月不知のセレネー9
少し間を置いて遠藤さんが口を開いた。
「あの……。都内はちょっと厳しいですね」
彼はそう言うと難しそうに「うーんと」と唸った。
「実は僕市内でお仕事してまして。ひと月まるまる甲府を離れるのは厳しいんですよね」
遠藤さんはそこまで話すと「本当に申し訳ないです」と謝った。彼の口ぶりから察するに鍵山さんが上京するならに遠藤さんも同行しなければ厳しいらしい。
「そう……。ですよね」
「ええ、本当に申し訳ないですが」
そこで一旦会話が途切れた。そしてしばらく沈黙が流れる。
相変わらず外から小鳥のさえずりが聞こえた。さっきの鳥だけではない。今度はカッコウの声も混ざっている。そのさえずりは私が大学時代にゼミの研修で行った軽井沢のことを思い起こさせた。ブナの森と清流。そんな情景。
「んじゃ、しょうがないね」
私が小鳥の声に気をとられていると再び京極さんが口を開いた。
「したらこんなんどうかな? 月二回私が甲府まで出張するよ。で! 悪いけど鍵山さんたちにも月二で東京来てもらう感じ? そうやってすり合わせすればどうにかなると思うんだよね。あとは……。オンラインで小まめに打ち合わせって感じかな?」
京極さんはツラツラとそんなことを彼らに提案した。行き当たりばったりとは思えないくらい適切な妥協案だ。本当にこの子は頭が良いのか悪いのか分からない。
「そうですね……」
京極さんの提案に遠藤さんは少しだけ考え込んだ。そしてすぐに手帳を開く。
「僕としては……。そうですね。平日休みの仕事なので水金ならどうにかできると思います。月音は? どうかな?」
「私は大丈夫だよ。海音ちゃんが都合良ければ」
まさかの一発OK。私は心の中で「京極さんグッジョブ」と叫んだ。
「ありがとー。いやマジで助かるわ。流石に打ち合わせのたびここまで行くの厳しくてね……。いや、本当ごめんよ二人とも」
京極さんはそう言って身を乗り出すと鍵山さんと遠藤さんの手を強く握った。やれやれ。この人たらしが居てくれて本当に良かった――。
今後の予定が決まると私たちは再びピアノの置かれた大部屋に戻った。
「今日はわざわざ来ていただいてありがとうございます」
鍵山さんはそう言うとピアノの前に腰を下ろした。そして「何のおもてなしも出来ませんが……。よろしければリクエストで演奏させて下さい」と言った。おそらくそれは彼女なりの気遣いなのだろう。
「あの……。もし良ければ」
鍵山さんに振られて冬木さんが控えめに手を上げた。
「はい! 何でも言って下さい」
「それじゃあ、ショパンの別れの曲をお願いします」
「わー! ショパンですね。分かりました」
鍵山さんは嬉しそうに答えると鍵盤に指を乗せた。




