スプートニク・ショック30
唇と唇が触れる。彼の口から眠気覚ましのミントガムの甘い香りがした。それは惣介のそれとはまるで違う。ある意味その匂いは中性的な匂いだ。
最初、彼は私の口づけに戸惑っているようだった。
『僕はこんなこと望んでいない』
そう感じるくらい彼の肉体的反応は固まっていた。
それでも彼は私を拒絶したりはしなかった。次第に唇に走っていた緊張はほぐれ彼の手は私をしっかりと抱き寄せてくれた。互いの体温が熱くなる。心音も加速していく。すべてが男女の心的反応のままに。
きっと京介としてはこんなこと望んでいなかったはずだ。天体観測をして、幾つかの流れ星を数え、互いに何を願ったかを教え合う……。その程度のことしか想定していなかったと思う。
唇を通して彼と繋がっていると心がとても柔らかくなった。言葉では言い尽くせない何かがそこにはあった。それはきっと愛だとか絆だとかそういった類いのものだと思う。でも……。私はその感覚をそんなチープな言葉で片付けたくはなかった。そんな三文小説みたいな言い回しで片付けて良いはずがないのだ。
そんな私たちを余所に夏の風は優しく吹いていた。虫の声と木々のざわめきが遠くに聞こえる。
「急にごめんね」
私はゆっくりと唇を離しながらそんな事後報告的な言葉を吐いた。そこには秘密を告白したあとの後ろめたさに似た感覚があった。思いやりとは対極の。自分勝手で私利私欲に塗れた思い。
「いえ……」
京介はそれだけ言うと恥ずかしそうに私を抱きしめていた手を解いた。
「本当にごめんね。でも……。どうしてもキスしたかったんだ」
「そうですか……」
「嫌だった?」
「いえ」
「なら良かったよ」
そんなお見合いみたいな言葉を交わす。
「あの春川さん」
「なぁに?」
「僕は言葉選びが下手なんです。だからうまく言葉に出来ないんですが」
「うん?」
そこまで話すと京介は天を仰いだ。私もつられたように空を見上げる。
「ロシアの打ち上げた『スプートニク』っていう人工衛星があるんです。まだ冷戦時代の話なんですが」
「ああ、知ってるよ。ちょっと前に図書館でその本借りてったよね」
「はい。僕はあの衛星の話がすごく好きなんですよね。そうですね……。簡単に言うとあの衛星の打ち上げのお陰でロシアはアメリカに後れを取っていた宇宙開発で一時とは言え勝利を収めたんです。これはすごいことだと思うんですよね」
京介はそこまで話すと大きく深呼吸した。
「だからってわけではないんですが、僕は自分をあのスプートニクに重ねてしまうんです。いつも兄貴の後ろをついて回って、全てにおいて兄貴の劣化版でしかない僕にもいつかチャンスが来るだろうって……。まぁ、現実的には僕が兄貴に勝てることなんて何一つないんですけどね」
「そんなことは……」
私はそう口を挟んですぐに口を噤んだ。これは数値化して勝ち負けを決める話ではないのだ。彼と惣介の気持ちの問題。彼ら兄弟の目には見えない確執なのだと思う。
「正直に言えば春川さんにキスして貰えてすごく嬉しいです。包み隠しても仕方ないので言いますが僕は春川さんのことが好きですし、出来ることなら付き合いたいって真剣に思っています。でも……」
「でも?」
でも……。その言葉の先は聞きたくない。それを言わないでくれ。私はその思いを言葉にこそしなかったものの目で必死に訴えた。
「きっとここで春川さんのことを受け入れてしまったら僕は一生兄貴に負け続ける気がするんです。これは春川さんが悪いわけではなんです。ただ……。僕が傷ついた春川さんをかすめ取った……。そんな風になる気がして」
京介はそこまで吐き出すと首を大きく横に振った。
「そっか……」
「はい……。なのでもう少し。少しで良いので時間を貰えませんか? 今度は僕自身だけの力で春川さんに好きになって貰えるようにします。そうじゃないと……。僕はきっと一生後悔するから」
京介はそこまで話すと「本当にごめんなさい」と言った。あまりにも悲しい。そんな『ごめんなさい』だ。
ああ、なんてことだ。結果だけ見れば私は完全にフラれてしまった。きっと私は急ぎすぎたのだ。
夜空に浮かぶ星々はそんな私の思いなど全く意に介せず光り輝いていた。恨めしいぐらい綺麗に――。
そのデート以来、京介は図書館に来なくなった。それはあまりにも露骨な変化だったと思う。自業自得だった。そうとしか言えない。
結論だけ言えば大学在学中に私たちが特別な関係になることはなかった。それは呪いだったように思う。幸いなことにその呪いは時間が経てば解ける呪いだったのだけれど――。




