二つの鍵盤2
「ただいまぁ」
自宅のドアを開けるとそんな言葉を呟いた。
「おかえり。晩飯は?」
「済ませてきたよ。京介は? もう食べた?」
私はバッグをハンガースタンドに掛けながら彼にそう返した。
「うん。もう食ったよ。じゃあこれは冷蔵庫に入れとくか……」
彼はそう言うと手慣れた手つきでサラダと煮魚にラップを掛けて冷蔵庫にしまった。兼業主夫。いや、夫ではない。同居人。一応肩書きは彼氏だ。
阿久津京介。彼が私の部屋に転がり込んでどれくらい経っただろう? かれこれもう一年近く経った気がする。報酬付き自宅警備員。(ちなみに彼は在宅ワークしている。だから自宅警備兼主夫兼フリーライターだ)
「先に風呂入っちゃっていいよ。俺はもう少し仕事してから入るから」
「あらそう? じゃあお先」
なんて献身的な彼氏だろう。本当に至れり尽くせりだ。明らかに私より彼の方が家事は熟している気がする。高性能彼氏……。まぁ難点をあげるとすれば彼の兄貴と私が犬猿の仲だということだけだと思う。
それから私は彼の言葉に甘えて先にシャワーを浴びた。熱いお湯が身体中に纏わり付いた汚れと疲れを流し去っていく。最高に気持ちいい。体内に残っていたアルコールも消え去っていくようだ。
化粧落とししてから髪を洗った。それから身体中隈無く洗う。陰部は特に。他意は無い。キレイキレイにしたいだけだ。身体中がきれいになるのは良いことだ。素直にそう思う。
身体中ピカピカにしてから湯船に浸かる。「ふぅー」とオッサンみたいな声が零れた。これじゃ、どっちが女子か分かんないな……。と半ば自虐的な考えが浮かんだ。まぁ、事実だし仕方ないだろう。私は外で働く企画部社員。彼は多くの時間を自宅で過ごすフリーライターなのだから。
風呂から出ると身体に付いた水滴を拭き取った。肌が赤ちゃんのようにピチピチしている。私もまだまだ捨てたもんじゃないな。と今度は中途半端に自画自賛した。入浴中はいつもこうだ。アップダウンの激しい一喜一憂が起こる。
「お先いただいたよぉ」
私は風呂場から出るとリビングでパソコンに向かい合っている京介に声を掛けた。彼は「あいよ」とだけ返した。まるで古女房のような彼氏だ。
「スーツ、クリーニング出すなら玄関横のカゴに入れといてね」
京介は続けてそんなことを言った。私は「分かったぁ」とまるで母親に勉強の催促をされた子供のように返した。実際そんな関係に近いのかも知れない。京介は良妻賢母、私はクソガキ。そんな感じ。
「そういえば辞令出てね」
私は冷蔵庫でビールを探りながらそう言った。
「ふぅーん……。そう」
京介はまるで興味のないように生返事をした。おそらく今集中していて聞いていないのだ。私はそんなことお構いなしに続ける。
「企画部から新規立ち上げの部署に異動になったんだ。一応はプロジェクトリーダー的な感じだね」
「すごいじゃん。おめでとう」
「うん。ありがとう」
「で? どんな部署?」
そんな会話をしながら私は冷蔵庫から取ってきた缶ビールを京介の前に差し出した。そして彼の前に向かい合って座る。
「えーとねぇ。なんか作詞作曲関連でクリエイターを発掘する部署って感じだね。ほら、ウチのアーティストさんたちってみんな自分らで曲作りしてるからさ。ちょっと新しいことしたかったんじゃない?」
そう言いながら私は缶ビールのプルタブを開けた。プシューという気持ちいい音が鳴る。
「……にしても急だね。しかもこんな時期に辞令なんて珍しくない?」
「うーん、確かにそうだね」
彼に言われて初めて気がついた。本来、新部署の立ち上げにはそれなりの金と時間と労力が掛かるはずなのだ。それが秘密裏に行われていたとすればその裏には何か面倒ごとがあるのかもしれない。
「なんかなぁ……。また陽子ちゃんの不運が始まったんじゃないの?」
京介はそんなことをまるで茶化すように言った。すこぶる腹が立つ。そんな言い方だ。
「いやいや……。まさか」
私は苦笑いして首を横に振った。
「マジでさ。陽子は人が良すぎるんだよね。ほら、君って頼まれると断れないじゃん? どうせ今日だって辞令受けて曖昧に返事したら決まっちゃった感じだろ?」
図星だ。さすが高性能彼氏。京介はこういう男なのだ。単に家事のできるフリーライターではない。ボーッとしてそうでしていない。かなりの切れ者だ。
「う……」
私は思わず喉から声にもならないような声を漏らす。
「はぁ……。だからいつも言ってるだろ? もっとちゃんと考えて決めなよ」
『はい。すいませんでした。私がわろうございました。京介大先生には敵いませんな』と心の中で嫌みたっぷりに呟いた。もちろん口にはしない。言ったって京介は怒りはしないだろうけれど、私だってそんな売り言葉するほど子供じゃない。
「そうね……。気をつけるわ」
私はそれだけ返すと下唇を軽く噛んだ。本当に腹が立つ。