第50話 戦いの予感
樹海迷宮の最北部に、突如として現れた草原地帯。
迷宮の力を失い、外の世界と同じ環境を持つ場所である。
その草原から南の方角に向けて、樹海の中を駆けるひとつの人影があった。
身長は一メートル程度、メグレズ――あるいはブラウニーと呼ばれる種族に酷似した外見をしている生物だ。
樹海に溶け込むような濃い色の装束を纏っており、金髪で、やや目つきは悪い。
「冗談じゃない……だからあんな戦力で先行するのは嫌だったんでさ」
その男は、旧帝国であればレプラコーンと呼ばれる種族のようであった。
男はメラクの一員である。名をシェイドという。
モリアとメラクが遭遇した草原で、戦闘には参加せずに隠れ続けていた者こそ、このシェイドだった。
北方草原を最初に発見したのはシェイドだ。
それどころか彼は、あの草原が出現する原因すら目の当たりにしている。
メラクの上位者たちは三十名ほどの手勢を付けて、草原を調査、確保するよう彼に命じた。
確かにあの草原には魔物が近付かない。今のメラクには必要だろう。
だが、あの草原が出現した経緯は危険すぎた。何が起こるか予想も付かない。
だからこそメラクの幹部はシェイドを先行させ、本隊は南で待機しているのだ。
――本当に、冗談じゃねえ。
捨て駒にされるのはメラクの性質上仕方がない。
それ自体は良いとは言わないものの、まだ許容範囲だ。
自分とて、つい先程三十名の部下を捨て駒にしたばかり。
いや、それは少し語弊がある。
シェイドであれば、正体不明の王国人といきなり戦闘しようなどとは思わない。
彼は、戦闘の原因となったやり取りの一部始終をその目で見ていた。
――あの小僧は、最初は戦うつもりなどなかったというのに。それを……。
シェイドが嘆いているのは、同胞の余りの愚かさに対してである。
奴らは自分勝手な判断で、勝手に死んでいった。
本当は直前に止めるつもりだった。そこにあの警笛が鳴ったのだ。
アリオトの小娘と何があったのかは見ていないが、どうせ似たような理由だろう。
メラクとアリオトは天敵同士。
とはいえ、下っ端が敵うような相手ではない。若い娘だったから油断したのか。
まともな判断を下せるのは自分しかいなかったのだ。
違う場所で偶然同時に起きた不幸を、止めることなど出来なかった。
ふた月ほど前のことであったか。
樹海中央部を支配する、質、量ともに最強のセトラーズであったメラクは――
南からやって来た、たった七人の王国人に絶滅寸前まで追い込まれた。
樹人のような魔物を操る魔術師ひとりにさえ、数の暴力で圧倒された。
樹海の樹木が次々に動き出し、自慢の要塞は完膚なきまでに破壊し尽くされたのだ。
アリオトをも上回る武力を個で有する幹部たちも、赤毛の剣士に次々と返り討ちにされていく。
拠点を失い逃げた兵たちは、今まで虐げてきた魔物たちにすら殺され、更にその数を減らしていった。
あのときメラクは、見た目や人数で相手を侮ってはならないということを、文字通り死ぬほど痛感させられた。
あれに比べれば遥かに小さい規模とはいえ、またも同じことを繰り返してしまったのだ。
学習能力が無いのかもしれない。
旧帝国の末期から時間が止まっている。メラクとは、そういう集団なのだ。
今まで数多の種族を蹂躙してきた因果応報。いよいよ自分たちの番が来たのだろうか。
「最後くらい……自由に生きてえな」
メラクという集団の中にあって、シェイドは異端であった。
それが幸であったのか不幸であったのかは、誰にも分からない。
*
「モリア様は……ひとりで迷宮探索に行ったのですか?」
テオドラ王女は、驚きと呆れの混ざった表情でそう聞いてきた。
はて、自分は何か間違えたのだろうかと、ミーリットは考える。
ライシュタットの街――地下迷宮に通じる屋敷の一室。
モリアを見送った後、主君のテオドラに報告しに来たところである。
「姫からすれば、ひとりで迷宮に潜るのは驚くべきことなのかもしれませんが……」
「実際はそうではないと?」
「……やっぱり驚きますよね普通は」
モリアを最後に見送ったのはミーリットだ。
厳密には安全地帯の見張りをしている白鉄札が最後に見ているそうだが、組合の指示で動いているかもしれないモリアを、止めるようなことなどするはずもない。
一度、自分が止めるべきだったのだろうか?
「野営の見張りがいらなくなったからな。そりゃひとりで行くさ」
そう言うのはグルイーザだ。
この部屋の中で一番くつろいでおり、今の報告に動じたふうもない。
「心配は無用ということですか?」
「そういうわけじゃないが、調査目的なのに足の遅い神殿騎士に付いて来られても困るんだろ」
酷い言われようだ。
だが、言い方こそ優しかったものの、モリアも全く同じことを言っていた。
レミーが補足するように付け加える。
「出発が急すぎる。止められるのが分かっていて、ほとんど誰にも告げずに行ったのだろう。ミーリットが止めたところで、ひとりで行っていたと思うぞ」
ひと通りの話を聞いた後、テオドラは意見をまとめた。
「つまりいつものことである、と。……分かりました。でも、十日は長すぎます。北壁山脈を目指さないというのであれば、数日で帰ってきますよね?」
誰もその言葉を否定はしなかった。
しかし――
七日目の朝になっても、モリアは帰ってこなかった。
テオドラたちがいつも使用している屋敷の部屋には、特例小隊の面々に加え、ふたりの客人が訪れている。
ミーリットは客人たちの顔をちらりと窺った。
ひとりはこの街で――いや、もしかしたらこの国で最も高名な魔術師かもしれない、ベルーア卿その人である。
白髪に長い髭、齢は六十を越えているはず。
それでもその背筋は真っ直ぐに伸ばされ、細められた眼も光を失っていない。
もうひとりは筋骨隆々、禿頭の大男。開拓者組合の職員らしい。
背丈もレミーに迫るほどあるが、特筆すべきはその幅である。前後にも左右にも広い。
ミーリットはこの男が恐ろしかった。
訓練では自分より遥かに大きな男や、気性の激しい者を過去に何度も打ち倒している。
そんな自分から見ても、危険すぎる人物に思えた。
テオドラと同じ部屋に入れてもいいのだろうか?
レミーとどちらが強いかと問われたら、判断に困るくらいの威圧感がある。
その大男、ギルターがレミーを見ながら言う。
「で、モリアはまだ帰ってきてないんだな? 組合長からは今日中に捜索隊を出すよう指示が出ている」
「私も、配下の者を用意しています」
そう返したのはテオドラだ。
「む……。王女殿下の意向には沿うよう、エメリヒ組合長から伝えられております」
「今はライシュタット領主代行ですので、そこまで畏まる必要はありませんわ。合同捜索でも問題ありませんし、参加する者を確認しておきましょう」
白鉄札と衛士から数名ずつの候補。特例開拓者からはレミー。
そしてミーリットは最後の候補者に声を掛ける。
「グルイーザにも加わってもらいたいのですが、いいですか?」
「やだ」
「やだって……」
「開拓者に貴族様の衛士? なんでそんな大勢の面倒を見なくちゃならねーんだ」
捜索隊の人数が多いのは実のところグルイーザの護衛の意味も兼ねているのだが、彼女にとってはむしろ自分こそが周りの人間を守る側なのだ。
精兵十名をもってしても、グルイーザの力にはとても及ばない。
確かにその理屈も分からなくはないし、ミーリットもテオドラもこの返事はある程度予想していた。
「だったら私とレミーとの三人だけで行きましょう。それならどうです?」
「モリアに障壁の呪石を渡したのは、虎に翼を与えたようなもんだ……」
「トラ?」
「そういう四足獣がいんだよ。まあ、羽の生えた四足獣っていやあ、グリフォンのほうが分かりやすいか?」
そう言うと、やや挑発的な笑みを浮かべながらベルーアを見やる。
グルイーザは普段からこういう表情が多いので、意図が掴めない。
老魔術師はそれを気にするでもなく、腕を組んだまま黙って聞いていたが、やがて口をひらいた。
「少しモリアを過信してはおらぬかね? ラゼルフ小隊が帰ってこれなかった迷宮。それがセプテントリオンだとわしは認識しておる」
「行って帰ってくるだけなら、あたしがあいつに付いて行っても足手まといなのさ。ただ、なんらかの事情で帰りが遅れてんなら話は別だけど。あいつの家族にも、そういう事情があったんじゃねーの?」
「ふむ……」
ベルーアの言葉で気付いたが、グルイーザは他の者たちよりもモリアの実力を信用している。
それはきっと、レミーも同じなのだろう。
でも、自分やテオドラがモリアを心配するのも、決して悪いことではないはずだ。
「すみません。私が最初にモリアを止めて……いや、せめてもっと話を聞いていれば」
「嬢ちゃん……じゃなかった、神殿騎士殿。あんたは何も悪くないと思うぜ。あいつ、勝手な奴なんだよ」
そう言ってミーリットを慰めてくれたのは……あの恐ろしげな男、ギルターであった。
ギルターは意外にもミーリットを擁護してくれた。
優しさからというより、モリアに対するある種の偏見からという気もするが。
あと、顔はやっぱり恐ろしい。
「そんな顔すんな、ミーリット。あたしも少し時間がかかり過ぎていると思っている。ただの様子見なら手伝うまでもなかったが、何か面倒事でも起きたのかもな」
それを聞いたレミーは、この席で初めて意見を述べる。
「中距離での戦いに長け、逃げ足はこの中で誰よりも速い。大抵の困難をひとりで対処でき、自分の手に負えないときの引き際も心得ている。野営の問題も呪石が解決した。そんなあいつが街に帰らず、且つ俺たちの力を欲する状況があるとすれば――」
レミーの発言を受けて、グルイーザは不敵な笑みを浮かべる。
そしてその結論を、軽口を叩くように述べた。
「んなことがあるとすりゃあ、それは戦争のときだろうよ」