帰宅後はカップ麺、そして
「結局、あのときの答え、聞いてないよね」
急にそう言われて、光圀は困惑したが、別に頭の中を読まずとも、察したようだった。
『ああ〜、はいはいはい、あのときのな。さあて、なんて答えようとしたっけな〜。またカップ麺でも食えばな〜、思い出すかもな〜』
「もう……わかった。たしかお母さんが買い溜めてるから、今作るよ」
『はっはっは! さすがはわしが見込んだ女子だな! わかっておる!』
その見込んだ理由こそ美哉は聞きたいのだが、もしかしたらカップ麺を食えば、そのことにも触れるかもしれない。
さて、光圀は「食う」と簡単に言うが、具体的には美哉と感覚を共有することになる。
さっき体を乗っ取られた状態と大した違いはない。ないのだが、光圀曰く「お前の反応が見たいから」と、あくまで行動自体は美哉に任せている。
もしかしたら気を遣ってくれているのかもしれないが、それなら早く天国だかどこだかに帰って欲しい。
ただ、今の美哉にとっては親や同世代の子よりも、付き合い易い人であるのも本当だった。
それが突飛な性格のせいなのか、単に存在感のせいなのかは、美哉にもまだよくわからない。
確かな事実としては、美哉は少しずつご飯を食べるようになっていた。
お弁当も残さずに食べられる。学校で先生や友達に心配されたくないからというのもあったが、光圀のおかげで気が紛れているらしかった。
それを感謝する気はないが、少しは気を遣ってあげてもいい相手ではある。
今回、美哉が戸棚から見付けたのは、いわゆるどんぶりサイズの中でもスタンダードな、味噌味のラーメンだ。美哉の年齢だともはやCMも見たことがないぐらいに、生まれたときから当たり前にある商品だ。
「あのときのとは違うんだけど、いい?」
『構わんよ。わしはまだ当世の麺経験値が低いからな。色々と食ろうてみたい」
「麺……経験、値?」
『この一ヶ月で麺類は何度も食わせてもらったが、どれも食感や汁の絡み方が違う。こんなに沢山の種類の麺は、わしが生きてた時代なら一生かかっても食う機会は無かった』
気にしたことも無かったので、改めて説明されてみると、自分の手にあるこの小さなカップ麺が、何やら秘境の珍品のように美哉には思えてきた。
『あっ、一応言っておくが、当時の料理も悪いもんじゃなかったぞ。生活の余裕はあまりなかったがな』
「……おじいちゃんから見て、今の……私の暮らしってどう見える?」
「ま、昔のわしには劣るわな」
「えー? ほんとにー?」
説教めいたことでも言われるかもと思ったから、冗談めかされて、美哉は嬉しかった。
光圀の暮らしといっても大きく分けて、子供時代と、水戸徳川家の当主として暮らした時代、そして隠居時代の三つがある。それぞれにおいて住んだ場所も異なる。
そのどれを光圀が思い出しながら言ったのかは、今の美哉には与り知らぬことだった。
『ふむ、このカップ麺は三分か……この格好になって良かった点は、視力が回復したことだなあ』
お湯を入れてから、光圀が蓋に書かれた文字を見ながら言った。
台所のテーブルの椅子に腰掛け、楽しそうに出来上がるのを待っている光圀を眺めていた美哉は、興味のままに訊ねた。
「私と同化したときってどんな風に見えるの?」
『そうだなあ、説明が難しいんだが……透き通った水の中にあるものを見てる感じに近いぞ。だからちょいと距離感の把握が難しい。慣れたけどな』
「あんまり慣れないで欲しいんだけど?」
軽く言った美哉に対し、光圀はやや重めに聞き返した。
『……お前さん、あんまりわしのこと邪魔にしとらんよな。なんでだ? 年頃の娘なら、もっと色々あるだろ』
「邪魔にしてるよ」
『そ〜か〜? さっさと死ねクソじじい! とか言われるぐらい覚悟しとるのに。まあ死んどるんだが』
そこら辺について突っ込まれると、美哉の方が困る。
ただ、悔しいことに、この光圀がいてくれた方が……今は楽しかった。
それを口にして、本当に一生取り憑かれるとかいうことになったら、それはそれで怖い。美哉はスマホのタイマーを少し早めに手動で止めた。
「もう食べよっか」
『おう』
紙の蓋を開けると、中から湯気が立ち上る。
カップの中だけでなく、今や役目を終えて切り離された紙蓋の裏地に付いた水滴を、光圀は愛しそうに眺めた。
スープから立ち上る味噌の香りは少しツンとした刺激がある。
『おお、この味噌の香りは味噌のようで味噌じゃない……この品用に味噌らしさを追求した感じだな』
「確かにお味噌汁とは違うかな? あんまりお味噌には詳しくないけど」
『ま、御託は味の後付けってな。とにかく食そうぞ』
「うんっ!」
いただきます。
合掌と同時に、美哉と光圀の感覚が共有される。美哉側からすると、今までの生活では経験が無いぐらい、食事に集中できる精神状態になる。他のことが気にならなくなる、といった方が正確だろうか。
これが光圀の食事に向けられる視線の質なのかもしれない。
美哉が箸で麺を口に運ぶと、そこからはどちらがどちらということはなくなった。
ズズッ、ズズッ。ズッ、ズッ! ズズズズズズズ! ズルズルズル! ズズズ!!
カップ麺を燃料にエンジンがかかったかのごとし。気持ちの良い音でリズムを作って、一心不乱に食していく。
時折、箸を止めて口の中で味と香りを楽しみ、そしてまた啜る。
最初は麺を中心に、半ばからはスープも一緒に。カップ麺の容器に口をつけることも厭わず、加速度的に中身が減っていく。
ズズズズズ! ズズーーーー! ズズズッ! ズッ……。
「ふうーーー! 美味しかった!」
大食いする生活をしていない美哉にとってはカップ麺一つで結構な満腹である。
『うむ、美味であった。後味がすっきりしてるのは他にあまり無い特徴だな』
「具に野菜が多めだからかな? 胸焼けしないよね」
『なるほどな。これには袋麺版もあるんだろ? この間、スーパーに行ったときに見たぞ』
流石にそういう所は目ざとい。美哉は笑いながら答えた。
「あるけど……私が台所で火を使うとお母さんが嫌がるから、いるときに作ってもらうね」
『うむ。最初は娘の料理する機会を封じるのは不思議に思ったが、一家の長として火の管理に厳しいのは当然ではあるからな。機会を待とう』
「……単に私を信用してないだけだと思うよ」
あまり好意的に言われたものだから、美哉はつい、反論してしまった。
それについて、光圀は少し考えた様子だったが、答えた。
『たとえ親子でも、信用できない、したくない相手とは一緒に暮らせんし、暮らそうとは思えんもんだぞ』
「そうかな……」
『現にお前だって、母親を信用してるから言いつけを守ってるんじゃないか?』
「あっ、そういう見方もありなんだ」
『ありあり。何でもありさ。良いように考えたもん勝ちだよ』
言い包められただけのような気もするのだが、なんだか少し、気が楽になった。
まだ子供だからとか、親が相手だからとかじゃなく、美哉自身がどう思うか。その大切さが少しだけわかったような感じが美哉にはしたのだった。
そんなとき、インターホンが鳴った。二人暮らしになったときに母はカメラを設置していたから、壁にかけられた小さな画面からその映像を見ると、見覚えのある男性が立っていた。
「お父さんだ」