第48話 剛弓
もしレミーと戦うようなことがあるならば。
接近戦は徹底的に避け、隠れてからの投石に徹するだろう。
今対峙している射手が、自分よりも優れた飛び道具使いだというならば。
逆に接近戦を挑むしかない。
探索に於いて投石術の利点は幾らでもあるが、単純な武器としてであれば弓矢は投石よりも強い。
子供でも分かることだ。
弓矢の達人に遠距離戦を挑んでも、モリアに勝ち目などない。
だが草原によって視界は阻まれ、隠れた相手に一方的に攻撃されているのが現状だ。
そもそも、敵の姿だけでなく弓すら見えないのはどういうことなのか。
長弓は『縦』を意味するlong由来の名が示す通り、縦に構えるのが基本の武器だ。
大きさは一メートルを超すのが普通で、この草原でも完全に姿を隠すのは不可能なはず。
その方法を素早く考察する。
ひとつは、単に小さな弓を使っている可能性。
もうひとつは、弓を横に構えている可能性。
あるいはその両方。
そんな方法で、あれ程の威力の矢を放てるのだろうか?
もしそうだとすれば、それは凄まじい剛弓だ。
クロスボウであれば、威力と潜伏を両立させることも可能だろう。
しかしはっきり目視できたわけではないが、先程の矢はクロスボウの短矢としては長すぎる気がする。
――とにかく、今の場所に留まっては駄目だ。
草の隙間から前方を確認する。
樹木群が少し残っている一帯がある。
なんとかしてあの場所まで退避したい。
再び草を切り裂く音。
このままでは当たる気がする。
まさか、こちらの走る動きに合わせて射ってきているのだろうか?
ごく短い距離ならば、更に加速できる。
その緩急で躱すしかない。
だが、敵の動きはその上を行った。
モリアが加速した瞬間、更に二射、三射目を動きに合わせるかのように射ってきたのだ。
――馬鹿な!
信じ難いが、考えている暇などない。
地面を蹴って前方へと倒れ込み、伏せて躱すことを試みる。
三射目が背嚢を掠った。
背中の上を通過した矢は、少し離れた地面を抉り突き刺さる。
矢が地面に刺さったということは、高い位置から射たれているということだ。
敵はこの僅かな間に自身の有利な地形へと移動し、モリアを狙撃している。
その動きだけでも脅威だが、驚くべきはその連射速度。
――三連射だって!? あの一瞬で!?
クロスボウという可能性は消えた。
装填に時間のかかる武器で今の連射は不可能。
弦に複数の矢を番えて射る方法も見たことはあるが、あれはどちらかといえば大道芸の類だ。
一瞬の間とはいえ矢は時間差で飛んできた。それは間違いない。
敵は恐るべき速度で三度弓を引き、且つ地面を穿つほどの威力を両立させている。
そのような剛弓が存在したとして、果たして自分に扱えるだろうか。
引くことは出来るだろうが、これほど素早く正確に連射できるものか。
モリアの投石術の師匠にしてラゼルフ小隊の一員、ティーリスであればそのような弓を使うことも可能だろう。
ティーリスは飛び道具百般の達人なのだ。
しかし彼女の戦い方とも違う。
魔導護符の力をその身に宿す六人の魔人のひとり――
ティーリスは、弓矢のように管理が面倒な武器を必要としない。
だからこの相手は、自分の師ではないはずだ。
考える間にも、跳ね起きて再び駆けていた。
起き上がる動作の間に射たれていたら終わりだったが、何故か追撃は来ない。
敵にもなんらかの限界があるのだろうか?
例えば矢の残数。弓矢の最大の弱点といえよう。
心臓の鼓動と呼吸の乱れを自覚する。
ティーリスとの模擬戦でも、これほど緊張したことはない。
そう、模擬戦とは違うのだ。
単純な強さだけであれば、兄弟たちを上回る相手をモリアは知らない。
しかし所詮は身内同士の、生き死にのかからない戦いである。
――もしレミーと敵対していたら、こんな感覚を味わっただろうか。
セルピナとの戦いでは、レミーが背中を守ってくれた。
今は自分がロカを守らねばならない。
出来ることなら、不利な状況を察して撤退してくれていれば良いのだが。
目標である樹木群に近付いてきたところで気付く。
姿を見せていたメラクのふたりが先にそちらへ向かっている。
こちらの動きを読まれて先回りされたのか?
無視して進もうにも、僅かな妨害で矢を躱せなくなる可能性が非常に高い。
――先に倒すしかない!
射手の位置とは反対側に回って仕留めれば、死体を盾にすることも出来るだろう。
気配に構わず草原を駆ける。
ふたりのメラクは距離が近付いたところでこちらに気付き、戸惑うように武器を構えた。
ショートソードを引き抜く。
確実を期すなら接近戦で仕留めろ、というのが剣術の師匠の教えだ。
モリアの剣の師は、その名をサンという。
ラゼルフ小隊の一員にして孤児院一の問題児……いや、孤児院一の剣士であるサンに幼少時より仕込まれた技の数々は、この程度の相手に遅れを取ることはない。
瞬く間にひとりめの懐に潜り込み、その急所を貫いた。
自分より強い者など、世の中にはいくらでもいるだろう。
だが、サンとティーリスの教えを受けたこの自分が、易易と倒されることだけは決してない。
そう心を強く持ち直すモリアの前で、またも予想外のことが起こる。
目の前にいたもうひとりのメラクが、その身体を矢に貫かれて即死したのだ。
――まさか、誤射したのか!?
常人の到達し得る理想に、限りなく近いと思わせる弓矢の達人。
そんな相手でも、得手不得手があるというのか。
何故間違えた?
距離が近かったから?
この相手は気配だけを追っていて、敵と味方の区別が付いていないのか?
いや、今重要なのはそんなことではない。
飛来した矢は、目の前のメラクを貫通して飛んでいった。
この尋常ではない威力。
ひと目で即死と分かる凄惨さ。
敵は先程までより、ずっと近くに居る!
モリアの感覚が、矢の飛んできた方向に潜む気配に気付く。
その距離三十メートル以内。
こちらから積極的に攻めなければ、勝利できない戦いがある。
危険を承知で踏み込まなければならない瞬間は、必ずくる。
――今が、そのときだ!
ショートソードを引き抜くように、射手の潜む方向へと死体を蹴り飛ばす。
剣を納め、ベルトに装着した袋を叩き、中の石礫を宙空へと浮かび上がらせる。
モリアが放つ飛礫の連射は、この敵の早射ちにも決して劣るものではない。
石礫を掴み、投擲する。
空気と草を切り裂く音が次々に唸り、見えざる敵へと襲いかかる。
同時に矢を射たれたら躱せなかっただろう。
しかし相手は防御を選んだようだ。
大きく動く気配を、初めて露わにした。
先程自分がされたのと同じように、相手の動く先を読んで更に飛礫を撃ち込む。
妙な命中音がした。
石礫が岩にぶつかる音……それに気付いたモリアは即座に攻撃を止める。
恐らく草むらの中に岩塊がある。
敵は事前に障害物の近くに陣取り、そこから攻撃をおこなっていたのだ。
――なんて抜け目のない奴だ!
心の中で毒づいたが、今は自分が遮蔽物の中へ逃げる好機でもある。
一旦仕切り直すべく、前方の樹木群へと駆け込んだ。
敵は確かに恐るべき達人だが、弓矢の特性を覆せるわけではない。
至近距離であれば板金鎧をも貫くであろう剛弓も、巨大な樹木の幹を貫通することは不可能だ。
ここまで来れば呼吸を整えることが出来ると、幹を背にモリアは屈み込んだ。
射手に集中する余り、もうひとつの気配に気付かないまま。
「無事じゃったか、モリア」
「うわっ! ロカ?」
射手の潜む場所とは逆側の岩塊。その上から、ロカが姿を現した。
意表を突かれはしたが、間違えて味方を攻撃するほど間抜けではない。
息を整えつつ尋ねる。
「なんでこんなとこに……。今とんでもないのを相手にしてるんだけど」
「驚いたぞ。おぬしがこれほどの凄腕とはの」
「向こうのほうが、一枚上手みたいだけ……ど……?」
岩上の段差を降りてくる最中のロカに、妙な違和感を覚える。
――なんだ?
それは、感じたことのない種類の魔力だった。
ほんの僅かな。
いや、それはロカから発せられているのではない。
ロカに、向けられているのだ。
「すぐ降りろ! ロカ!」
暴力的な魔力の奔流が、背後より迫る。
動く暇すらなかった。
轟音と共にモリアの頭上を通過したそれは、ロカの居る場所へと着弾する。
それは背にした巨木の幹をも貫き、目の前の岩塊へと突き刺さっていた。
信じ難いことに、それは一本の矢であった。
ロカはモリアの警告の意図を察し、地面に落ちるようにして倒れている。
ひとまずはそのことに安堵し、改めて矢を確認した。
「こんな切り札を……!」
敵はまだ、こちらの想像を超えてくるというのか。
何故今まで射ってこなかった。
そして、何故今射ってきた。
射ってこなかった理由は明白。今の攻撃には限りがあるからとしか思えない。
射った理由は……。
――ロカか?
ロカの気配を、モリアと誤認して射ってきたのだろうか。
言ってはなんだが、ロカはモリアよりも隙がある。
こちらが隙を見せたと、誤解したのかもしれない。
もしそうなら、ロカのおかげで相手の切り札をひとつ消費させることが出来た。
こちらにも似たような切り札はある。
しかし標的が小さく姿も見えないため、使う機会を逸していた。
どちらかといえば対人ではなく、攻撃が通らないような魔物相手の為の切り札なのだ。
顔面を打ったらしいロカが顔を上げて自身の居た場所を振り返る。
岩に突き刺さった矢を見て、驚きの声を上げた。
「これは……メグレズの魔法矢ではないか!」
「……え?」
――メグレズ? メグレズの武器と言ったのか今?
ロカは慌てたように起き上がり、モリアの背にする樹の陰から出ると、草原に向けて叫んだ。
「待て! 誤解じゃ! 吾輩らは敵ではない!」
草よりも背が低いため、互いに何も見えない。
それに気付いたロカは、横にある樹によじ登り始めた。
「今姿を見せる! 頼むから射ってくれるなよ!」
モリアは一瞬呆然として、その動きを止めることが出来なかった。
ロカは射手を敵ではないと主張している。
メグレズ製の武器を持っていることが証左ということか。
なら、戦いの始まりとなったあの笛の音。
メラクが警笛を鳴らした相手は、この弓使いだったのか?
「吾輩はメグレズのロカ! アリオトに助力を請うため、北へ向かう途中であった!」
他のメラクが姿を消したのは、全て射殺されてしまったから。
そう考えれば辻褄があう。しかし。
メグレズの武器を持っていたからといって、本当にメグレズの仲間なのかは分からない。
奪われた武器かもしれないではないか。
草むらの中から矢が飛んでくることはなかった。
だが、返事もない。
何故か。
モリアが、まだ隠れているからだ。
安易に姿を現すわけにはいかない。
もし攻撃されたとしても、一射目は躱せるかもしれない。
だが、躱す動作に合わせて連射されればどうか。
今までは草に姿が隠されていたため、半ば勘で射っていたのだろう。
姿を見せた状態で、この恐るべき相手に果たして対抗できるのか。
――でも、このままではロカが。
ロカは危険を顧みずに己の身を晒している。
いまだ草むらの中に潜む者が、味方ではない可能性にも当然気付いているはずだ。
自分の兄弟たちなら、こんなときにどう動く。
サンであれば、仲間を救うために迷わず矢面に立つだろう。
ティーリスならば、諦めずにあらゆる可能性を模索するだろう。
敵は何故動かない。
まるで自分と同じように。
そう考えたとき、ひとつの可能性に思い当たる。
自分と同じ――
相手もまたモリアの飛礫を警戒し、姿を見せることが出来ずにいるのではないか。
確かに姿さえ見えていれば、次は逃すことはない。
敵は兄弟たちのような魔人ではない。
能力に限界のある、常人であることは明らかだった。
ならば、自分のすべきことは。
仲間を救うために迷わず――
諦めずに可能性を見出すこと――
「降伏する! 敗けを……認める!」
モリアは叫んだ。
叫び、立ち上がり、樹にしがみつくロカの横に顔を出す。
そして、両の掌を前に向けたまま、ゆっくりと前に進んだ。
樹木の前方。
草もまばらな、むき出しの地面の上へとその全身をさらけ出す。
僅かな時間が、無限にすら感じられる。
そして前方の草むらから、ゆっくりとそれは立ち上がった。
目線の高さはモリアよりもやや低い程度。
その顔を見たロカが、ぽつりと呟く。
「やはり……アリオトじゃったか……」
――これが、アリオト……!
驚くべき点は幾つかある。
弓使いの正体は、モリアよりも小柄な少女であった。
長い髪を風になびかせ、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
やがてモリアと同じ場所――草のないむき出しの地面の上へと、その全身を露わにした。
王国のそれとも異なる意匠の、白い民族衣装。
首を覆う、長いマフラーも白い。
この弓使いはこれ程までに目立つ服装をしていながら、モリアに一度も目視されることなく隠れ続けていたのだ。
何故そんな目立つ服を?
一瞬そう思うが、アリオトは北壁山脈が主戦場の集団だ。
ならばこれは、雪山で身を隠すのに適した服装なのだろう。
弓は、やはり横に構えていた。
つがえた矢の先端は、地面に向けられている。
「アリオトのザジ」
少女が名乗った。
そうだ、自分も名乗らねばならない。
「ライシュタットの……モリア」
彼女の姿に気を取られ、声を出すことを忘れていた。
ザジと名乗る少女の、最も驚くべき外見特徴。
それは、長い髪とその肌の色。
黒髪に――褐色肌。
今から百年前……集落ごと姿を消したという、ある異民族と特徴を同一にするもの。
北壁山脈のセトラーズ、アリオトとはつまり。
――手強いわけだ……道理で!
「お前は……敗けてなどいない」
そう呟いたザジの顔には、大粒の汗が浮かび流れ落ちている。
呼吸は乱れ、なんとかそれを整えようとしつつ言葉を紡ぐ。
「お前が姿を見せなければ、この三人のうち誰かは死んでいただろう……それは私の心の弱さ故に……だから――」
ザジも、苦しかったのだ。
メラクの半数を打ち破り、矢も残り少なくなったところに現れた新たな敵。
自分の放つ攻撃を次々と躱し、正確な反撃すらしてくる相手。
切り札の魔法矢ですら仕留められず……。
その目は鋭さと勇猛さを。
それを打ち消すような疲労と恐れの色を。
そして今、生じたばかりの僅かな畏敬の光を湛え、モリアを見つめていた。
「――――だから……勝利者はお前だ、モリア」