表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

乳白夜

作者: 白椿

あなた。死の淵を見たのでしょう


その女は、言いました。

真っ白な肌に、するりとしたしなやかな首に、何も映さない真っ黒な瞳。

長いまつ毛は、まばたきをするたびに目の下に深い影を落とします。

形のいい小さな唇は真っ赤に染まり、私はその紅にどこか見覚えがありました。

「満月の雪降る夜。漆黒と乳白が重なり合うあの夜に、行き着くものだけ行けるのです」

女の口から、真新しい白い息がこぼれました。

「けれど、行ったら最後。戻ってくることは不可能なはずでした」

私は、声も出さずに、頷きました。

今年は、厳しい冬でした。満月の夜、すべての力が満ちる時、外に出てはいけない。

それは、古くからの言い伝えでした。この地に辿りついてから、長らく守ってきましたが、ある日ふともういいのではないか。と、思ったのです。

繰り返す日々の中、朝目覚め、夜は眠り。食料を探し、家の中で暖をとる。

冬の間は特に誰かに会うこともなく、身寄りもなく。目の前に映るのは、変わることのない窓の向こうの雪空に、ただひたすらに白い虚無。私が何者なのかすらわからないままに、日に日に私は自分を忘れていくようでした。

ある朝。いつものように扉を開ければ、小さな小狐が横たわっていました。

「凍死している」

一人呟き、その小さな体を弔うために、私は穴を掘ったのです。冬を越せなかったものたちが、体を凍てつかせ、生を止める。封じ込められた時とともに、ひいらぎの枝葉で小さなほこらをたてました。

手を合わせた私のもとに、その言葉は聞こえ始めたのです。

もう、お前も時を止めてもいいのではないか。私は、じっと耳をすませました。

朝目覚めても、夜、眠りにつく時も、もういいではないか。その言葉は、日に日に大きくなるのでした。


「決して、戻らないつもりでした」

私の言葉に、女は黙って頷きました。口元の紅が、うっすらと開きました。

「あなた、何を見たのでしょう?もしかして、あの湖の淵のほとりに咲く紅い花にみたのでしょうか?」

女の真っ黒な瞳の中に、あの夜の吹雪が姿を現しました。

あの日。みごとな満月でした。

窓越しに月と目を合わせた瞬間、時を止める時が来た。そう思ったのです。

吸い寄せられるように、扉を開け、私は歩き始めました。すべてが満ちていく。その言葉を肌で感じながら、黙々と歩きました。頰を切るような寒さも、えぐるような痛みに変わり、意識が朦朧としていく中、もうすぐたどり着く。そう思った瞬間、私は足を取られ、深い穴へと沈んで行きました。

目覚めれば、そこは静かな乳白夜。

先ほどまでの吹雪は嘘のように静まり返り、満月は見えずともぼんやりとした白い光が佇んでいるのです。

死ねたかもしれない。一瞬、頭によぎりながらも、私の体はまだ器用に動き、吐き出す息も白かったのです。手元にも、足元には真新しい雪。ふかふかとした触り心地とともに、冷たくなっていく体。ここがどこかわからずとも、あせることもなく、手のひらで溶けていく雪をぼうっと見ておりました。ぼんやりと、目の前に浮遊する白い光を見つめながら、私は誰だったのか。そう、思いました。すると、光の中から赤子が泣くような声が聞こえたのです。思わず手を伸ばすと、私はするりと、その光に吸い込まれていきました。

真っ赤な顔をした赤子が、泣いておりました。体は青紫色に染まり、息を吐く間もないくらいにおぎゃあおぎゃあと、叫んでいます。その小さなあたまを愛おしそうに撫でては、涙を流す女が一人。人目もはばからず、その女を強く抱きしめる男がありました。

「ユキ、ユキ」

そう言葉を発しては、涙を流す女の顔にはどこか見覚えがありました。それは、記憶の彼方でしか存在をしてこなかった母でした。そして、抱きかかえられたのは生まれたばかりの私自身だったのです。右肩にあるくっきりとした柊のような形のアザは、紛れもない私のものでした。幼い物体を抱きしめては、泣き始める男と女は、とても奇妙なものでした。三歳を最後に、父と母と離れ、生きてきた私にとって、両親などあってはないようなもの。誰かの腕に抱かれた記憶など、ありはしません。そんな私にとって、その光景はあまりに不思議なものだったのです。

「ユキ」

とても愛おしそうに、私の名前を呼ぶのです。名前を呼ばれたことなど、いつのことでしょうか。食い入るように、眺め続けました。

「ユキ」

思わず、その言葉が私の口からこぼれました。その瞬間、その光景はあっという間に消え去りました。

もといた穴にただ一人。私は、穴から這い上がりました。そこにも、すでに吹雪はありませんでした。からからと喉が乾きました。周りを見渡せば、遠い向こうに、湖のような水の気配を感じたのです。

ただひたすら、そこを目指して歩きました。近づくにつれて、それは姿を現しました。

ひそやかな湖でした。風ひとつないにもかかわらず、どこからか、水面は波紋を広げ、響きあうかのように美しく弧を纏います。そろりそろりと、近づけるところまで、すすんでいきます。きらきらと反射した水面はあまりに美しく、その奥深い中身はどこにも見当たらずに、他人事のように輝いているのです。

こっちへおいで。こっちへおいで。

危うさを感じながらも、その切実ささえ、甘美なものでした。

もう少しだけ、近づきたい。

手を招かれるかのように、誘われるかのように、私は身を乗り出しました。

おいで。こちらへ。おいで、おいで。きっと、楽になれる。

その時です。足元に、はっきりとした紅い何かが見えました。あまりに、美しい紅でした。見惚れるかのように、呆然と眺めては、我に返ったように、手招きをする水面に視線を戻しました。

おいで、おいで。その声に頷きながらも、私は紅の花から目を離せずにいました。しびれをきらしたかのように、どこからか深い影が、湖の淵から立ち上ってきました。私の真隣でゆらゆらと揺れながら、包み込むように手を伸ばします。

「おぎゃあおぎゃあ」

どこからか、また赤子の泣く声と、何かが私の腕を抱きしめるかのように引っ張りました。

「ユキ、ユキ」

どこからか、私を呼ぶ声が聞こえます。立ち上るかのような黒い影は、私を眺めるかのように、静かに止まりました。

私が生まれたあの日。

雪の降らないはずであろうあの国に、初めて雪が降ったといいます。それを奇跡だと呼ぶものもあれば、これから起こる天災の前触れだというものもありました。世間が沸き立つ中、私は声を張り上げ、この世に生を持ちました。雪というものを、生まれて初めて見たであろう両親たちは、その名の通り、私にユキと名付けたのです。そして、三歳を機に、私は親元から里親へ出され、国を出され。もの心がついた時から、一人で生きてまいりました。私が辿り着いた国では、雪は当たり前のように存在し、私達の生活を時に支え、時に脅かし。日常にあるがゆえに、私の名前の意味など、遠いどこかで忘れておりました。けれど、私にも記憶があったのです。私が、ユキと名付けられたあの時、私を抱きしめたか細い腕が、私の中にもあったのです。

目の前に揺れる、あまりに美しい紅色の花。あの世とこの世の境目に咲くという、彼岸花のようでした。か細く、線を伸ばすように揺れる花びらは、時折、私の目をじっと見つめるのです。思わず、手を伸ばしました。一枚、また一枚。私は花びらを抜きとりました。あまりに儚い花びらは、私の手元からふわりと離れ、白い雪の上をぽとりぽとり、と、血液のように滲ませていきます。花かと思えば、血液のようであり、なにかの印のように見えたのです。その印が何か知りたくて、私は飛んでいく花びらの行方に足を伸ばしました。

ユキ、ユキ

どこからか聞こえた声は、舞い散る花びらとともに消えて行きました。けれど、私は、自分の口から発しました。

「ユキ、ユキ」

わたしの名前。私が生まれた時、私を抱いていた誰かが、私の体に名前をつけた。それが、わたしの印。わたしは、ユキだ。

おいで、おいで。あの声が、だんだんと遠のいてきます。

乳白色の空に、打ち上がるかのように紅色の花びらはひらひらと舞い、呼応するかのように細やかな雪が降り注ぎ、わたしは。

「そして、あなたは、今ここに。戻ってきたということですね」

その女は、静かに言いました。

はい。

「印を見つけて、あなたは、今ここに」

「はい」

私は、生まれた時からユキだった。

どこまでも、これからも、私は唯一人のユキだった。








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ