乳白夜
あなた。死の淵を見たのでしょう
その女は、言いました。
真っ白な肌に、するりとしたしなやかな首に、何も映さない真っ黒な瞳。
長いまつ毛は、まばたきをするたびに目の下に深い影を落とします。
形のいい小さな唇は真っ赤に染まり、私はその紅にどこか見覚えがありました。
「満月の雪降る夜。漆黒と乳白が重なり合うあの夜に、行き着くものだけ行けるのです」
女の口から、真新しい白い息がこぼれました。
「けれど、行ったら最後。戻ってくることは不可能なはずでした」
私は、声も出さずに、頷きました。
今年は、厳しい冬でした。満月の夜、すべての力が満ちる時、外に出てはいけない。
それは、古くからの言い伝えでした。この地に辿りついてから、長らく守ってきましたが、ある日ふともういいのではないか。と、思ったのです。
繰り返す日々の中、朝目覚め、夜は眠り。食料を探し、家の中で暖をとる。
冬の間は特に誰かに会うこともなく、身寄りもなく。目の前に映るのは、変わることのない窓の向こうの雪空に、ただひたすらに白い虚無。私が何者なのかすらわからないままに、日に日に私は自分を忘れていくようでした。
ある朝。いつものように扉を開ければ、小さな小狐が横たわっていました。
「凍死している」
一人呟き、その小さな体を弔うために、私は穴を掘ったのです。冬を越せなかったものたちが、体を凍てつかせ、生を止める。封じ込められた時とともに、柊の枝葉で小さな祠をたてました。
手を合わせた私のもとに、その言葉は聞こえ始めたのです。
もう、お前も時を止めてもいいのではないか。私は、じっと耳をすませました。
朝目覚めても、夜、眠りにつく時も、もういいではないか。その言葉は、日に日に大きくなるのでした。
「決して、戻らないつもりでした」
私の言葉に、女は黙って頷きました。口元の紅が、うっすらと開きました。
「あなた、何を見たのでしょう?もしかして、あの湖の淵のほとりに咲く紅い花にみたのでしょうか?」
女の真っ黒な瞳の中に、あの夜の吹雪が姿を現しました。
あの日。みごとな満月でした。
窓越しに月と目を合わせた瞬間、時を止める時が来た。そう思ったのです。
吸い寄せられるように、扉を開け、私は歩き始めました。すべてが満ちていく。その言葉を肌で感じながら、黙々と歩きました。頰を切るような寒さも、えぐるような痛みに変わり、意識が朦朧としていく中、もうすぐたどり着く。そう思った瞬間、私は足を取られ、深い穴へと沈んで行きました。
目覚めれば、そこは静かな乳白夜。
先ほどまでの吹雪は嘘のように静まり返り、満月は見えずともぼんやりとした白い光が佇んでいるのです。
死ねたかもしれない。一瞬、頭によぎりながらも、私の体はまだ器用に動き、吐き出す息も白かったのです。手元にも、足元には真新しい雪。ふかふかとした触り心地とともに、冷たくなっていく体。ここがどこかわからずとも、あせることもなく、手のひらで溶けていく雪をぼうっと見ておりました。ぼんやりと、目の前に浮遊する白い光を見つめながら、私は誰だったのか。そう、思いました。すると、光の中から赤子が泣くような声が聞こえたのです。思わず手を伸ばすと、私はするりと、その光に吸い込まれていきました。
真っ赤な顔をした赤子が、泣いておりました。体は青紫色に染まり、息を吐く間もないくらいにおぎゃあおぎゃあと、叫んでいます。その小さなあたまを愛おしそうに撫でては、涙を流す女が一人。人目もはばからず、その女を強く抱きしめる男がありました。
「ユキ、ユキ」
そう言葉を発しては、涙を流す女の顔にはどこか見覚えがありました。それは、記憶の彼方でしか存在をしてこなかった母でした。そして、抱きかかえられたのは生まれたばかりの私自身だったのです。右肩にあるくっきりとした柊のような形のアザは、紛れもない私のものでした。幼い物体を抱きしめては、泣き始める男と女は、とても奇妙なものでした。三歳を最後に、父と母と離れ、生きてきた私にとって、両親などあってはないようなもの。誰かの腕に抱かれた記憶など、ありはしません。そんな私にとって、その光景はあまりに不思議なものだったのです。
「ユキ」
とても愛おしそうに、私の名前を呼ぶのです。名前を呼ばれたことなど、いつのことでしょうか。食い入るように、眺め続けました。
「ユキ」
思わず、その言葉が私の口からこぼれました。その瞬間、その光景はあっという間に消え去りました。
もといた穴にただ一人。私は、穴から這い上がりました。そこにも、すでに吹雪はありませんでした。からからと喉が乾きました。周りを見渡せば、遠い向こうに、湖のような水の気配を感じたのです。
ただひたすら、そこを目指して歩きました。近づくにつれて、それは姿を現しました。
ひそやかな湖でした。風ひとつないにもかかわらず、どこからか、水面は波紋を広げ、響きあうかのように美しく弧を纏います。そろりそろりと、近づけるところまで、すすんでいきます。きらきらと反射した水面はあまりに美しく、その奥深い中身はどこにも見当たらずに、他人事のように輝いているのです。
こっちへおいで。こっちへおいで。
危うさを感じながらも、その切実ささえ、甘美なものでした。
もう少しだけ、近づきたい。
手を招かれるかのように、誘われるかのように、私は身を乗り出しました。
おいで。こちらへ。おいで、おいで。きっと、楽になれる。
その時です。足元に、はっきりとした紅い何かが見えました。あまりに、美しい紅でした。見惚れるかのように、呆然と眺めては、我に返ったように、手招きをする水面に視線を戻しました。
おいで、おいで。その声に頷きながらも、私は紅の花から目を離せずにいました。しびれをきらしたかのように、どこからか深い影が、湖の淵から立ち上ってきました。私の真隣でゆらゆらと揺れながら、包み込むように手を伸ばします。
「おぎゃあおぎゃあ」
どこからか、また赤子の泣く声と、何かが私の腕を抱きしめるかのように引っ張りました。
「ユキ、ユキ」
どこからか、私を呼ぶ声が聞こえます。立ち上るかのような黒い影は、私を眺めるかのように、静かに止まりました。
私が生まれたあの日。
雪の降らないはずであろうあの国に、初めて雪が降ったといいます。それを奇跡だと呼ぶものもあれば、これから起こる天災の前触れだというものもありました。世間が沸き立つ中、私は声を張り上げ、この世に生を持ちました。雪というものを、生まれて初めて見たであろう両親たちは、その名の通り、私にユキと名付けたのです。そして、三歳を機に、私は親元から里親へ出され、国を出され。もの心がついた時から、一人で生きてまいりました。私が辿り着いた国では、雪は当たり前のように存在し、私達の生活を時に支え、時に脅かし。日常にあるがゆえに、私の名前の意味など、遠いどこかで忘れておりました。けれど、私にも記憶があったのです。私が、ユキと名付けられたあの時、私を抱きしめたか細い腕が、私の中にもあったのです。
目の前に揺れる、あまりに美しい紅色の花。あの世とこの世の境目に咲くという、彼岸花のようでした。か細く、線を伸ばすように揺れる花びらは、時折、私の目をじっと見つめるのです。思わず、手を伸ばしました。一枚、また一枚。私は花びらを抜きとりました。あまりに儚い花びらは、私の手元からふわりと離れ、白い雪の上をぽとりぽとり、と、血液のように滲ませていきます。花かと思えば、血液のようであり、なにかの印のように見えたのです。その印が何か知りたくて、私は飛んでいく花びらの行方に足を伸ばしました。
ユキ、ユキ
どこからか聞こえた声は、舞い散る花びらとともに消えて行きました。けれど、私は、自分の口から発しました。
「ユキ、ユキ」
わたしの名前。私が生まれた時、私を抱いていた誰かが、私の体に名前をつけた。それが、わたしの印。わたしは、ユキだ。
おいで、おいで。あの声が、だんだんと遠のいてきます。
乳白色の空に、打ち上がるかのように紅色の花びらはひらひらと舞い、呼応するかのように細やかな雪が降り注ぎ、わたしは。
「そして、あなたは、今ここに。戻ってきたということですね」
その女は、静かに言いました。
はい。
「印を見つけて、あなたは、今ここに」
「はい」
私は、生まれた時からユキだった。
どこまでも、これからも、私は唯一人のユキだった。