第5話 またつまらぬものを切ってしまった
主人公は図書館で後輩を待ちます。
急いで来たものの、神崎さんは図書室にはいなかった。俺は手持無沙汰で、図書館のテーブルに腰を掛けて、図書室の中を観察する。
俺は意外と多くの生徒が出入りしていることに驚いた。ある男子生徒は俺が図書館にいるのを見ると驚いたような表情をして、話しかけてきた。
これでも男の間では有名人なのだ。
「中井じゃん。何やってんの?」
男子生徒は驚いたような表情をしている。
「生徒会の仕事だよ」
俺はこう答える。本当は神崎さんに会計を教えるためだが、周り回って生徒会の仕事であることには間違いないからだ。
「学食の増量、頼むぜ!」
だいたいの男子生徒が俺に言ってくることはこれに尽きる。俺はその言葉にいつものように応じる。
「ああ。期待しといてくれ」
俺は、生徒会選挙で『学食を増量する』という公約で男子生徒からの圧倒的な支持を得て当選したのだ。と言っても周りに担ぎ上げられて、調子に乗って言ってしまっただけなのだが……
当選した時、先生にはポピュリズムを具現化したような奴だと言われた。俺は、ポピュリズムがどんな意味か、未だに分かっていない。
葵ちゃんは、15分くらい経って図書室にやって来た。俺の姿を見ると早歩きで近づいてきて、本当に申し訳なさそうに謝りだした。
「ちょっと、図書委員会の仕事があって。お待たせしてしまってすみません」
腰を折って、ぺこぺこと謝っている。そのまま折れてしまいそうな勢いなので、俺は神崎さんを止めるように、手を肩の前に出して起こっていないことを伝える。
「大丈夫! 本を読んでたからさ」
その言葉を聞いて、俺が読んでいた本に目を向けた神崎さんは、びっくりしたような表情をして尋ねた。
「あ! 中井先輩、『騎士のアリア』を知ってるんですか?」
それに、手を振って否定しながら答える。
「いやいや、神崎さんが読んでたからどんな話かなって思って。好きなの?」
神崎さんは、その問いかけに、少し考えるようにしながら、答えた。
「そうですね……えっと。騎士のアリア、好きになったかも、です」
「そうなんだね! 俺も読んでみようかなと思ったんだけど、本読むのが苦手で、タイトルのアリアが出てくるまでたどり着かなかった」
それを聞いて神崎さんは目を丸くしながら言う。
「え? アリアって2ページ目くらいには出て来てたような……」
俺は正直に答える。
「いや、ほんとに無理なんだ。1ページでも辛い」
神崎さんは少し間を空けてから、口元に手を当ててくすくすと笑い始める。
神崎さんは笑いながら、隣の椅子に腰を掛けた。鞄を机に置くと筆記用具を取り出す。俺は勉強を始める前に、と前置きして尋ねる。
「神崎さんって何て呼ばれてるの?」
「葵って呼ばれることが多いです」
「じゃあ、葵ちゃん、で良いかな?」
「はい」
やっぱり、苗字よりも名前やあだ名で呼んだ方が、距離が縮まると思う。俺は大抵の人を下の名前で呼んでいた。ただ、女子は名字で呼ぶことが多いので、葵ちゃんと呼ぶのはちょっと緊張した。
「じゃあ、さっそく始めようか」
俺は千尋の説明を参考に、この質問から始めることにしていた。
「ところで、葵ちゃんって家計簿って付けたことある?」
「はい!」
おお、家計簿を付けている高校生がいるとは……正直驚いた。
そこから先の説明は、ほぼ千尋の受け売りだった。俺が一週間かけて理解した内容だったのに、葵ちゃんはセンスがあるのか、すぐに理解していった。正直、嫉妬するレベルだ。
でも、教えている時の葵ちゃんの反応が面白くて、そんなことは気にならなかった。
「この本も資産なのかなあ」
「うーん。どうなんだろうねえ。あの本は資産っぽいけど」
一番分厚い本を指さしてそう言う。俺には、本が資産なのかどうかなんてわからなかった。だけど、反応が面白くて、ついつい、下らないことばかり言ってしまう。
一通りを教え終わったところで、気づくと窓の外はオレンジ色になっていた。
「そろそろ帰ろうか!」
葵ちゃんは図書室の鍵を閉めると、図書室の前でペコリとしながら言った。
「今日は、ありがとうございました」
俺は「全然、問題ないよ!」と応じる。実際、楽しかったし、と思う。
廊下を歩いていると、職員室に向かう分かれ道のところで、葵ちゃんはこう尋ねてきた。
「中井先輩は電車通学ですか?」
「そうだよ」
葵ちゃんはそれを聞くと、こんな提案をしてきた。
「私、駅の方にあって! 途中まで一緒に帰りませんか?」
その言葉に少し嬉しくなった。正直、もっと葵ちゃんと話したいと思っていたからだ。
「もちろん」
「そうしたら、少し待っててください。鍵を返してきます」
そう言うと、葵ちゃんはとことこと走って職員室に向かった。俺は「ゆっくりで良いよ」と言ったのだが、葵ちゃんは「待たせるのは申し訳ないので!」と言って、そのまま走って職員室に向かった。
合流してから校門に向かって歩いていると、葵ちゃんは思い出したように質問をしてきた。
「生徒会の石川先輩って、なんで、ゴエモンって呼ばれているんですか? 生徒会選挙のときに不思議なあだ名だなって」
それを聞いて思い出す。生徒会選挙のときね……
■■
「学食の量を増量します!」
俺のその宣言に演説会場の体育館は湧きに沸いた。
「うおおお!」
そんな様子を見て、体育教師が壇上に上がってきた。俺の演説を止めようとしているのは明らかだった。
「おい! 中井、いい加減にしないか!」
そこでマイクを取ったのは会計の立候補者だった。拓哉は先生の名前を呼ぶと、一切迷いのない表情でこう言った。
「この場で教員が介入するのは、表現の自由に反すると考えます」
体育教員は一瞬立ち止まって驚いた表情をしていたが、再び怒りの表情を浮かべると拓哉に対して怒号を飛ばした。
「屁理屈を言うんじゃない!」
拓哉はそれに怯む様子も無く、マイクを持って教員に近づきながら、こう続ける。
「公約を果たすことが出来るかも含めて、投票者が判断するというのが民主主義です。仮に色物だとしても、それを排除するのは選挙の趣旨を損ないます」
そして、俺の方を見ながら、試すように言った。
「出来なければ中井君が信用を失う。それだけのことです」
その言葉に体育教師は食い下がったが、拓哉は負けずに応戦していた。内容は拓哉が言っていることが圧倒的に正しいように思えた。
そして、何よりも会場の雰囲気は完全に傾いていた。
「良いぞ! ゴエモン!」
誰かがそう言いだすと、男子生徒たちのコールの合唱が始まった。
「ゴエモン! ゴエモン!」
そんなコールが響く中で、進行役が残り30秒のベルをならした。俺は、この場に登壇した本当の目的を果たすために、マイクを取った。
■■
本当は、ちょっと言いたいことがあって立候補しただけなんだけど、気付いたら男子生徒たちに担ぎ上げられちゃったからな。
あの時、俺を止めようとした先生を、止めてくれたのが拓哉だった。拓哉が味方してくれたのは意外だった。いや、味方と言うよりも拓哉には信念があったということだろう。
その一件から、俺は拓哉によく絡むようになった。冷たい奴だと思われがちだけど、意外と熱いところもあって、面白い奴だということが分かった。
そんなわけで、俺は、ゴエモンと呼ばれている理由も知っている。
「ちょっとカッコ悪いよね」
俺がそう言うと、葵ちゃんはこくりと頷いた。
「あいつ、昔から剣道をやってるんだって。すごい腕前らしいよ」
俺は竹刀を振るような動きをしながら続けた。
「それで、名前が、石川だろ? だからゴエモンだってさ」
「剣道……?」
葵ちゃんは釈然としないように、手を口の前に置いて首を傾げている。ピンときていないようだ。
よし! 一発やってやるか。
俺は振りつけも合わせて、某キャラクターの真似をする。
そして、少し前に足を出しながら、渋い顔で言う。
「またつまらぬものを切ってしまった」
しかし、葵ちゃんからは反応が無い。振り返るとぽかんとしていた。
「え? 何ですか、それ?」
心の底から疑問に思っているという表情だ。
「え? いや、気にしないで。ははは」
俺が誤魔化すように笑っていると、葵ちゃんはふふっと笑った。
「中井先輩って優しくて、面白いですね」
優しくて面白い。その言葉に心が弾んだ。
「そうかな?」
でも、スベったことを思い出して、自分が恥ずかしくなった。
「あ、俺の帰り道、こっちだからここで」
居たたまれなくなって、そんな嘘を付いてしまった。本当はもう少し先まで行けるのに、プライドが邪魔をする。
「また、明後日の放課後に図書館で」
「え? あ、はい!」
葵ちゃんはきょとんとした表情でそう言うと、離れていく俺に向かってこう言った。
「今日は、ありがとうございました!」
その言葉に、後ろを振り返らずに片手をひらひらさせて応じる。
優しくて面白い。
その一言に気分を良くして、俺は弾むように駅に向かった。スベったことの恥ずかしさよりも、その嬉しさが勝っていた。
途中で、ここは葵ちゃんの地元なんだから、駅までの道なんて知っていることに気付いて、少し死にたくなった。