光圀との出会い〜私が霊に取り憑かれたわけ〜
「いぃいい〜〜〜た〜〜〜いいいい〜〜〜」
『加減したんだがな〜』
自宅の一軒家で、美哉が手と頭をタオルで冷やしながら痛みを訴えている。
あのとき光圀は美哉の体を、ありていに言えば乗っ取ったわけだが、身体能力が増すわけではない。相手を殴れば自分の手が、頭突きをすれば頭が痛くなる。鍛えていない美哉の場合はいわずもがなだ。
それでも痛みだけで済んでいるのだから、光圀の動きは冴えていた。冴えていたが、美哉にとっては不満が強い。
美哉も頭では、光圀のおかげで自転車とまともにぶつからずに済んだことは理解している。
しかし、感謝よりもまず、言っておきたいことがある。
「なんで避けるだけで済ませないで、殴ったわけ?」
光圀が相手の右脇腹を掌底で打たなければ、あの運転手のことだ、そのまま知らん顔で通り過ぎていただろう。
椅子に座った美哉から放たれる視線を、光圀はテーブルの上であぐらをかきながら受け止めていたが、やがて口を開いた。
『お前のような娘には言うことでもないかもしれんが……』
「いいから教えてよ」
『まあ、そうだな』
言い澱んでいた光圀は、ため息を一つ吐いてから、言った
『ああいうのは、殺せそうなときに殺しておくべきだ』
「……は?」
『武士たるもの、危難に臨んでは我が身を大事にし、さりとて悪は見過ごさず、手打ちにするのが責務である』
美哉の頭のタオルがぽろりと落ちた。頭はもう、十分に冷えた。
「じゃあ、刀を持ってないことを感謝しろって言ったのも脅しじゃなくて……」
『ああ。持ってたら確実に斬っておったぞ』
要約すると「気に食わない奴は殺す」と大差ない。
「武士ってみんなそうなの!?」
『さあなあ』
「さあなあ、って……いい加減!」
『怒るなよ。一口に武士って言ってもな〜。わしはほら、なんせわりと偉い人だったし? 泰平の時代でも、公私においてこれ全て戦いだったからな?』
美哉は改めて、光圀本人について確認することにした。
「おじいちゃん……水戸の光圀さんって、ラーメンとか食べた人じゃないの?」
近頃だとメディアでは光圀についてはそういう紹介の仕方から興味を持ってもらおうとする。美哉もちょっとは聞いたことがある。
流石にこんな状況になってからは自分でもネットで調べようと思ったことはあるが、本人が見ている前で調べ物をするのも気が引けて、ちゃんとした確認はできていない。
光圀は美哉の話を聞いて、大げさに首を振ってみせた。
『それ』
「どれ?」
『それだよ、ラーメン。他にも色々食ったけどな……なあ、いいか? 食いたいものがあったら、自分で探す、作る、食う。それが普通だろ? それを生きてる間に愚痴られるばかりか、何百年経っても……』
光圀はそう言うが、熱心さが尋常ではない。わざわざ中国から来たお坊さんに教えを請うてまでラーメンを作って食べたというし、その手のエピソードには事欠かない。
美哉はそこまで突っ込んだ話をするつもりはなかったから、別のことを気にした。それも、わりと個人的な理由から。
「よくわかんない。私、そこまでご飯に興味ないから」
『わしと知り合った頃からずっと言ってるな』
「うん……」
光圀には口でこそ説明していないが、美哉は一時期、拒食症になりかけていたぐらいだった。
彼女が中高一貫の学校に合格した頃から両親の仲が露骨に悪くなり始めて、二年生になった今年にはとうとう、父親は家を出て行った。
子供の自分が何かできるわけでもないが、何か訴えたくて、でもどうしたらいいかわからなくて……気付くと食事を遠ざけるようになっていった。
食べるのは栄養食品と、心配した母親が作ってくれる野菜のお味噌汁だけ。噛むのも億劫に感じられるときがあった。
そんな生活が続いて、夏休みに入った。光圀と出会ったのはそんな時期……今からつい一ヶ月前のことだった。
父親にキャンプに誘われた美哉は、面倒臭くはあったが、断って面倒なことになるのも億劫で「日帰りならいいよ」と承諾した。
母親には勝手に承諾してしまったことを報告したら「必要になったら」とお小遣いをくれた。
美哉は父親のことが特別好きでも嫌いでもない。仕事で家にいないことが多かったし、それは母親についても同じだった。
ただ……父親は落ち着きのない人だった。人と話すのが苦手なのかもしれない。それが恥ずかしいからか、美哉の母親に何か問い詰められると、すぐに怒った。
どっちが悪いのかは、美哉にはわからない。
でも、と美哉は思う。
その喧嘩は……私の前でやらなきゃいけないことなの?
「こういう所でカップ麺を食うとな、美味いんだぞ! これぐらいなら食べられるだろ?」
「うん……」
漫画か何かで影響されたのか、父親は見晴らしの良いキャンプ場でカップ麺を作ってくれた。
しかし、美哉の箸は動かなかった。
「ごめん、なんか、見られてると食べ辛い……」
嘘だったが、父親は「じゃあ、お父さん、ちょっと車に行って来るから」と席を外した。
戻って来るまでに、なんとかしなきゃ。
そう思えば思うほどに箸が動かなくなった。
ダメだ、どこかに捨てよう。
いけないことだとはわかっていたが、美哉には耐えられなかった。吐き気さえしてきた。
彼女はロッジの建物の裏側に回り込むとカップ麺の中身を捨てようとした。
そこに、ちょっとした腰掛けられそうな大きさの岩があった。昼時の今はちょうど木陰になっていて、苔も生しておらず、動物が昼寝にでも使いそうな場所だった。
「そこはねえ、黄門様がお座りになったんだよ」
「ひゃあ!?」
びっくりして振り返ると、ロッジを管理している農家のおばあさんが、ざるを片手に立っていた。
「ああ、驚かせてごめんねえ。でも、若い子が興味を持ってくれたのは珍しいからさ」
「黄門様って……水戸黄門?」
「そうそう、良かった、知ってて。今じゃもう、テレビでも時代劇はほとんどやってないだろう? とにかくあの黄門様がさ、お忍びでこの山まで来て、その岩に座って弁当を食ったって、うちの家では昔から言い伝えられてるのさ」
「ふうん……」
美哉の家はこの山と同じ県内にあって、小学校の頃から水戸黄門の話は少し聞いている。それなりに所縁がある土地だから、学校でも少しは教えるのだった。
曰く、子供の頃は不遇だった、そして努力して立派になった……ありきたりな偉人伝。でもちょっとだけ変わってる人。そんな程度の印象の人だった。
黙ってしまった美哉の迷惑になっていると感じたのか、おばあさんは「邪魔したね」と笑って、歩いて行った。
美哉が黙ったのは、疑問を抱いたからだった。
「ねえ、黄門様。そこまでして食べたお弁当、どんな味だった?」
『その問いに答えてやる前に、その手に持っている、のびかけのカップ麺、わしにもちょっと食わせろ』
その言葉と同時に現れた人物こそが、水戸光圀だった。
それからずっと、彼は美哉と一緒にいる。風呂とトイレのとき以外は。