僕と、目の前の僕と、妹と、
目の前には寝ぼけた顔をしている自分と瓜二つの存在が立っていた。いや、このくせっ毛、いまいち覇気の感じられない垂れ下がった目尻、だらしない半開きの口、間違いない。紛れもない僕自身が、僕と相対していた。
勘違いしている人がいるかもしれないので明言しておくが僕は鏡の前にたっている訳じゃあない。確かに僕と左右反転で鏡が結ぶ像と同じ感じなのだが、そもそも根本的な問題としてこの目の前の、第二の俺は立体である。
しかも何も無い空間になんの前触れもなしに突如として現れたのだ。流れとしては、目が覚めて、ベットから起き上がり、朝ご飯を摂ろうと朝日が窓からこぼれて染まった扉の方向に1歩踏み出したところ、目の前にいる僕では無い僕と目が合ったのだ。書いててなんだが意味がわからない。とっくに僕の脳の容量は足りずに脳神経は焼き切れてしまいそうだ。
右手をあげてみる。目の前の俺も寸分違わずに左手をあげる。左右の違いはあれど中指の第一関節の角度から、肩の中途半端なあげ具合までやはり一致している。
うーん、自分自身の顔ほど長々と見るのに向かないものは無いだろうな。
次に勇気を持って触れようとしてみた。左手を前に突き出すとこれまたもう1人の僕も右手を前に突き出し、手のひらと手のひらが重なり合うエモーショナルなシチュエーションが創り出された。血迷うんじゃない、何がエモーショナルだよ虚しいな。
僕の複製がいるのは百歩譲って納得しよう。いや、うん、納得しよう。だがもっと重要な問題があることに気がついてしまった。
僕はどうやってここから先に進めばいいんだろうか。
結果はおおよそ分かっているがそれでも足掻かないのは、諦めてしまうの同義だ。僕はこれでも運動神経はいいんだ。華麗なステップで僕自身でさえ置き去りにしてやるさ、と言わんばかりの顔つきをもう一人の僕も浮かべているのに気がついて、いやでも理解せざるを得なかった。
ここで思う通りの事実が突きつけられたら僕は理性を保っていられない。僕は実行に移すのを中止し、事実から目を逸らそうとして頭を振る。せめてもの抵抗として。
両手をだらりとぶら下げ、ため息をひとつ。そのままベットへ身を翻した。と、見せ掛けて回転そのままに足を思いっきり踏み込んで強行突破を謀った。
が、「ゴンッ」と鈍い音が部屋にも脳内にも響く。遅れて痛みが襲ってきた。
「「痛っ」」
こいつも生意気にも痛がってやがったので、苛立ちを晴らすように思いっきり殴りかかってやって、かつ同時に、殴りかかられた。こいつもなかなか、具体的には僕と同じくらいの拳をしていたぜ。
「「なんなんだよお前」」
それはこっちのセリフであったし、実際にこっちのセリフでもあったし、かつ同じく相手が言ったセリフでもあった。
僕と僕との睨み合いが続き、一触即発の緊張感が高まる中──まあ、高まるだけで手を出せないのはわかっているけれど──ともかく、それを撃ち破る来訪者がいた。
「お兄ちゃん、朝ごはんだよ...って、え?」
我が妹である。整った顔立ちは生まれつき、女性的な起伏を近年で身につけてきた妹は、僕自身でさえ本当に僕の妹かどうか疑問を持っているほどの容姿端麗で才色兼備な完璧人間である。ちなみにロングヘア。
「お兄ちゃん、私まだ寝ぼけてんのかもしれない。それとも寝てる間に乱視にジョブチェンしてしまったかもしれない。」
と、妹が驚愕で大きく見開かれた綺麗な瞳から情報をシャットダウンするために瞼を閉じ、丸めた指で擦って目に映った光景を削ぎ落とそうとする。
「「とりあえず乱視はジョブでは無いし、目の前の光景は現実だぞ、我が妹よ」 」
「そんなの簡単に信じられないよ。それじゃあただでさえ存在意義のないお兄ちゃんが、需要もないのに量産されたってことになっちゃうじゃないか。どこにそんな予算があったんだ。他のもっと偉大なやつに回してやれよ」
多少言い方に棘があるのは愛嬌だとしておこう、しておきたい。そうだ、コイツなら俺の思いつかないこの進退両難の状況を打破する術を思いついてくれるかもしれない。
「「一旦飲み込んでくれ。ところで今僕は見ての通りそちら側に行けず困ったことになってるのだが一体どうしたものだろうか」」
「ちょっと待ってよ。そもそもどっちがお兄ちゃんなわけ?」
「「僕だよ」」
「あのさぁ、まあ今こっちを向いて喋ってくれてる方が本体なんだろうけど。」
ため息混じりにそういった後、続けて指を僕の勉強机に向けて、
「偽物をものに引っ掛けちゃえばいいじゃん」
「……妙案だな」
よくよく考えれば思いつきそうな単純な方法に、僕が気づかなかったのが癪なので、ならば妹が天才的発想を天啓として貰ったとして自分の立ち位置を守ろうと、そんな魂胆を含んだシリアスさ全開の顔をしてそう言った。
早速妹の案を実行しようと机に手を伸ばし、もはやお馴染みのイベントとなった、もう1人の俺と手が触れ合って互いにガンを飛ばし合ったところで、見兼ねた妹が向かいの俺の左手側に机を引き摺ってきてくれた。
このまま左にスライドすれば、こいつはRPGで壁との一体化を熱望して猛ダッシュするが一向に前へ進まないが故に、同じ場所で報われないダッシュをし続けて無駄に運動エネルギーを消費するあの現象に陥るだろう。ざまあないな。
と、たかを括っていた訳だが、次の瞬間にそんな甘い考えを一蹴する、受け入れ難い現実離れした光景が眼球に飛び込んできた。
もう1人の僕の腰から足にかけてまでが、物理法則お構い無しとばかりに、ぬるりと机を透けて通ったのである。これで触ると実体があるのだから不思議としか、これ以上の言いようがない。
これにはさしもの妹も瞳孔が開いてやまないらしく、上唇と下唇が邂逅を果たさないままあんぐりとしている。
「うわっ、机と一体化してるみたい。気持ちが悪いな」
「……そんなこと言ってる場合じゃないよ」
よく見ると妹の顔から血の気が引いて青白くなっている。はてさて机を透過した以外の何にそれほど驚愕しているのだろうか。
「どうしたんだ?」
なんとはなしに語りかけたのだが、妹はいまだに理解していない愚かな兄を責めるように語尾を荒くして、
「なんで理解してないの。だから、物体を通り抜けるのにお兄ちゃん同士は透過出来ないってことはさ、お兄ちゃんは部屋のこっち側に来れないとかいうレベルじゃなくて、一生地球のこっち半分に足を踏み入れられなくなったってことなんだよっ」
そこまで言われて、僕はようやっと事の重大さを理解し始めるのだった。
この魔化不可思議な──鏡写しとはいえこの世に僕という存在が二つ存在しているというオカルト現象は、少なくとも僕だけでは対処のしようもなく、まず第三者がいなきゃどうしようもないし、私が協力してあげるから、とりあえず各所に休みの連絡を入れてくるから待機していて、という妹からのお達しだった──まあおかしな話だが、自分自身が自分自身に吹っ掛けられた問題だったのだから、この場合第二者はいないのだけれど。
途中からは本気で心配してくれているのがわかったが、心配してくれてなんだけど結構そんなことどうでもよく思えてしまうくらいには、僕のメンタルはブレイクしていた。そして、なんとなくだが、この状況を掻い潜る手立てなど存在しない気がしてならなかった。ナイーブになっているのかもしれない。気を確かに持とう。
「「このままで外を歩いたらどうなるんだろうか」」
「なんでも透過するってなると、とんでもないことになっちゃいそうだね」
行動範囲が半分というのもそうなのだが、気になるのはもう1人の僕の動向である。僕が何気なく通った道が、対称の位置では女湯だったりした暁には、謂れのない変態覗き男のレッテルを貼られかねない。
「「幸いと言っていいのか判断しかねるけど、おそらく学校は僕の行動圏内。二年生の教室がある三階で授業を受けたら、世にも珍しい飛行少年としてニュースになるかな」」
「人類の更なる繁栄のための協力と称して非人道的な実験をされたりして」
「「物騒なこと言うなよな」」
やっぱ本気で心配していたというのは嘘なのかもしれない。
「この家も二分されたわけだけれど、多分そっちにトイレないよ」
そしてサラッと重大な事実を突きつけてきた。
「「あっそうじゃん。というか漫画とかもほとんどそっち側いっちゃってるし」」
「こんな不思議な現象に巻き込まれてさえも心配するのは漫画とかさ。もっとなんかないもんかねえ」
どうしたものかと今一度思考を巡らせていると、妹が割と真剣な顔で
「あのさ、ちょっと試したいことがあるんだけど」
「「ん、なにかいい案があるのか。僕としてはもう割と受け入れつつあるんだけど。ここが境界なんだったらもっと南の県に引っ越して、もう1人の僕を海上に持ってちゃえばいいし」」
僕の話が終わる前に部屋から出ていって、そしてすぐに戻って来た。
手に物騒なものを持って。
「もう1人の方殺せたりしないかな」
と、突飛したとんでもないことを言い出したのだった。
「「おいおい待てよ、ちょ、それはどうかと思うぜ」」
でも殺せるなら殺した方がいいんじゃない、と妹。
「「第一そいつにやった事って僕にも反映されるんじゃないか」」
「でもこれが鏡にできた像だとしたら、あくまで優先されるのは本体なんじゃないの。だって鏡に映った像を叩いても本体は痛くないし、像が痛がるのはやっぱり本体が叩かれたときだけだし。
唯一の違いがあるとすれば、第三者の介入の余地なんだから。こっちの偽物のお兄ちゃんには隣には包丁を持った妹がいて、そっちの隣にはいない。それが違いだよ。
何よりお兄ちゃんの偽物なんて、存在を許しておくには行き過ぎた存在だし。案外一突きすれば霧散したり、変装をといて正体を現すかもよ。地球人と入れ替わろうとする宇宙人だったりして」
納得いくようないかないような。ていうか少し怖い。
「痛かったら言ってね」
包丁片手に少し振りかぶった妹は、気遣うようなセリフを吐いておきながら躊躇なく目の前の僕の右脇腹付近へと初撃を打ち込んだ。
と、こちらも左腰あたりに何かが触れたような感触を覚えた。だが痛みは感じない──まあ、大丈夫という奇妙な予感があったから妹の蛮行を許したのだが。
それよりも注目すべきことが目の前で起きたので、意識は完全にそっちへと向けられた。
──なんと偽物の僕が、出血した右脇腹の傷口を塞ぐように両の手で覆い、苦痛の表情を浮かべたのだ。そして、起きたことの理解に苦しむと言った様子で、
「ぐっ、いったいなんで......」
とひとりでに喋り始めたのだ。もっとも、その言葉の続きは吐血が遮って紡がれることは無かった。
僕の──語り部の僕の、腰に当てられていたのはどうやらロープだったらしく、また、ロープを巻こうと回された手が、正確には手らしき感触が、硬直しているのが分かった。
******
そして僕は一瞬の回想へと堕ちる。
覚えているか。目の前のもう1人の僕の瞳に映っていた景色を。静止した時の中、近づいてよく見てみる。僕も見ていた部屋の反対側、僕の勉強机、漫画だらけの本棚、それと──それと──ショートヘアの我が妹。
そう、ロングヘアであるはずの僕の妹の、ショートヘアの姿。
いや、多分目の前の僕の目に映っていた、もう1人の僕自身の妹。
彼女の手にはロープが握られていた。
******
「え、どうして。なんで違う動きをしてるのよ。」
妹は理解していないようで、驚きの表情を浮かべていたが、僕はこの瞬間に全てを悟った。
この偽者は──いや、こいつはこいつで僕だったのだ。今は鮮血が飛び散る床に伏せている僕は、紛れもない僕自身だったのだ。
そして、僕が動いたから、それの模倣で動いてるのではなく、こいつはこいつでちゃんと思考を伴いながら動いていた──そう、その思考のパターンが同一だっただけで──
「あーあ、もうやっちゃってんじゃん」
ここで、突然知らない声が乱入してきた。
そいつはセピア調の鼠色に所々紺青が混ざった作業着を身にまとった、不潔そうな髭がもとより疲れきった顔に更に拍車をかけている、三十そこそこであろう男だった。
よっぽど睡眠不足なのだと、目に付いたやにと、がさがさの肌から見て取れた。
「ったく、最近断層が激しいんだよな。そもそもここ俺担当の世界線じゃないし」
と、ブツブツ呟きながら機械を弄っている。
「あの、これは一体どういう──」
「ん。ああ、大丈夫。こっち直したらあっちも直しとくし適当に辻褄は合うようにしとくから」
「はあ」
突然のことで呆気に取られてしまった。
もう作業を終えたのか、男は背を向けて時空の歪みのような虚空に空いた裂け目に戻ろうとしている。
いや違うだろ。もっと聞かなきゃいけないことがあるはずだろ──
「あのっ、何が起きたんですか」
「......聞いてもどうせ忘れるんだけどな。まあ、教えてやらんでもないさ。このぶっ倒れてんのがパラレルワールドのお前で、たまたまお前の世界線と繋がっちゃたんだよ。分かるか?
え?こことあっちの違いかあ、特筆して違う点は無いけどまあ、強いて言うなら、お前の利き手が違うのと、あとちょっと妹が物騒で病んでる思考回路の持ち主ってぐらいかな。あ、あとあっちの妹はショートヘアか。
とりあえず向こうのお前が死んでも、ここのお前には関係ないから安心しとけって」
と矢継ぎ早に説明を述べた男は、これで満足だろ、と引き留める隙も与えずにそそくさと裂け目に入っていった。
もし、ここで考えたことが次の瞬間にはわすれているとしても、思わずにはいられない。
あっちの妹は目の前で急に兄が殺されて平静を保っていられたのだろうかと。
僕たち自身の手で僕を殺してしまったことに対するいいやれない罪悪感。
そして僕じゃなくて良かったという安堵と、恐怖と。
ああ、──────
───僕はその日風邪をひいてしまって、学校を休んでいた。
次は「一人救うために百の犠牲が必要な回復術師が選んだ選択」です。良かったら見てください