二つの鍵盤16
鍵山邸のドアには三日月型のドアノッカーが取り付けられていた。インターフォンなどはない。家主の趣味だろう。おそらくは不自由と楽しめる程度には金持ちなのだと思う。
「すげー! これアレじゃん! 金持ちの玄関とかにあるやつ」
京極さんは一切気を遣わないように言うとそのままドアノッカーを打ち鳴らした。周囲に木と金属がぶつかったときの小気味の良い音が鳴り響く。
「京極さん。頼むから余計なことは言わないでね」
「あいよ。ったく信用ねーなー」
私たちがそんなやりとりをしているとドアから鍵が開く音が聞こえた。そしてすぐに若い男性が顔を覗かせる。
「夜分遅く失礼します。私、株式会社ニンヒアの春川と申します」
と私はできうる限り好感を持って貰えるように明るく挨拶した。私のあとに京極さんも「同じく京極です」と挨拶する。まぁ普通だ。今のところは問題ない。
「お待ちしてました! どうぞ」
男性は笑顔でそう言うと私たちを家の中に案内してくれた。彼の印象は普通に好青年だと思う。きっと私の隣にいるこのイカれた娘より何倍もまともだろう。
家に入ると鼻孔に木とニスの香りが突き刺さった。何年か前に友人に誘われて出掛けたログハウス。その匂いによく似ている。室内は空調が行き届いているか、暑くも寒くもない。そしてこんな山奥だというのに部屋中の調度品はどれもこれも高級そうに見えた。高級そう……。まぁ、庶民感覚の私がそう感じるだけなのかも知れないけれど。
「東京からだと遠かったですよね。ここはすぐに分かりましたか?」
男性は口元を緩めながらそんなありきたりな質問を私に振った。そこには営業職をしている人間特有の空気が纏わり付いていた。腹の中での考えと口から出る言葉の乖離。そんな商業人的な匂いがする。
「いえいえ。今は高速もありますので……。お陰様で甲州街道からここまで迷わずたどり着けました」
「そうですか。それは何よりです。ここにいらっしゃる方は皆さん道を一本間違えたりするんですよね。まぁこんな山奥ですからね。致し方ないのですが」
私たちがそんな『オトナノカイワ』をしている横で京極さんはつまらなそうに指先をいじっていた。この子はこの手の空気感が嫌いなのだ。
「どうぞ、こちらです」
彼はそう言うとリビングのドアを強めにノックした。そして「セレネー。入るよー」と声を張る。
「セレネー、お客様をお連れしたよ。ニンヒアの春川さんと京極さんのお二人だ」
彼はそんな風に妙に説明っぽい口調で私たちを彼女に紹介した。鍵山月音。私にとって二人目のビジネスパートナー。
「初めまして。株式会社ニンヒアの春川です」
「同じく京極です」
私たちはさっきと同じように自己紹介した。思えば今日は五回ぐらい自己紹介している気がする。
「ハジメマシテ。お待ちしてました」
彼女は抑揚のない声で言うとその場に立ち上がった。背は思っていたより高い。線は細く、指先はピアニストのように細長かった……。いや、訂正。一応彼女はピアニストだ。
私がそんなことを思いながら彼女の姿を眺めていると月音さんは小さな声で何かを呟いた。
「……でしたか?」
「はい?」
私は反射的に聞き返す。
「月は綺麗でしたか?」
「月……。えーと、月は」
そんなことを聞かれて数秒間、私は固まってしまった。
まず夜空に月はあっただろか? そしてなぜそんなことを聞くのだろうか? 私の聞き間違え? そんな思考が数秒の間に私の頭を駆け巡る。
そんな風に私が戸惑っていると京極さんが「今日は月見えなかったよ」とサラッ口にした。さらに「だって今日新月じゃん」と付け加える。
「フフフ、そうですね。今日は新月らしいですね」
月音さんは京極さんの言葉に嬉しそうに答えた。
「ああ、そうだね。今日は新月だ。だから夜空綺麗だったよ? こんな山奥だから月がなけりゃ他に光源らしい光源ないからね」
「そっかぁ……。やっぱりそうだったんですね。いいなぁ」
月音さんは嬉しそうな。同時に悲しそうな言い方をすると私たちの方へ歩み寄ってきた。そして右手を差し出した。指先は少しだけ震えている。
「鍵山月音です。今日はよろしくお願いします」
彼女はそう言うと瞼をゆっくりと開いた。奥に焦点の定まらない眼球が新月のように浮かんでいた。




