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41 SAN値の貯蔵は充分か?

 

 さらに四日が経った。


(ハンクスたち、無事かな……無事だといいなぁ……あの頃は楽しかったなぁ……ふ、ふふふふふ……)


 真剣に精神が参ってきた。ハンクスたちと一緒にいた日々が遠い昔のことのように思い出される。なんだか視界にももやがかかっているみたいで、寝ているんだか起きているんだかよく分からない。

 ノルドは必ず夕刻に来て、報告書を読みながら俺としばらく話して出ていく。変わり映えのしない毎日。リーナは一日おきにこの部屋の警備兼監視の任務に当たっているようで、今日も無表情で扉の脇に立っている。


 コンコン


 ノックの音。俺は立ち上がる。リーナが扉を開ける。ノルドが入ってくる。


「ごきげんよう、セイリュウ」

「ごきげんよう、ノルド」

「ちゃんと挨拶ができて偉いなぁ。ええ子、ええ子。さ、座り」

「はい」


 背筋を伸ばして、ちゃんと目を見てお話をして、一緒にいて嬉しいなら笑顔になる。うん、よし、だいじょうぶ。しっかりできてる。俺はいい子だ、いい子。


「ええな。起きた時間も、食べたもんも、ちゃんとしとる。本は読み終わったんやな」

「はい。とても面白かったです」

「次のを用意するな。明日の朝には届けさすさかい、待っとってな」

「はい。ありがとうございます。楽しみにしています」

「ええ子、ええ子。そしたら今日は――」


 ふいに、カチャン、と音が鳴って、俺の手に何か温かいものがかかった。

 目をやると、すぐ隣でティーカップにお茶を注いでいた従者の人が、顔を真っ青にしていた。テーブルの上には横ざまに転がったティーカップ。何かに引っ掛けたのだろうか。中身がこぼれて、テーブルからしたたり落ち、俺の手にかかっていた。


「も、申し訳ございません、ヒジリオ様! すぐにお拭きいたします!」

「大丈夫です。気にしないでください」

「申し訳ございません……!」


 従者の人は震えながら俺の手を拭いて、床を拭き、テーブルを拭き、ティーカップを新しいものに取り換えた。あっと言う間にお片付け完了。素晴らしい手際の良さだ。プロってすごいなぁ。

 俺がぼーっと感心していると、


「ちょっと来ぃ」

「っ……はい」


 ノルドの冷たい声に、従者さんは全身を震わせて、しかしすぐに従った。


「アンタ、さっきセイリュウに何しはった」

「申し訳ございません」

「謝罪やのうて聞かれたことに答えろや」

「……お茶をこぼしてしまい、ヒジリオ様のお手にかけてしまいました」

「せやな。どないして責任とる?」

「……申し訳ございません。どうか、お許しを――っ!」


 何かが飛ぶ音。それが人に当たった音。陶器が割れた音。小さな悲鳴。液体の散らばる音。それらがほとんど同時に聞こえた。


「二度目や。聞かれたことに答えろ」

「っ……」


 従者の人が頭からお茶をしたたらせていた。足元には割れたティーカップの破片。それでも気丈に立っている。――ノルドがティーカップを投げつけたのだ、と理解した瞬間、俺の視界が急に冴えた。

 反射的に立ち上がって、従者さんとノルドの間に立つ。


「ちょ、ちょっと待った! 待ってくれノルド!」

「セイリュウ?」

「やり過ぎだって! ちょっとお茶がかかったくらいでそんなにしなくてもいいだろ?!」


 従者さんは慌てた声で「おやめくださいヒジリオ様、わたくしが悪いのですから……!」と囁いてきた。

 が、知ったことか!

 俺は従者さんの持っていたタオルを奪って、その人の頭を拭った。


「うわ……おでこ裂けてんじゃん……」


 ティーカップが当たったところだろう。額が割れて、血が流れていた。血は拭いたそばから溢れてくる。痛そう……。

 従者さんはまだ若い女の子だった。たぶん十七とか八とか。この世界の人って年上に見えるから、もしかしたらもっと年下かもしれない。こんな若い子がきちんと俺の世話をしてくれていて、なのにたった一度のちょっとした、本当に些細なミスで、顔に傷を残すなんて……――そんなこと、あっちゃ駄目だろ!


 俺の涙腺は簡単に決壊した。さっきまでぼーっとしていた反動かもしれない。

 せっかく出てきた涙なら有効に使わなければ! 慌てて従者さんの手を取って、そこに涙を落とす。

 それからすぐに目元を拭って顔を上げた。


「治った? ああ、治ったな。良かった」


 従者さんはびっくりした顔のまま固まっていた。額にあった傷は綺麗に塞がっていて、血が流れた跡だけが残っている。それも拭いてあげる。


「ごめんな、本当に。責任とかそういうのはどうでもいいよ。怪我したわけでもないんだし」

「で、ですが……」

「セイリュウ」


 ノルドの声が真後ろから聞こえた。肩に手がかかる。


「なに勝手なことしてるん?」


 俺の体は条件反射的に震え出した。恐る恐る振り返る。

 ノルドの顔に笑みはなく、鋭いレモン色が俺を貫くように見ていた。


「小さなほころびを見逃したら、そこから全体が崩れてくんやで。人間、完璧になるのは無理や。せやからこそ、完璧であろうとせなアカン。そのためには、ミスをその場で、徹底的に潰さなアカンのや。分かるな?」


 理屈は分かる。正論だとも思う。でも。


「だからって、暴力は駄目だ。それに、許されるチャンスは与えるべきだよ」

「許されるチャンス?」


 ノルドは冷笑した。


「そんなもんはない。悪い子にはお仕置きがあるだけや」

「なぁ、ノルド――」

「勝手なことして、ボクに逆ろうて。今のセイリュウは悪い子やな」


 その言葉にぞくりとした。背中に毒蛇がべたーって乗ってる気分。怖いし、気持ち悪いし……怖い。


「なんでこない悪い子になってしもたんやろ。……あぁ、あの三人のせいか」

「え」

「セイリュウの顔を立てて、生かしといてやったけど、なんやあの三人が生きてる限り、セイリュウはええ子になりきれんのやな。よぉくわかりもした」

「はぁ? え、ちょっと待っ――」

「すぐに処分するさかい、安心してな」

「待って! 処分って……!」


 思わずノルドの腕にすがりついた。処分ってつまり殺すってことだろ?!

 ノルドは笑った。ちょっと困ったように、眉尻を下げて。


「あの三人を処分したら、ええ子のセイリュウが戻ってきてくれるよなぁ」

「しょ、処分なんかしなくても戻ってくるよ! いい子にする、もう絶対に逆らわないし勝手なこともしないから、だから!」

「セイリュウ」


 ノルドがゆっくりと腕を持ち上げて、俺の手をそっと外した。

 頬が冷たい手に包まれる。


「ボクかてツラいんや。せやけど、アンタを守るためなら我慢できる。セイリュウ、堪忍やで。ちょっとの辛抱や。ええな」


 よくない、と叫んだつもりだった。だが実際は何も言えなかった。

 レモン色の瞳が離れていく。冷たい手は俺から体温を奪って、もう何も言わずに去っていった。


 俺は膝から崩れ落ちた。




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