2-5
長くなってしまいました。
王立劇場の怪人。
その噂は、劇場の関係者たちの間でのみ、脈々と引き継がれてきたのだという。
「この劇場は古くての。地下は迷路のように入り組んでいてわしらでも迷うくらいだし、何かのときのために作られた秘密の抜け道もある。怪人はの、普段はその地下に住まわっているのだと言われてきたのだよ」
暗く冷たく伸びる石造りの地下道のさきに怪人が立つ光景を思い浮かべて、さすがのシェイラも身震いした。ゴースト慣れをしていたって、そのシチュエーションはやっぱりゾクリとする。
――ふと、後ろから圧を感じてちらりと盗み見れば、ラウルが鬼神モードに片足を突っ込んだような、非常に険しい表情をしている。もしかしたら、怪人を追って地下道に鬼神隊を投入させる手順でも考えているのかもしれない。
「だが、彼はこうも言われていた。『王立劇場にふさわしい真の歌姫が舞い降りるとき、怪人は彼女の前に姿を現す』と。実際に、その時代を象徴する歌姫が劇場に生まれたとき、彼はこの劇場に現れたのだよ」
王立劇場の初演を飾ったレイチェル・コスナー、時の王族をも虜にしたミシェル・レイ、異国の客人の心を掴み外交の活路をひらいたエレナ・ウィンスレットーー。
王立劇場に光り輝く天使が舞い降りるとき、ひっそりと物静かに、怪人も地上へと出てくる。ときには蝋燭のゆらめく影のなかに、ときには鏡の向こうから響く美しい調べのなかに、ときには誰と知れず置かれた一凛の薔薇のなかに、彼はその気配を漂わせてきた。
劇場の関係者はそれを、王立劇場の守り神からの祝福だと歓迎した。
「実際に彼の姿を見た者はほとんどいやしません。けれども間違いなく彼はここにいる。私らにちゃんとわかるのです。そうやって代々に語り継いできたのですが……」
そこで言葉を区切って、ウェイブはふたりの歌姫――そのうち、アイリーンをちらりと見やった。それだけでピンと来たのだろう。腕を組んで話を聞いていたラウルも、真っ赤な瞳でアイリーン・バトラーを真っすぐに見据えた。
「なるほど。劇場にふさわしい歌姫が舞い降りるとき、怪人は姿を現す――。ミス・アイリーンは、怪人に〝ふさわしい歌姫〟と太鼓判をもらったわけか」
ラウルの視線を受けて、アイリーン・バトラーはゆっくりと瞬きをする。彼女のかわりに勢いよく頷いたのは、総支配人のブランだった。
「左様でございます、オズボーン様!」と彼は身を乗り出した。そして、沈黙を守ったまま視線を伏せたアイリーンを示し、熱っぽく語った。
「当劇場において、怪人に選ばれるのは誠に名誉なことなのでございます。そして、アイリーンは怪人に選ばれるにふさわしい、まごうことなき歌姫です」
「怪人が現れる……気配を感じる、といったか。それはいつからだ」
「忘れもしない、4年前のことじゃ。まだここにはいなかったエイミーを除いて、全員が覚えておるはずですよ」
ラウルの問いかけに、再びウェイブが答える。
4年前、アイリーン・バトラーは初めて王立劇場の舞台に上がった。その頃の王立劇場は客足が減少傾向にあり、劇場関係者たちはどうやって観客を呼び戻すか頭を悩ませていた。
そこで白羽の矢がたったのが、当時まだ無名の新人だったアイリーンだ。彼女は王立劇場の専属女優となってから日は浅かったが、すでに抜群の歌唱力と舞台映えする存在感でウェイブやデヴィットに将来を見込まれていた。
そこで新人としては異例ながら、彼女は主演として王立劇場のデビューを飾った。
これが大当たりをした。演目そのものは長く王立劇場で演じられてきた古典だったが、評論家たちがこぞってアイリーンを絶賛し、それがさらなる話題を呼んで劇場は連日満席だった。
怪人がはじめてアイリーンの前に姿を現したのは、そんな最中だった。
「その日はたまたま開演直前にキャンセルがでまして、2階ボックス席にひとつだけ空きがありました。公演はつつがなく進み、その日も最後はスタンディングオベーションで、大喝采のなか舞台は幕を閉じました」
そんななか、カーテンコールで舞台に上がった彼らは、誰もいないはずの2階ボックス席に人影があることに気づいた。顔や服装などははっきりとわからなかったが、たしかに人の姿をしていたという。
そして、すべての観客がいなくなったあとスタッフが2階ボックス席を調べたところ、座席に一凛の真っ赤な薔薇が置かれていた。
以来、彼の姿をはっきりと見た者はいなかったが、気配だけは公演のたびにどこかで感じてきた。怪人がアイリーンを見守り、祝福してくれているのだと、ウェイブはそのように好ましく思っていたという。
「『天使と怪人』の構想が浮かんだのも、アイリーンが彼に選ばれたからじゃ。物語では、一度は怪人を悪用してライバルを蹴落とす誘惑に囚われかけた主人公が、最後は己の力で道を切り拓くことを選ぶ。そのとき彼女は真の歌姫として完成され、怪人に祝福を与えられるのじゃ。……私は彼を、悪だと思ったことも、そう描こうと思ったことも一度もない。何か誤解があるならば、お嬢さん、あなたにそれを見つけ出して欲しいのです」
「ウェイブさん……」
穏やかな緑色の目でまっすぐ見つめられて、シェイラはぐっと膝の上で手を握りしめる。ウェイブは本当に、怪人のことを信じ『友人』と思っているらしい。その想いは、彼女の胸をも熱くさせた。
まかせてください。そうシェイラが答えようとしたとき、「待ってください!」と女性の声がそれを遮った。
声を上げたのは主人公のライバルとなるもうひとりの歌姫役のエイミー・ダーエだった。興奮した様子で身を乗り出した彼女は、音がしそうなほど鋭くウェイブを睨んだ。
「『古い友人』ですって? まだそんなことを言っているんですか? 私はその『友人』に殺されかけたんですよ!」
「エイミー、落ち着いて……」
彼女を宥めようとしたのは、舞台監督のデヴィットだ。隣に座るアラン越しに、エイミーのそれに自身の手を重ねようと伸ばすが、手が届くよりも先に彼女は立ち上がってシェイラに訴えた。
「怪人は善良な『友人』なんかじゃないわ。私は奴に、舞台に上がれば殺すと脅されているの。お願い、一日でも早く奴をこの劇場から追い出してちょうだい!」
「脅迫状を、怪人と名乗る者から受け取ったんですよね」
観客席で、ラウルがあらかじめ教えてくれた通りだ。シェイラから話を振れば、エイミーは勢い込んで頷いた。
「ええ……! ええ、そうよ! 『お前は王立劇場にふさわしくない。自ら降りなければ、鮮血が舞台に幕を下ろすことになる』。あのおぞましい手紙が楽屋に置かれたのは、昨夜の公演前。そのあとは見たでしょう? もしも劇が進んでいたら、私はあの照明に当たって死んでいたわ!」
「その手紙を見せていただくことは?」
「燃やしたわよ! 決まっているでしょ、あんなもの手元にあるだけで震えが走るもの」
自らの身体を抱いて身を震わせたエイミーの返答に、その答えを予期していただろうユアンがやれやれと首を振る。そのあとを引き継いで、シェイラは彼女に問いかける。
「脅迫状は楽屋にあったんですね? 誰が置いたかは見てないんですか?」
「見てないわ……。舞台の準備をするために楽屋に入った時には、すでに鏡台の前に置かれていたんだもの」
「脅迫状のこと、皆さんには伝えたんですか?」
「言ったわよ! 特に支配人には脅迫状を見せて、すぐに舞台を中止してと頼んだわ! それなのに、このひとと来たら……!」
「こらこら私を責めないでおくれ! ああ、オズボーン様。今回の件は、私の危機意識の低さが招いたことだと呆れられたかもしれません。しかし、これには訳があるのです」
エイミーの糾弾を受けて、ブラン支配人はすぐにラウルに向かって揉み手をする。後ろをうかがい見ればラウルは嫌そうな顔をしつつ黙って聞いているから、支配人はいつもこういう調子なのだろう。そのまま彼は、いっそコメディアンのような清々しさで弁明を続けた。
「私のもとには、それはもう非常に多くのご意見が日々届きます。その多くは喜ばしいものですが、時にその……穏やかでないご意見も頂戴します。その全てを真に受けていたら、当劇場は公演のほぼ半数を休演しなければならないでしょう」
「わかった、わかった」と、ラウルはうるさそうに手を払った。
「要は、お前はエイミー・ダーエから脅迫状を見せられたが、緊急性のある内容とは思わなかった。だから開演した。そうだな?」
「はい、ええ、まったくもってその通りでございまして……」
ほっと肩を落としたブランを、ものすごい形相でエイミーが睨んでいる。なんとも剣呑な空気が流れるなか、「一応、聞いておくが」と前置きしてラウルがエイミーに問いかけた。
「王立劇場にふさわしくない――。手紙に書かれた内容に、思い当たる節は?」
「ないわよ‼ ……ああ、けど。差出人が怪人じゃないなら、そういう馬鹿げたことを言ってくる人間にはいくらでも当てがあるわ。つまり、私が大役に抜擢されたことを面白く思わないひとが、この劇場にはゴロゴロいるってこと」
憤慨した様子から一転、どこか小ばかにしたような笑みでエイミーが答える。その変化に驚きつつ、昨夜、純粋に彼女の歌声に感動していたシェイラは思わず口を挟む。
「なぜです? 昨日は途中で終わってしまったけど、私はエイミーさんの歌声にとても引き込まれました。あんなに素晴らしい歌声なのに、どうして……」
「それがやっかみってものだよ、お嬢ちゃん」
答えたのは、それまでつまらなそうに沈黙を貫いていたグウェンだった。さすが怪人役を担うだけあって、つい聞きほれてしまいそうな深みのある良い声だ。けれども続けて話した内容は、なかなかに厳しい内容だった。
「そう、エイミーを疎ましく思う人間はたくさんいる……。悪いが俺は怪人もゴーストも信じてないし、そういったモノ共があれこれ企むなんざ、もっと信じられねえ。脅迫状を出したのは人間。照明が落ちたのも人間の仕業、そうでないなら偶然に重なった事故。そっちの線で調べるべきじゃないんですかねえ、憲兵隊の皆さんよ」
「やめないか、グウェン!」
ラウルが気分を害してしまっては困ると思ったのだろう。ブランが慌てて、グウェンを諫めにかかる。
「君も、恐怖におびえるひとびとの姿を見ただろう。昨夜、『彼』は間違いなくホールに姿を現したのだ。これだけ条件が揃っているのに、事件と『彼』が無関係なんて、そっちのほうが不自然じゃないか!」
「おいおい、随分と怪人=犯人説を推すじゃねえか。案外、支配人が犯人だったりしてな。それならエイミーに訴えられても舞台を中止しなかったのも、頷けるってもんだ」
「な!? いったい君は、何を言い出すんだ!?」
「ここにいる人間で怪しいやつなら、ほかにもいるぜ」
仰天するブランを放っておいて、グウェンは劇場の仲間たちをぐるりと見渡す。そして、まずは手始めとばかりに舞台監督のデヴィットを指さした。
「監督、よくないぜ。あんた妻帯者のくせに、エイミーにすっかりご執心じゃないか。けど、彼女には素っ気なく振られてばかり……。そろそろ腹立たしくもなってくる頃だよな?」
「ば、バカを言うな!」
「アラン。俺は気の毒でならないよ。君は裏方スタッフとして完璧に仕事をしているよ。なのにすっかり大女優気取りのエイミーに顎で使われている。あれじゃあプライドも傷つくよな」
「そんな、僕は……」
「エイミー。大騒ぎをしたわりに、怪我ひとつないなんて運がいいじゃないか。同情票を集めるための自作自演なら、さっさと白状したほうがいいぞ」
「なんですって!?」
「それから次は……」
席の並びに合わせて順に指さしていたグウェンだが、すぐ隣に座るアイリーンを指そうとしたところで、ぴたりと言葉を飲み込んだ。それからなぜか、あえて反対隣に腰掛けるウェイブを先に指さした。
「大先生、あんたが一番難しい。強いて動機を想像するなら……あんたはこの劇場に伝わる怪人の謎を愛している。崇拝していると言ってもいい。怪人をまぎれもない『本物』にするために、一芝居打ったってのはどうだろう?」
「悪くない案だが、誰かが傷つく方法はいただけないのう」
ウェイブはのんびりと答える。それに軽く笑ってから、グウェンはもう一度アイリーンへと戻った。
それまで呆気に取られていたシェイラだが、アイリーンを指さすグウェンがわずかに緊張しているように見えて、おやと首を傾げた。ほかの仲間たちについて言及するときは軽口をたたくような気軽さだったというのに、一体どうしたというのだろう。
だがそれは一瞬のことだった。グウェンはすぐに、皆に向けていたのと同じニヤニヤ笑いを口元に浮かべた。
「アイリーン。君ほど怪しい人間は、ほかにいないだろうよ。4年前から王立劇場の一番の歌い手である君の地位を、初めて脅かす存在が現れた。いっそのこと、エイミーを消してしまいたい。一度ぐらい、そう思ったことがあるんじゃないか?」
「……くだらないわ」
王立劇場の歌姫は、心底嫌そうに吐き捨てた。彼女は答えるのも億劫だといわんばかりに眉根を寄せ、それからグウェンを睨んだ。
「女優としての戦いは、舞台の上で決着をつける。演者として当然のことよ」
「はっ、さすが看板女優さまは言うことが違うぜ」
おどけた仕草で肩をすくめ、グウェンは首を振る。それから、思いのほか気遣わしげな目をしてシェイラに苦笑した。
「お嬢ちゃんには、せっかく来てもらってすまないと思うよ。けれど、ゴーストの仕業だと決めつけるより先に、我々人間こそ調べるべきじゃないかな」
「なら、あんたはどうなんだ?」
「ん?」
グウェンの視線がシェイラの後ろ――ラウル・オズボーンへと移る。傍目にもハラハラしているのがわかる支配人の心配とは裏腹に、鬼神隊の鬼隊長はいっそ愉快そうに、グウェンへと問いかける。
「あんたのおかげで、ほかの人間のことはよくわかった。けど、肝心のあんたはどうだ。怪人の名を語り、エイミー・ダーエを狙う理由が、あんたにもあるのか?」
グウェンの眉がぴくりと動く。それから彼はなぜか、ちらりと横を見た。もしかしたら彼は、先に座るエイミーを見ようとしたのかもしれない。けれどもシェイラはなぜか、彼が見たのがアイリーンであったように思えた。
そしてグウェンは自嘲的に笑った。
「『痴情のもつれ』。どうですか、ロマンチックでしょう?」
「あ、こら、グウェン! どこに行くんだ!」
ふいに立ち上がって席を離れたグウェンを、ブラン支配人が慌てて引き止める。けれども彼は、後ろ手をひらひらと振った。
「トイレだよ、トイレ。あんまりにみんなが怖い顔して睨むんで、腹が痛くなってきた。隊長さん。申し訳ないんだが、続きはアイリーンにでも聞いてくださいよ」
そのままグウェンは、どこかへと歩いて行った。それが引き金となって、ほかの関係者たちも続々と席を立ってしまう。グウェンが思わせぶりに名前を挙げたアイリーンにしても、何かを聞き出す前にすっと離れて行ってしまった。
恐縮しきった支配人だけが、ぺこぺこと何度も頭を下げ続けている。その彼もついにいなくなり、まわりにはラウルとユアン、そしてシェイラだけが残った。
特に示し合わしもせず、ラウルとユアンがそれぞれに、シェイラを挟んで隣に座る。片や足を組んでくつろぎ、片や情報を整理するかのように思案にくれ、しばらくの間沈黙が流れる。
「思うに、これは提案なのですが」
先に沈黙を破ったユアンが、かちゃりと眼鏡を押し上げる。そのまま彼は人差し指を立て、大真面目な顔をして上官に進言した。
「怪しいので、とりあえず全員、牢に入れてみるべきかと」
「よし、それでいこう」
「ダメですよね!?」
ノリノリで返すラウルに、シェイラは思わず突っ込みを入れる。すると、両側から同時に吹きだす音がした。
「すみません、冗談です」
「そうしたいのはやまやまだが、後で問題になるからな」
けらけらと笑いながら立ち上がったふたりの憲兵隊に、シェイラは憮然とする。どうやら自分はからかわれたらしい。だが、彼女が何か文句を言うより先に、シェイラの目の前にラウルが手を差し出した。首を傾げて見上げれば、狩りの真っただ中の獣のような獰猛な光を瞳に宿して、ラウルがにやりと笑った。
「さあて、君の出番だ『霊感令嬢』。いよいよゴーストを探しに行くぞ」
「え? でも、あの人たちのことはもういいんですか?」
「気にしないでください。あくまであなたは、目の前のゴーストに――怪人に集中してくだされば、それでいいのです」
にこやかに、それでいて有無を言わさぬ笑顔でユアンに告げられ、シェイラはそのまま押し切られて頷いてしまう。そんな彼女を立たせて、ラウルは唐突にシェイラの手首を摑み、自身の側へと引き寄せた。
「ゴースト捜索は、俺と君のふたりで行う」
とん、とシェイラの肩がラウルの胸に当たる。まるで抱き寄せられたかのような距離に驚くシェイラに、ラウルは低く囁いた。
「ゴースト相手は専門外だが、君を守れる剣は俺だけだ。――絶対に、俺から離れるなよ」
「あなたこそ、ね?」
そうユアンが呟いたのは、生憎とシェイラの耳には届かなかった。