壬(みずのえ)・混沌
ガラクシアスの『管理者』である皇帝ネメティスより、ヴィローに授けられた竜殺兵器。
その射程距離は半径三キロメートル。
対して《青霧竜》ギブリの最大高度。
すなわち大天蓋の頂点高度は地上から三百キロメートル。
「百倍も先じゃねーか! 百倍って何倍だよ!?」
「百倍だね」
エリクとモリアのやり取りを聞きながら、ヴィローはくつくつと笑う。
「そう心配せずとも、かの大怪魚が下に降りてくる瞬間を狙えばよい」
「月や日が沈むだの地に落ちるだのは、比喩表現のはずなんだがな……んなこたオレでも分かる」
「ところが月に限って言うなら、この天蓋境では文字通りの意味なのだよ」
「そうなると決戦場は海の果てですね」
ヴィローはモリアの言葉に、力強く頷き返答する。
「左様。レオーネ島西端から海上を西に百キロ。東の夜明けと同時刻に、月の大怪魚はここを通過する」
「てことは、また船の上で戦うのか……」
少しばかり嫌そうに、エリクはつぶやいた。
「だいたい、四方竜ってのは迷宮活動期の度に封印するもんじゃないのかよ。ギブリは何百年放置されてたんだ?」
「陛下――つまり《迷宮守護者》ネメティスに聞いたところによると、仙境側はともかくレオーネ島側には活動期なんて無いらしいんだよね。代わりに迷宮の寿命がある。今の仕組みにする以外、天蓋境の人々を救う方法は無かったんだってさ」
漂海者が多い時期というものはあるらしく、それが仙境側での迷宮活動期に当たるのだろう。
「よく分かんねえけど、そんならまあ仕方ねえか」
モリアは黙して語らないが、ガラクシアスを失うことは『四方迷宮の仕組みそのものが終わる』ことを意味している。
それに代わるものは、まだ存在しない。
モリアたちを影で導いてきた、ラゼルフ孤児院の長兄フィムも――既にこの世にいない。
転生する迷宮守護者とは聞いているものの、どうせまた百年先とか言い出すのだろう。
未来への課題は積まれたままだが、今はまずギブリだ。
*
レオーネ島の西――天蓋の果てへと、開国を実行するための船は行く。
総勢三隻。いずれも武装を施された海洋郡の戦列船である。
中でも先頭をゆくシュアン郡の武装ブリッグ船には、ヴィロー、エリク、そしてモリアに加え、他郡の代表武侠エツゴウ、さらに皇帝ネメティスまでもが乗船していた。
「なんでお前らまで乗ってんだ……」
エリクの呆れた声に、悪びれることなくエツゴウが答える。
「我がウェンホウ郡は内陸にてな。船など持っておらん」
「帝都には船はあるが、軍装を施したものはないからな」
そう応じたのは、艦尾近くで海を眺めていた皇帝ネメティスである。
重厚な外套の下、その獣じみた肩幅は船の揺れと共にゆっくり上下していた。
竜殺兵器の管理者として、竜を監視するための存在。
だが迷宮守護者であるネメティスは、四方竜を殺すことは決して出来ない。
彼はただ、成り行きを見届けるためだけにこの場に在る。
それは迷宮守護者もどきであるエリクも多分同じなのだが、モリアは特にそのことを指摘はしなかった。
面倒だからである。
「エリクは『ザルツマリナ海運公社』、知ってるでしょ」
唐突にモリアが口を開く。
「南の組合か。イカれた本を出してるとこだな」
「そうそれ。北の開拓者組合、南の海運公社ってね。その公社には、音響魔術師と呼ばれる独自の兵種がいる。対象に音を当てて、その反射時間から位置を探るらしい」
エリクはわずかに顔をしかめ、西の空を睨みながら言った。
「見たほうが早ええ……」
モリアの話の意図がよく分からないらしい。
海運公社とは境界領域の向こう側の組織であり、この戦いでその力を借りることは出来ないのだ。
何故そんな話をするのか、分からないのは無理もなかった。
「夜とかは強いらしいよ? あと、海の底までの距離を測るにも便利だろうね」
「あー、なるほど。よく考えるな」
「エリクもたまには考えたら? ともかく音響魔術師たちの研究によれば、レオーネサークルの水深は2キロメートルくらいなんだってさ」
不躾な物言いにエリクは鼻を鳴らす。
「だからなんだっつーんだよ?」
「つまり。あんなものは大きすぎて、海の中じゃ狭すぎるんだろうなって」
黎明の西の空、蒼く滲む異形の影が浮かんでいる。
それは月ではない。
全長一キロメートルを超える大怪魚――青霧竜ギブリ。
海面近くまで降りてきたその巨体が、音もなく宙を漂っている。
「ギブリ自身が、迷宮石みたいに発光してるんだね」
ガラクシアス上の軌道では、天蓋境にかつてあった太古の月のように、太陽光を反射して光ることは出来ないそうだ。
郡守会議の後、モリアがジェイロンから聞いた話である。
「なんであれが竜なんだ。魚だろ」
「南方海の勇魚って、ギブリほどじゃないにしても物凄く大きいみたいだから。当時の迷宮生成術師は、勇魚を竜の一種と考えていたのかもしれない」
「そんな適当でいいのかよ」
「ミミズが竜の一種だったりするくらいだからねえ」
レオーネ島の船乗りは、ギブリを恐れて海域の東西の端まで船を出すことはない。
甲板に立つ乗組員たちは誰もが言葉を失い、口を結んで空を見上げている。
その沈黙の中、ただモリアとエリクの軽口だけが波間に響いていた。
*
境界領域との距離が、いよいよ残り一キロメートルを切ろうかという頃。
ヴィローは無言で船首へと歩を進めた。
海風はまだ穏やかで、ただ空気だけが異様に重い。
外衣の内側に手を差し入れ、懐から一枚の板を取り出した。
それは、南の竜殺兵器。
手のひらほどの大きさながら、ずしりとした存在感を放つその板の表面には。
ネメティス帝国の一都九郡を象徴するかのように――
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の、十の文字が刻まれていた。
ヴィローは文字に祈りを込める。
「生命は―― 『木』の発芽に始まり苦悩を招き……
『火』は情熱と共に闘争を生み出し、
『土』は秩序を築きながらも腐敗を孕み、
『金』は変革の果てに代償を求め、
そして『水』はすべてを混沌に帰し、新たな再生の礎となる――」
唱えるたび、板に刻まれた文字が順に脈打ち、やがて十の全てが淡く発光を始めた。
それは呪文でも儀式でもない。ただ、確かにそこに宿った意志を解き放つ行為。
十の干が交わり、揺るがぬ陣となり、空を仰ぐその手から波紋のような魔力の輪が放たれていく。
海と空の狭間に、十角板を中心とした新たなる全天球が顕現する。
「竜殺兵器――《十干陣》」
西の空を覆うようにして迫る、青白く光る巨大な勇魚。
その輪郭が、わずかに揺らぎはじめる。
形を成していたはずの巨大な影が、次第にほつれ、崩れていく。
光の霧のように見えたその躯体は、やがて薄絹のように裂け、散り、溶ける。
「違う! ありゃあ魚じゃねえぞ!」
エリクが叫んだ。
モリアはその現象を見て、《青霧竜》という名の意味を看破する。
「霧だ! 大怪魚に見えていたのは、発光する霧の集合体。本体は中にいる!」
そしてその中から、ぬるりと現れたのは……遥かに現実味を帯びた、しかし依然として異様な存在だった。
表層を脱いだその『本体』は、霧よりも遥かに小さく、鋭い。
黒に近い青を纏い、水面すれすれに浮かぶその姿は、巨大な生き物であることを否応なく感じさせる。
肌のように見えたものは硬質な殻か、ぬめる皮膚か――定かでない。
それでも確かに、それは実体を持っていた。
霧の大怪魚の中から現れし『新たなる巨大魚』は、ゆっくりと滲み出すように、境界領域から押し出されている。
まるで、現世と幽世の境から引き剥がされるかのように。
波打つ水の天蓋――《原初の海》。
そこから落ちるようにして、本体の勇魚はついに、こちら側の海へと滑り込んだ。
海面を押しやるような波と飛沫、水の荒れ狂う音。
そして、誰もが理解する。
今、霧の仮面を脱いだギブリが、ついにこの世界に降り立ったのだ。
竜殺兵器、《十干陣》とは――
半径三キロメートル。規模は大天蓋の百分の一。
新たなる原初の海で空間を覆う、失われし秘法――《迷宮生成術》。
この中でのギブリは青霧竜の力を無効化された巨大魚に過ぎず、理論上は人の手による討伐が可能となる。
役割を終えた十角板が、手の中で灰のようになって崩れ落ちた。
それを見届けたヴィローは、全乗組員に号令をかける。
「それでは諸君――魚釣りの時間だ」
音響魔術師――それは、海の深さを『聞く』技術者たちです。
魔術と音響工学を融合させた術式により、海底の反響から地形を読み取ります。
深度測定だけでなく、航路誘導や魔力結界の安定にも重要な役割を担います。
彼らの技術なくして、公社の洋上航行は成立しません。
――ザルツマリナ海運公社刊『公社通信・第九号』
巻頭特集「職能紹介:音響魔術師」