の望みが叶えられるとは限らない。ならば、挑戦者同士が争わねばならない可能性もあるということさ」
「ああ? 力を示せってそういう意味かよ?」
虚空に向けて問うも、氷壁城を統べると思しき迷宮守護者からの返答はない。
ミザールは都合の悪い質問には沈黙で返す。幾度となくやり取りを交わしたエリクは、その性質をようやく学習しつつあった。
――否定しねえってことは、試練の『報酬』には限りがあるのかもな。
相手が誰であろうと、それを譲るつもりはエリクには無い。
眼前の女が、敵だろうが味方だろうが同じことだ。
「お前の言いたいことは分かった。その時が来るまで、互いに争わないってことでいいな?」
そう言って斧を腰のホルダーに納めた。
それを見たグルヴェイグは満足そうに頷き、エリクに告げる。
「決着が付くその時は、まだ先だろう。星が揃っていないからな」
「星?」
「星占いだよ。天枢、天璇、天璣、天権、玉衡、開陽――」
「占いかよ」
エリクは星の位置を覚えるのが苦手で、故に星占いにも興味が無かった。
「実際に天に見える星ではなく、神々の世界の星だ。北天に輝く七つ星、その名をセプテントリオンという」
「そりゃあ……」
北の四方迷宮の名、つまりは今居る大樹海のことだ。
北方を司る風神の名でもあるのだが、例によってエリクの頭からその事実は抜けている。
「最後の星――七つ目の輝きは、未だ視えないけど」
「見えたらなんか起きんのかよ」
「星占いは所詮星占いさ。それ自体には何も無い」
エリクは泉を挟んでグルヴェイグの向かい側に進んだ。その場で屈むと、手で掬って水を飲む。喉を潤す久方振りの感触に生を実感した。
黄金の魔女は、その光景を微笑みながら見守っている。
「君が善良な人で助かったよ。他の挑戦者と仲良くするのは、正直かなり難しい」
「他のヤツらを知ってるのか?」
「ああ。彼らは樹海迷宮で最も凶悪なセトラーズ。遭遇すれば戦いは避けられまい。挑戦者の望みとか、そういうのとは関係なく、ね」
この女が信用できるかどうかはともかく、樹海迷宮の凶悪な集団には覚えがある。
避けられない戦いというものは、確かにあるのだ。
「そいつらと争いになったとして、勝てると思うか?」
「楽な相手ではない。この階層に居る者は少なくとも、最初の試練を突破しているのだから」
「最初の試練か……。オレも何度も失敗して、やっとここに来れたくらいだしな」
それを聞いたグルヴェイグは、不思議なものに相対するような目でエリクを見つめた。
「何度も……? 君は何を言っているんだ?」
「何って――」
ガシャン――
部屋の外から鳴り響く音に、ふたりは即座に反応した。
エリクは斧の柄を掴み、グルヴェイグは縁石から立ち上がる。
室内にはエリクが通ってきた扉以外にも、いくつかの出入り口があった。
そのうちのひとつから、何者かが歩いてくる音がする。
金属の擦過音。恐らくは鎧を装備した者。魔物であるならば、降魔石で覆われた安全地帯に近付いてくることは通常ない。
――凶悪な挑戦者とやらか。
やがて出入り口のひとつから現れたのは――
グレートアックスを携え鋼の腕甲と脚甲を装備した、筋骨隆々の大男である。
肌の色はやや赤みが強く、男の迫力を一層際立たせていた。
「おやおや。噂をすればだね」
「貴様らは……」
大男は、グルヴェイグを見て少し驚いたような反応をする。
だが次の瞬間、その視線は横のエリクに釘付けとなり、怒りの形相と共に肌の赤みが増していった。
「小僧……あの時の!」
「はた迷惑な連中ってのは、やっぱりテメェらかよ」
「おや、ふたりは知り合いなのかい?」
「こいつのことは何も知らねー。デカくて目立つから覚えてただけだ」
「なら教えてあげよう。彼の名は《鬼人》ディズノール。吟遊詩人の物語なんかで聞いたことはないかい? 鬼の血を引くと噂され、帝国末期の戦場で数多の敵兵を屠ったという――」
「嘘つけ。そんな昔話の英雄が今も生きてるわけねえだろ」
「正確にはディズノールのドッペルゲンガーだよ。ここに居る彼は模倣する影の一族――すなわちメラクの幹部ってわけさ」
「……?」
エリクは意味が分からずに黙り込んだ。
自身の正体を説明された大男、ディズノールは低い声で宣告する。
「女。貴様には後で聞きたいことがある。小僧は今ここで死ね」
「上等」
そう答えると一歩踏み出し手斧を構える。
対するディズノールも大斧を構え、一触即発の殺気が室内に満ちた。
「シェイドからは、全員死んだと聞かされていたがな。他の奴はどうした?」
「…………」
「貴様ら七人の中で、強者と呼べるのは五人だけ。ジジイと貴様は雑魚だ。雑魚だけが生き残るとは皮肉だな」
「……抜かせ。オレの持ち味は兄弟たちとは違げえんだよ」
戦士フィム、植物魔術師セルピナ、呪符魔術師アルゴ、魔剣士サン、魔撃手ティーリス。
今は亡き五人が紛れもない強者であったことは、エリクも認めている。
老ラゼルフとエリク自身は、その域には遠く及ばないということも。
様子を眺めるグルヴェイグは、鬼人の大男へと語り掛ける。
「へぇ~。でもって君たちは彼とは逆に、下っ端の雑魚を犠牲に最初の試練を突破したわけだ。ここに来るまでに、メラクの死体をいくつも見たよ。立派な幹部もいたものだね」
痛烈な皮肉に、ディズノールの殺気が僅かに彼女へと逸れた。
それを聞いたエリクは意外そうにつぶやく。
「あ? そんな大勢で戦って突破するとかアリだったのか?」
「もちろんさ。こんな胡散臭い城に大勢で突入する度胸があるのなら、それも立派なひとつの手だ。でも、そんなやり方では――」
不敵な笑みをたたえ、黄金の魔女は予言するように告げる。
「――最終的に、死体の山を築くことになりそうな気もするけどね」
ディズノールはそんな意見に興味は無いとばかりに鼻を鳴らすと、再びエリクに向き直った。
グルヴェイグが忠告を飛ばす。
「エリク、彼と戦うのはお勧めしないよ。私と一緒に逃げよう」
「お前が言ったんじゃねえか。挑戦者の中で、勝ち残った者だけが報酬を得られると」
だから、逃げても解決しないのだ。
ミザールの言う『力を示せ』という条件は、彼らとの決着を付けろということだ。
エリクは直感でそう解釈する。
互いに駆け出し、手斧と大斧が交差した。
体格差は歴然。僅か数合の打ち合いで、エリクの劣勢は誰の目にも明らかになる。
エリクは逃げるべきだった。
グルヴェイグと協力し、有利な条件でこの強敵と戦うべきだった。
今この場には居ない末弟であれば、きっとそうしただろう。
ここで無謀にも突撃するのが、エリクの言う持ち味といえばそうなのだが。
躱し切れない攻撃を頭上に感じ、己の敗北を悟る。
自身の頭蓋が砕ける音と共に――――エリクの視界は暗転した。