二つの鍵盤1
その日の退社後。私は同期のあかりと一緒にささやかな飲み会をした。場所は駅前の居酒屋。人数は二人。そんなささやかな祝賀会っぽい飲み会だ。
「陽子ー! 栄転おめでとう」
あかりはそう言うと嬉しそうにグラスを上に掲げた。中にはブドウジュース。見た目だけなら赤ワインに見える液体が入っている。
「ありがとう。栄転かどうかは微妙だけどね……」
「なぁに言ってんの! 主任から部長代理だよ! 大出世だよ。三階級特進じゃない!?」
あかりはそうまくし立てた。この子は前からそうなのだ。とかく喧しい。
「まぁねぇ。三階級特進に変わりはないけど……」
私は歯切れ悪い言葉を並べるように言うとため息を吐いた。まぁ、あかりの言うことも外れてはいないのだ。今日の午前中まで私は主任だったし、課長代理と課長をすっ飛ばしたとなれば確かに三階級特進だろう。
「ね! そうじゃん! いいなぁ。部長職ぅ」
あかりは甘ったるそうな声で言うと上目遣いに「いいなぁ」と繰り返した。
「いや、部長じゃないよ。部長、だ・い・り」
私はそんな風に代理の部分を強調して言った。あくまで代理なのだ。おそらく実際の部長相当の役職は西浦さんが兼任すると思う。
「んもう! 陽子は頭堅いんだから!」
「別に堅くはないよ。……ただ、あんまり浮かれてもいらんないってだけ」
そう、本当に浮かれては居られない。せっかく築いた企画二課主任のキャリアを捨てて畑違いの場所に飛ばされてしまったのだ。これはどちらかと言えばピンチだと思う。
「ハハハ、またまたぁ……。大丈夫だよ! 陽子なにげに器用だし何とかなるって」
陽子はそんな無責任なことを言うとブドウジュースを一気に喉に流し込んだ――。
あかり……。もとい本条灯と私は入社当時からの付き合いだ。同期入社で同部署。そして同い年。そんな関係だった。
入社当時。私とあかり以外にも同期の社員は何人かいた。でもみんな何かしらの理由を付けて三年以内に退職していった。スキルアップしたいだとか、実家の家業継ぐだとか……。そんな大義名分を掲げていた気がする。……大義名分。オブラートに包まず言えば『逃げる口実』だ。
自社を悪く言うのはどうかと思うけれど株式会社ニンヒアは世間的にはブラック企業なのだと思う。サービス残業をさせるタイプのブラックではない。パワーハラスメント。その一言で全てが説明がつくタイプのブラック。
だからだろう。営業部の同期は特に早く辞めていった。まぁ、仕方ない。あの部署には鬼が住んでいるのだ。西浦有栖と双璧を成す鬼の営業部長。広瀬彰良が……。
幸い、私とあかりは営業部への転属を命じられることはなかった。ずっと企画部企画二課。仕事内容は自社アーティストの取材と自社特集雑誌の作成。そんな感じの仕事だ。
そんな調子だったから私たちはずっとこの会社に居続けた。ある種の居心地と待遇の良さ。そして大きなストレスを抱えながら――。
「でも参ったなぁ。陽子がいなくなったらアーティストさんへのスケジュール調整と根回しが大変そうだよぁ」
あかりはまるでブドウジュースで酔っ払ったように言うと「マジで」と付け加えた。
「それは……。ほんとごめん。たぶん他の子たちが分担すると思うから……」
「それは! わかって……。るよ? でもさぁ。やっぱり陽子じゃなきゃダメなんだよぉ。特に……。あの『バービナ』のヴォーカルさん? あの子って癖強いからさぁ」
あかりは心底うんざりと言った感じで深いため息を吐いた。『おい、あんた。さっきまでおめでとうって言ってはしゃいでたろ?』とツッコみたくなる。
「京極さんねぇ……。あの子は確かにね」
「そうそう! マジであの子って田舎のヤンキーみたいじゃん!? 怖くて怖くて」
「田舎のヤンキーって……」
あかりの素直過ぎる感想に私は思わず吹き出した。確かにその通りなのだ。『バービナ』のヴォーカルはかなりヤンキー気質だと思う。
「そうだよー。京極さんに限らずウチのアーティストさんってみんな怖いじゃん……」
完全な偏見だ。と口から出かかった言葉を私は飲み込んだ。私だって最初はそうだったのだ。怖いとか暴力的だとか。入社当時はそんな歪んだ見方をしていた気がする。
「まぁ、アレだよアレ……。配置転換したからってそのことに関わらないわけじゃないんだから心配しないで」
気がつくと私はその場しのぎのようにそんなことを口走っていた。そしてまた一言多かったと後悔する。
「そう? でも新部署の仕事もあるのに大丈夫?」
あかりは甘い声でお伺いを立てるような言い方をした。『大丈夫?』と言いつつやらせようという魂胆が見え隠れする。
この女はいつもこうなのだ。ずるい女。思い返せばアーティストへの根回し担当が私になったのも最初はあかりからのお願いだった気がする。
「んぁもう! 分かったよ! やるよ! やれば良いんでしょ!?」
私は吐き捨てるように言うとビールを一気に飲み干した――。