庚(かのえ)・変革
「皇帝領の……」
「代表武侠、だと?」
円卓の各所から驚きと戸惑いの声が漏れる。
「そ……その男、まさか漂海者か!」
誰かが叫んだ瞬間、皇帝が悠然と頷いた。
「左様。ゆえに、レオーネ島の民を武力として用いぬという掟にも、なんら反せぬ。たとえこのモリアが、他の代表武侠を全て打ち倒したとしても、だ」
放たれたその一言に、場が一気にざわついた。
各郡の代表武侠たちが浮足立ち、ざわめきの中で身構える者すらいる。
後方でエリクが舌打ちを漏らしたのが、ヴィローの耳にも届いた。
円卓の向かいではエツゴウが口元を歪め、実に愉快そうに様子を窺っている。
「あっ! き、貴様か!? 我が郡の――」
ナザフィールが声を荒げた。
それに対する返答は、喧騒を切り払うような一言。
「我が郡の、なんです?」
「……っ!」
モリアの声にナザフィールははっと我に返り、言葉を呑む。
わずかな間を置き、額に汗を滲ませながら、慌てて視線を逸らした。
まさか、「帝都に刺客を何人も送ったが、全て返り討ちに遭った」などとは、この場で口が裂けても言えまい。
ヴィローは円卓を見回した。沈黙したのは彼一人ではない。
いったい何の心当たりがあるものか。
幾人かの郡守が同じように視線を伏せ、息を殺している。
「おいっ! モリア!」
突如、背後から鋭い怒声が飛んだ。エリクだった。
さすがのヴィローも一瞬、心の臓が跳ねる。
――いずれも漂海者。知り合いなのか?
会議の場で、代表武侠が口を挟むなど言語道断。
だが、あまりに常軌を逸した出来事が続いた今、その行為を咎める者すら居ない。
「代表武侠ぜんぶ倒すだぁ? 面白え、やってもらおうじゃねえか、あん?」
エリクは半歩、前へと身を乗り出し、モリアを指差さんばかりに吠えた。
「いや……僕が言ったわけじゃないし。それにシュアンは開国派でしょ。試合になってもエリクとは当たらないし」
そのやり取りを見ていたエツゴウが、くっ、くっ、と喉を震わせたかと思うと、ついに声を上げて笑い始めた。
「はっはっは! これはもう、収拾がつきそうにないのう!」
剣呑な空気の中、エツゴウの笑い声だけが会堂に響いた。
*
「皆、落ち着いたかの」
会堂のざわめきが収束し始めた頃、皇帝の声がおごそかに場を鎮めた。
「開国を掲げる理由について、余からはまだ語っておらぬゆえ、その意を聞いてもらった上で、改めて決を取るものとする」
その声音に、先ほどまでの混乱が嘘のように場が静まり返る。
誰もが、帝座に身を置いた皇帝の一言一句に耳を傾けていた。
「開国とは、ただ門戸を開くという話ではない。境界領域を消すことであり、それはすなわち、月の機能停止をも意味しておる」
月の停止――
いくつかの席で、思わず息を呑む気配が伝わった。
それが何を指すのか、完全に理解している者はほんの一握り。
だが直感的に、それがこの島の根幹に関わるものであると悟ったのだろう。
「だからこそ、派閥に関係なく開国に反対している者も、この中にはおろう」
席のいくつかでは、身を乗り出す郡守の姿もあった。
月の停止に関する噂は、確かに密やかに囁かれていた。
しかしこの場で、皇帝自らがそれを『真実』として語ったということは、何よりも重い。
「余が、これまでこの島の真実を語ることがなかったのは――民に聞かせるにはそれがあまりに暗く、希望を失わせる内容であるゆえに」
その声音には、どこか深い哀しみが滲んでいた。帝座の上で、ゆるやかに言葉を紡ぎ続ける。
「《原初の海》に覆われた、境界領域の外側。新大陸。新たなる交易。国外の敵の脅威――」
開国と鎖国を巡る長い議論の中で繰り返されてきた言葉たち。
だがそれらを、一言で否定するように皇帝は告げる。
「――そんなものは、全て存在せぬ。新大陸は四百年以上の昔に滅んだ。人類はもとより、いかなる生物も生き残ってなどおらぬ」
会堂には、低く押し殺したような息の音が、あちこちから漏れ始めていた。
それは驚きというより、理解が追いつかぬという戸惑いの気配だった。
何を言っている?
そんな疑念が、重く、空気の隙間を埋めていく。
「い、いや。しかし……」
発言してよいものかと逡巡する郡守に代わり、ヴィローが速やかに言葉を継いだ。
「お言葉ですが、陛下。それなら漂海者とは、何処からやって来るというのです」
「そなたには何度も話しておろう。漂海者とは、仙境からやって来る者だ」
どういう意味だ。
仙境とは新大陸のことではなかったのか。
「モリア」
「はい、陛下」
皇帝の代表武侠は再び一歩前に出ると、よく通る声で語り始めた。
「さて、僕は確かに皆さんの言う『新大陸』からやって来ました。けれど、この世界における新大陸は既に滅んでいるという。そして――」
モリアは言葉を区切りながら、意味が深く沈んでいくのを待つように続けた。
「――僕の居た世界、すなわちこちらで言うところの仙境では。大陸の南にかつてあったという、レオーネ島が存在しないのです」
誰もが即座には理解できなかった。
それは無理もない。あまりに根源的な常識の否定だったからだ。
「この事象を明確な言葉で表現できる者は、仙境ではもう生き残っていません。御歳三百歳以上である陛下であれば――」
「余も、始まりのその時をこの目で見たわけではないぞ」
それでも、皇帝の声音には重みがあった。
長く生きてきた者だけが知る、歴史の暗がりを踏みしめるような響き。
会堂に集う面々の間を、再び張りつめた沈黙が支配する。
その中で、皇帝はなおも続ける。
「仙境と、そしてこのレオーネ島がある天蓋境は、重ね合わせられるような――ほとんど同じ形の世界なのだ。ただし仙境ではレオーネ島が消え失せ、天蓋境ではレオーネ島以外の全てが滅んだ」
誰もが理解に苦しんでいる。目の前に並ぶ語句の意味はわかる。
だが、それが示す事実が、常識を覆していた。
ついに、たまらず誰かが声を上げた。
「待ってください。それでは、それでは陛下のおっしゃる『開国』とは、いったいなんなのですか!?」
「開国とは――仙境より天蓋境に『漂海』したレオーネ島を、再び仙境へと帰す行為のことである」
どよめきが起きた。互いに顔を見合わせ、わずかな気配だけが重く空間に満ちてゆく。
「レオーネ島が、元は仙境の島……? それでは――」
「そうだ。天蓋境は本来であれば、全て滅んでおった。仙境のレオーネ島の環境を、天蓋境のレオーネ島へと移植――融合することにより、この世界の生物は辛うじて救われ、生き永らえた」
目に見えぬ奈落を覗き込むような感覚に、幾人かの郡守が身じろぎする。
誰もが。今立っているこの地が「当たり前のものではない」などと、考えたこともなかった。
一人の郡守が、震えるような声で尋ねる。
「レオーネ島が仙境に戻ったら、我々はどうなるのです……」
「今まで通り、島で生活すればよい。ただし、島を隔てる《原初の海》は仙境には存在せず、異文化との出会いは甘くない。鎖国派が懸念するように――確かに、新大陸は脅威であろうよ」
皇帝はそれを否定しない。甘言も与えない。
その言葉は、逃げ場のない現実を、ただ真っ直ぐに告げるものだった。
「なら、それなら何故、我々が仙境とやらに行かねばならないのですか。今の説明だけでは、まだ何も――」
「モリア」
名を呼ばれた代表武侠は頷き、再び話しだす。
「そうですね。開国と鎖国は、本来その理由を前提として議論すべきことです。国外貿易だの外敵だのは開国後の結果でしかなく、陛下はもっと、根本的な懸念を解消するために開国を目指しているんですよ」
一人の郡守が、思わず尋ねる。
「その、懸念とはなんであるか」
「空が――」
「空?」
「――落ちてくるということですよ」
――それは、そのやり取りは。
ヴィローの脳裏に、一つの情景がよみがえる。
――あれは、この旅に出る前に。
シュアンの川辺で――エリクと同じやり取りを交わした。
「……ギブリの憂鬱」
ヴィローのつぶやきを拾うように、誰かが叫んだ。
「そ、そうだ! そんなものは、ギブリの憂鬱ではないか!」
「蒼月騎士団の方々も、同じようにお考えですか? これは、取り越し苦労であると」
モリアが視線を向けて問うたのは、ウェンホウ郡進奏官のジェイロン。
痩せた長身の男は、瞼を伏せたまま答える。
「……いえ。我々も、同じような危機感を抱いております」
場はますます混乱する。
各郡の者たちは、こう考えている。
どういうことだ、これは……。
皇帝を最も敵視しているはずの蒼月騎士団――
しかも専制鎖国派であるウェンホウ郡が、何故このような不可解な意見には同調するのか、と。
「ただし蒼月は。月の維持こそが島を護ることだと信じており、そう容易く納得できるものでもありますまい」
ジェイロンの言葉にモリアは頷き、丁寧に一礼を返した。
蒼月騎士団の中でも、この問題に対する意見は一枚岩ではない。
そのことを、間接的に示しているようでもあった。
「まあ確かに。レオーネ島の空はなーんか、妙な感じなんだよな」
そう言うのはエリクで、既に会議に対する配慮が無い。
「昼間に寝転んで真上を見てると、青空の向こうに何かが浮いているように見える。ありゃあいったい何だ?」
「いやいやエリク。それ、肉眼で見えるようなものじゃないからね? ……でもそうか。星や太陽、月が見えるくらいなんだから、それが見えても不思議はないのか?」
「いいから、アレは何なんだ」
その問いに、モリアは軽く肩をすくめる。
「簡単だよ、それは《原初の海》だ。レオーネ島を外界から隔てる境界領域は、海の上を円形に走っているわけじゃない。島を半球状……つまり半分に割った丸い珠で蓋をしているんだ」
己の知り得ぬ新たな情報に、郡守たちの間では押し殺すような声が交わされた。
誰もが答えを急かすわけではなかったが、その注がれる視線が、モリアに話を続けるよう無言の圧をかけていた。
モリアは更に一歩、前に出る。
「境界領域の天蓋は途轍もなく高い。対して、青空というのは地上からせいぜい、10から20キロメートルの位置に見えるものとされいてます。だから寝転んで真上を見ようが、普通は認識できないんですが――」
そこで彼は一拍置き。円卓の一角、海洋郡の代表たちに目を向ける。
「地上に近い部分であれば、東西海洋郡領の方々なら見たことがありますよね。島を横から照らす朝日や夕日の光は、天蓋の内側で反射するのですから……」
東西海洋郡の郡守たちは、その言葉に思わずはっとしたように反応した。
「あの、空が揺らめく現象のことか!」
「あれは境界領域の影響ではなく、境界領域そのものであると?」
郡守たちの問いに、答えが返される。
「そうです。まるで『空に水が流れている』みたいですよね。中身は《原初の海》だから、当然と言えば当然なんですけども。漁師の間ではあれを《空返し》と呼ぶこともあるみたいですが、正式にはこう呼びます――」
そして――その名は告げられる。
「――天の川、と」
それを聞いた瞬間、エリクは反射的にその名を繰り返して――
「四方迷宮の『南』――《ガラクシアス》か!」
二つの世界を渡る漂海者は、己の同胞に――
「そう。半径三百キロメートルの天蓋で護られた水の大迷宮。仙境は世界の脅威である『竜』の一部を封印するために、天蓋境は生き延びるために。そうして誕生したのが新生ネメティス帝国であり――」
レオーネ島の根幹を明かす。
「――新大陸風に言えば、南方迷宮のセトラーズだ」
風が止んで、波も音も消えた。海の上にいるのに、まるで空っぽだった。
あの時、時計の針だけが動いてて、気づいたらまる一日経ってたんだ。
専門家の話じゃあ、それは「天蓋境の顕現」なんだとよ。
俺たちは、『中』に入っちまったのかもな。
――ザルツマリナ海運公社刊『幻秘探訪記』
特集「魔の円形海域、レオーネサークルに挑む!」