スプートニク・ショック16
透子さんと話をした翌日。私は履修していない西洋哲学史という科目の講義に出席していた。スライド式の大きな黒板にはニーチェの著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の一節が書かれ、哲学の教授がそれを熱心に解説していた。どう足掻いても今後の人生の足しにはならなそうな内容だ。まぁ、大学の講義なんてだいたいこんな感じなのだろうけれど。
私がこうして未履修の小難しい講義に出席しているのには理由があった。浦井惣介に会う。それだけの理由だ。今となってはこうでもしなければ彼には会えないのだ。おそらく私に会うのが嫌で惣介は逃げ回っているのだと思う。
惣介をとっ捕まえる。そのためだけ参加している講義だったけれど教授の話はそれなりに面白かった。別にニーチェの解説自体が面白い訳ではない。おそらくこの教授の語り口が大げさで滑稽に見えるのだ。おまけに教授の見た目が面白い。どっぷりした体型でまん丸な顔、さらに真っ赤で大きな鼻に明るんだ頬。まるでピエロみたい。そんな失礼な感想を覚える。
「――ここでツァラトゥストラはあの有名な台詞を吐いたわけでありますな!」
教授は力強く言うと黒板に『神は死んだ』と書き殴った。日本語にすればたった五文字のその言葉が急に神々しく思えた。当然、気のせいだと思う。
「えー! ここで言う神は我々日本人には馴染みが薄いとは思いますが! キリスト教の神ですな。この言葉には当時の教会に対する痛烈な批判がありまして――」
私はそんな教授の熱弁を片耳に入れつつ視界の端に映る惣介に目を遣った。彼はクスリともせずに黒板に書かれた内容を板書している。こういうところは真面目なのだ。育ちがいい……。のだろう。あの母親から生まれたのに不思議だけれど。
それから私はしばらくニーチェの哲学に耳を傾けていた。主人公であるツァラトゥストラが行く先々で暴論じみた意見を誰かに吹っかけては論破していく。そんな説話のようだ。聞きようによっては純文学っぽいと内容だと思う。カミュの異邦人……。アレに近いかもしれない。
「晩年のニーチェはそれはそれは壮絶だったようですな。哲学を志す者は一様にそうなるものではあるのですが……」
ツァラトゥストラの話が一段落すると教授はニーチェの晩年について残念そうに話し始めた。作品を発表したのに世間には評価されず、歳を取ってからは精神に不調をきたし発狂。そんな晩年だったらしい。あまりにも悲惨な老後だ。私だったら堪えられそうにない。
「――とまあこんなあらましでありました。おっと、今日はここまでですな」
教授は左手の腕時計に目を落とすと口角を上げて笑顔を作った。熱弁していたときに比べて幾分か血色が落ち着いたように見える。
私は『ありがとうピエロ教授。あなたの講義は割と面白かったよ。まぁ二度と聞かないと思うけど』と心の中だけで呟く。
さて……。これからが本番だ。惣介と決着をつけなれば。私は立ち上がると惣介の席に真っ直ぐ進んでいった。




