第57話 蛇竜の王
レミーとザジが、ワームを倒し戻ってくる。
モリアたちもそれを出迎えるように丘から下りて、里のほうへと向かう。
メグレズの里――すなわちその砦では、住人たちが外を窺っている様子が見えた。
地上では二体のワームしか見えていないので、数が合わないと不安に思っているのかもしれない。
早く知らせてやろう。
もっともモリアがそう思うまでもなく、ロカが急いで知らせにゆくだろう。
「里の者の命は救われた。おぬしらは最高の戦士じゃ。吟遊詩人の詠う伝説に、末永く語り継がれるじゃろうて。ありがとうよ」
六人が集まり、ロカが皆に礼を言う。
モリアとザジにしてみれば、自分たちの拠点を守るためにしたことだ。
少し面映ゆい。
だが今だけは、この小さな友人の賛辞を素直に受け取ろう。
詩人の歌に残されるのは御免被るが。
「…………待て」
グルイーザが低い声で言った。
ロカたちは、「ん?」といった感じの不思議そうな反応を示す。
だが――
モリアとレミーは違った。
ふたりはグルイーザの発言が本気か冗談か、ある程度判別できるようになっていた。
今の声色から、かつてないような不穏な気配を感じ取る。
警戒心が最大まで跳ね上がった。
他の四人を守るような配置に、そして武器をいつでも抜ける体勢へと瞬時に移行する。
レミーはそのままロングソードを抜いた。
「えっ?」
「どうしたのじゃ?」
ミーリットとロカが疑問の声を上げる。
ザジにも何が起きたのか分からなかった。
しかし、モリアとレミーの反応からすれば只事ではないのは明らか。自らもすぐに弓を構える。
グルイーザは眉間に皺を寄せながら樹海の北側を睨み付けている。
そして、モリアもその気配に気が付いた。
「もう一匹……居る? グルイーザ」
「何故だ。何故今まで気付けなかった。隠蔽? 違う。眠って……いやがったのか?」
グルイーザはぶつぶつと自問自答している。
気配は徐々に大きくなっている。
ザジがその魔力を感知した。
「大きい……。話に聞く成体のワームとやらか?」
「こいつは、そんな生易しいもんじゃねえ」
地の底から唸るような地鳴りが聞こえてくる。
そして、轟音と共に大地が揺れた。
ワーム出現の前兆。それとは比べ物にならない規模だ。
樹海の樹々が、メグレズの山砦さえもが、揺れていることをはっきりと視認できる。
そして――
そしてその元凶は姿を現す。
樹海の奥。大地の底からゆっくりと。
いや、遠目にはゆっくりに見えるだけかもしれない。
樹々が盛り上がり、土砂や岩塊が上空へと跳ね上げられている。
樹木を巻き上げながら、巨大な何かはその高さを増していった。
ワームだ。
多分間違いない。
途轍もなく巨大なワームが出現したのだ。
その身体に絡み付くようにしていた樹木が地面へと落下する。
土砂が落ちて舞い上がる砂埃よりも高く、それは昇っていく。
徐々に、その表面が見えてくる。
正面には頑強そうな鱗しか見えないが、側面には巨大な棘が幾つも生えている。
樹海の樹々は、その棘に絡め取られるように上空に持ち上げられていたのだ。
その先端、頭部と思しき場所を見て気付いたことがある。
――あれは、顎の裏側か?
恐らくこのワームは今、モリアたちの方向に下側を向けている。
下側は接地面であるからして、棘が生えていないのだ。
先端部は徐々にこちらの方へと倒れ込んでくる。
モリアたちを――いや、厳密には里のほうを向こうとしている。
貌だ。
そのワームには貌があった。
顎門が、鼻が、眼球が。
接地面を除く上半分を無数の棘で覆われた、それはまさしく――
まさしく、『竜』の貌がそこにあったのだ。
「蛇竜の王……」
グルイーザが絞り出すように言った。
「蛇竜の王じゃと!?」
「ワームの最終進化形、迷宮守護者リントヴルム……。おい、里の住人を避難させろ。今すぐだ!」
あの『蛇竜の王』とかいう迷宮守護者は、明らかに里のほうを向いている。
だが、里というよりは人の集まりに反応しているのではないか?
だとすれば、避難に果たして意味はあるのか。
それでも、猶予など許されない。
ロカも、他の者も、里に危機を伝えるべく動こうとした。
動こうと、したのだ。
オオォォォ――と、咆哮が響く。
ワームと同じ唸り声、しかし相手はまだ遠く離れているというのに、ここまではっきりと聞こえる。
どさりと音がして、走り出そうとしていたロカがその場で倒れた。
あのザジが、よろめいて膝を突いた。
レミーが、ロングソードを地面に突き立てて身体を支えた。
グルイーザでさえも、苦悶の表情で耳を塞ぐ。
「ど、どうしたんですか皆さん!」
何故か無事なミーリットは異常事態に目を見張っている。
彼女は神聖魔法による、恒常的な加護を受けているのかもしれない。
体格に比して異様な腕力を持つのも、その効果なのだろう。
耳を塞ぐことに意味がないと悟ったグルイーザは、両手を離し叫ぶ。
「これは……麻痺咆哮! なんてえ威力だ!」
あの咆哮は、聞いた者を無力化させる効果を持っていたのか。
モリアはミーリットに向けて言う。
「ミーリット、なんらかの加護で皆をあの声から守れないかな。ロカは担いでいくしかなさそうだけど、すぐここから逃げてほしい」
「そ……それじゃあメグレズの里は……」
身体の小さいメグレズは、咆哮に耐えられなかったのだ。
砦の中はもしかしたらまだマシかもしれないが、まともに動ける者がいるかは分からない。
仮に動けても、外に逃げれば確実に気を失うだろう。
「そっちは、僕がなんとかする」
苦しそうな表情のグルイーザが、モリアを咎めるように言う。
「馬鹿なことを言うな……。煉獄じゃヤツの核には届かない。お前も逃げるんだよ……」
倒れているロカを見た。
メグレズの里には結局まだ訪れていない。
思い入れなど何もない。
メグレズの技術があれば、ライシュタットの助けになる。
そう思ったから協力したまでだ。
身命を賭して遂行するようなことではない。
でも――
この小さな友人が。
見ず知らずの里の住人である、モリアに救いの手を差し伸べたのだ。
未知なる樹海迷宮でも生きていけるという、希望の道をライシュタットに示したのだ。
思えば最初に出会ったセトラーズが彼であったことは、なんという幸運か。
この友人が悲しむところは――見たくない。
「試すだけ試してみるよ。逃げるのはそれからで」
グルイーザはモリアを睨み、目を閉じて、再び目を開けると言う。
「お前、本当に勝手だよな。タコ坊主の言う通りだわ」
タコというのは南方海に棲むという、悪魔のような姿の魚のことだろうか。
もちろん図鑑でしか見たことはない。
八本足の知人に心当たりはなかったが、丸い頭という共通点から、ギルターのことを指しているのだと思い当たった。
「リントヴルムの核は頭部の棘に守られているから、それをなんとかする必要がある。それから、いくらお前でもあの咆哮を間近で受けるのは無理だ。前のワームみたいに、口腔内を攻撃しようなんて考えるんじゃねえぞ」
「参考にするよ。ありがとう、グルイーザ」
言われずとも正面から攻撃するのは懲りたので、試すつもりはなかった。
頭部は棘も含めると外殻が分厚く、煉獄の射程距離では核まで届かないということだろう。
対策は思い付かないが、傾向は分かった。
「ミーリット、あとお願い!」
「必ず帰ってきてください! モリア!」
皆に背を向けて駆け出した。
蛇竜の王はゆっくりと前傾姿勢へ移行している。
もし他のワームと同じように走り出したら、攻撃の切っ掛けも掴めない。
何より、あの巨体で動けばあっという間に里に到達してしまう。
迷宮守護者リントヴルムとやらが、どれほどの格かは知らないが。
高位の迷宮守護者であれば、降魔の障壁も意味を成さないという。
急がなければならない。
メグレズの里周辺特有の荒野を駆け抜け、樹海へと突入する。
そのとき、腰に括り付けた荷物から微かな魔力を感じた。
――なんだ?
立ち止まっている暇はなく、走りながら自分の身体を見下ろす。
魔力はどうやら、魔除けの札を仕舞うためのベルトホルダーから漏れているようだ。
あの神樹フェクダの枝に無造作に置かれていた、アルゴの装備品である。
不審に思い、ホルダーを開けて一枚のアミュレットを取り出す。
手に取った札は、光を放ちながらぼろぼろと崩れ去った。
光の粒子は再びホルダーに戻り、他の札に魔力を宿したようだ。
その札も手に取ってみたが、同じように崩れ落ちる。
「なんなんだ? こんなときに」
今はこんなものに構っている場合じゃないが、はっきりいえばこの装備品はかなり怪しい。
アルゴへの手掛かりだと思って一応は所持していたが。
今から危険な戦いに挑むというのに、僅かな不安要素も残したくはなかった。
モリアはその場で急停止する。
ホルダーの中の札を、まとめて掴み出す。
それらの札は次々に崩れ落ち、光の粒子はまたホルダーの中へと戻っていく。
何度か繰り返すと、最後に二枚の札が残った。
片や、アルゴが作成したらしい魔導護符――『二竜の護符』。
この札からは相変わらずなんの反応もない。
問題はもう一枚。
先程から漏れ出ている光の粒子は、最終的に全てその札が吸い込んでいる。
その札は、『風刃の呪符』と呼ばれるアミュレットだ。
光の粒子の正体は、呪符に込められていたはずの魔力である。
ぼろぼろに擦り切れ力を使い果たしたと思われていた呪符は、最後に残されていた『札そのものを形成している魔力』を分解し、一箇所へと集めたのだ。
懐かしい魔力が風刃の呪符を満たしている。
モリアは確信した。
――アルゴは、生きている。
この戦場の何処かで。
いや、ひょっとしたらそれよりも前から。
モリアのことを見守っている。
何故姿を現さないのか。
今はそんなことはどうでもいい。
モリアは再び走る。
地響きと共に、蛇竜の王はその胴体を完全に樹海へと沈めつつあった。
下に生えていた樹々は、次々に薙ぎ倒されていく。
モリアは側面から近付いていった。
標的は今にも走り出しそうである。
倒された樹木に跳び乗り、その上を駆ける。
そして、蛇竜の体表から生える巨大な棘へと跳び移った。
――セルピナの樹木兵相手に何度も繰り返した動きが、こんなところで役立つとは。
そのまま胴体へと駆け上がった直後、蛇竜は走り出した。
振り落とされぬよう、背中の上に垂直に生えた棘に掴まる。
棘の長さはおよそ三メートル。
胴体の直径は十メートルを超える。その上更に棘が生えているのだ。
確かに煉獄の呪石で攻撃しても、これでは表面を削るだけで終わってしまう。
鱗や棘に掴まりながら、頭部を目指した。
頭部の首周りは更に太い。
もはや棘というより角の付いた兜であった。
その奥で、魔力核は守られている。
魔力核の直上に辿り着いた。
風刃の呪符を取り出すと、角の表面に置く。
呪符は僅かな光を発し、その場に貼り付くように留まった。
モリアはすぐに十メートルほど後退する。
――ぎりぎり巻き込まれない位置……この辺りか?
背嚢から鉤付きロープを取り出し、背中の棘と自分の身体をつなげて固定する。
標的は走り続けるだけだ。
この巨大な迷宮守護者にとって、モリアなど身体にたかる虫のようなもの。
蛇竜の王にとってモリアは敵ではない。
相手にされていない。
存在を気付かれてすら、いないのだ。
――それが、お前の敗因だ。
風刃の呪符は、術者の攻撃魔法を込めた通常の呪符とは違う。
神代の昔、世界に拡散したと言われる神の力を集めて行使するアミュレット。
原理としてはミーリットの使う神聖魔法に近い。
当然モリアでは、神の力を感じ取ることなど出来ない。
呪符があってこそだ。
これを起動するには古代語の理解が必須だが、呪文自体は単なる合言葉にすぎない。
グルイーザの呪石と同じだ。
札に刻まれた言葉を王国語で読み上げれば、それでいい。
そして、モリアはその名を叫ぶ。
「――四方を司る北の風、セプテントリオンよ」
世界に溶け込む普遍なる神の力。
北壁山脈の上空には、強大な風の神力が渦巻くのだという。
北の迷宮に冠される『セプテントリオン』の名は、風神の呼び名でもあるのだ。
「――我が敵を、切り裂け」
呪文の完成と共に、風刃の護符は砕け散った。
蛇竜の王が現れたときとは真逆の方向、遥か天空の彼方より轟音が響く。
音は凄まじい速度で、呪符があった位置を目掛け落ちてくる。
北天より舞い降りる風神の剣、不可視の風刃が蛇竜の首に叩き付けられた。
強烈な突風が標的の首を中心に吹き荒れる。
モリアは蛇竜の頭部後方――背中の棘を盾にして、棘と自分の身体をつなげたロープにしがみつく。
激しい破砕音と共に、蛇竜の角が折れて宙へと舞い上がった。
暴風は止みつつある。
標的の頭部を覆う兜は粉砕され、内部の肉が完全に露出していた。
魔力核はその表面から三メートル程度。
悲鳴のような咆哮と共に、蛇竜の体は大きく震える。
揺れる足場の上で、モリアは棘の前方へと躍り出た。
蛇竜の背中と棘、二点を足場とした上に片手でロープを引く。
三点で下半身を完全に固定させ、上体を捻る。
もう片方の手に握られるのは、グルイーザより受け取ったあの呪石だ。
――たとえ自分たちを滅ぼすことが、迷宮の意思だったとしても。
所詮、迷宮など人の造ったもの。
迷宮に生かされるのではなく、迷宮と共に生きる道を模索すればいい。
セトラーズの力でも、迷宮守護者を打ち破れることを示せばいい。
標的を貫かんばかりに、呪石を投擲した。
石はむき出しの肉を破り、その奥深くへと突き刺さる。
ここでようやく蛇竜の王は、己の頭上に居る敵の存在を認識した。
死角のため眼球で姿を捉えることは叶わぬが、その気配を察知することは出来る。
モリアに向けて、明確にして猛烈な殺意を向けてきた。
しかし。
――今頃本気になっても、もう遅い。
「――浄罪の獄炎」
蛇竜の頭部に埋まった呪石はその力を発動する。
展開される直径五メートルの結界は、魔力核を完全に捉えていた。
この世のあらゆる敵を撃滅せしめる獄炎が、閉じた世界の全てを焼き尽くす。
風刃に折られて舞い上がっていた巨大な角が、樹海へと落下する。
それが地面に突き刺さると同時に、蛇竜の王は息絶えた。