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月不知のセレネー14

 惣介がピアノを弾き始めると何人かの通行人が足を止めた。カップルの男女や子連れの若い夫婦。そんな人たちだ。ひと組、またひと組と人は増えていき、やがて彼らは示し合わせたように通路の端に寄り始めた。無料の演奏会。それを聴くためにわざわざ集まったように。

 惣介はそんな観客のことなどお構いなしといった感じで淡々とアラベスクを演奏した。惣介が弾いているとは思えないくらい穏やかに。その演奏はまるで初夏の小川を流れていく木の葉のようにゆっくりと進んでいった。

 私はそんな演奏を彼の横に立って黙って聴くことしか出来なかった。余計な口は挟めない。それくらい惣介の演奏は上手かった。いや、上手いなんてチープな言葉で片付けてはいけないだろう。ある種、そこには確実な才能があるように感じる。

 私がそんな感動にも似た思いを抱いている間も観客は増えていった。通りすがりの人たちのはずなのに彼らは皆一様に同じ目的でここに集まっているように思えた。浦井惣介ピアノリサイタル。そんな言葉が脳裏を過る。

「ふぅー。こんな感じだよ」

 アラベスク第一番の演奏が終わると惣介はため息を吐いてからストレッチのようにその場で背伸びした。

「すごい……。プロみたいじゃん」

「いやいや。この程度でプロみたいとか言ったらプロに失礼だよ。俺のなんか味噌っかすみたいなもんさ」

 惣介は謙遜のように言うと苦笑いを浮かべた。

 そうこうしていると観客たちからやや大きめの拍手が起こった。場所のせいか拍手の音が反響して聞こえる。

「あ、どうも。お騒がせしてます」

 惣介は彼らに会釈すると項をボリボリ掻いた。おそらく予想外に観客が集まって恥ずかしいのだと思う。まぁ、付き添いの私も同じように恥ずかしく感じたのだけれど。

「じゃ、春川。弾いてみ?」

 惣介は流れ作業的にそう言うとスッとピアノ椅子から立ち上がった。

「いやいやいや! あんたの演奏の後にやらせるとか鬼か!」

「ん? そうかぁ? ま、大丈夫だからさ。とりあえずやってみろよ。人前で演奏するのは良い練習になるから」

 なかなかの無茶ぶりだ。予期せぬ観客プラスプロ並みの惣介の演奏。その後に弾かせるとか拷問と変わらないと思う。

「うー……」

「何だよ。だらしねーな。お前が選んだ曲だろ? それにアラベスクはただ弾くだけなら割と誰でも出来る曲なんだ。だからお前ににだって弾くこと自体はたぶん出来るよ。ま……。上手に演奏するとなるとちょっと話は変わるけどな。とにかく! とりあえずやることが大事だよ。 ほら、楽譜コレだから」

 惣介はそう言うとディバッグからピアノ曲の楽譜集を取り出して私に差し出した。

「何でそんなもん持ち歩いてんのよ??」

「うーん。いついかなる時に演奏要求されるか分からねーからさ。ほら、ピアノって弾けると周りが『おー!!』て反応してくれるじゃん? だから念のためだよ」

 もう意味が分からない。この男は一体何を考えているんだろう。

「分かったよ。やるだけやってみる」

「お、いーね。んじゃ! 行ってみよー!」

 そう言うと惣介は私の背中をバンと叩いた――。


 それから私は楽譜を読みながら必死にアラベスクを演奏した。当然のように何カ所も間違う。しかもその間違いを後ろの観客たちに聴かれているのだ。そう思うと胃がキリキリした。何で横浜まで来て恥をかかなきゃいけないんだ。そんな恨めしい気持ちになる。

 でも惣介はそんな私の演奏を笑うことなく真剣に聴いてくれた。普段のおちゃらけた態度など微塵もない。そこにあったのは私に対する期待と思いやりだけだと思う。

 だから私は必死になってアラベスクを最後までやりきることが出来た。四分という時間が途方も無く長く感じたけれど何とか弾ききった。我ながら良くやったと思う。内容はともかく自分の努力は褒めてあげたい。そんな気分だ。

「うんうん。初めてにしちゃ悪くねーよ」

 惣介はそう言うと鍵盤に指を乗せた。

「ただちょっと焦りすぎだな。特にここな」

 そう言って私の弾き間違えたパートを間違えた通りに弾いて見せた。この男の指先は一体どうなっているんだ? と怖い気持ちになる。

「うん……」

「たぶん指がもつれたんだよなー。うーん……。おそらく前のパートで運指が乱れんのが原因だよ。だから練習すべきは前のパートのここの部分。そこを直せばすんなり弾けると思う」

 惣介はまるで音楽講師のように私の演奏の欠点を指摘した。嫌味などなく。ただひたすらに私の成長だけを考えて。

 そう考えるといよいよ本格的に怖くなった。怖すぎて畏怖さえ覚えるほどだ。

「まぁ初回の演奏としては及第点だ。やっぱ春川すげーよ。俺だって最初はそこまで弾けなかったし」

 惣介はそう言うと私に席を替わるように促した。どうやらまた演奏するらしい。  

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