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ラウルは次に、舞台の上にシェイラを連れて行った。初めて見る舞台袖のあらゆる装置に目を奪われてキョロキョロしながらステージに出ると、落ちた照明により傷ついた照明やら天井やらを調べていた憲兵隊たちが一斉に立ち上がり姿勢を正す。
ぎょっとするシェイラだったが、ラウルは慣れた様子で「かまうな、捜査を続けろ」と手短に指示を飛ばす。対する憲兵隊もラウルがそう言うことをわかっていたのか、すぐに元の作業に戻っていく。
(本当に、鬼神隊のひとたちが来ているんだなあ……)
アレコレと働いている彼らの胸元にある対の剣のマークをみて、しみじみとシェイラは頷いてしまう。凶悪犯に正義の鉄槌を下し、王都の平和を守る治安維持組織。その彼らが捜査しているところを間近に見るのは、なかなかに非日常な経験だ。
加えて、ラウルだ。彼が舞台の上に立ったことで、憲兵隊たちのなかにピリリとした緊張が走っている。
ふたりきりでいるときはシェイラが恐縮してしまわないよう多少は配慮してくれていたのだろうが、こうして部下たちを前にすると迫力がまるで違う。赤い眼光を鋭く飛ばして仁王立ちする姿は、あらためて彼がかの有名な鬼隊長であることを思い出させる。
そのように感慨にふけっていたところ、ひとりの憲兵隊がラウルに話しかけてきた。
「遅かったですね。あと10分ほど早くこちらに来ると踏んでいましたが」
「細かい奴め。10分なんて誤差にも入らん」
「これだからあなたは。公演は今日明日がキャンセルとはいえ、明日にはここに修繕が入りますし、リハーサルもする予定になっています。我々が十分に捜査出来るのは、実質的には今日だけなのですよ」
「調べる必要があるなら、中で何やってようがはいりゃいいだろ。支配人だって、ゴースト騒ぎを鎮めるためなら協力を惜しまないっていってるんだから」
「そのように市民の善意に甘える前にすることがあると、私が何度……」
突如、目の前で繰り広げられる言い争い――というには、ギスギスした感じはないが――に、シェイラは呆気にとられた。というか、さきほどからラウル・オズボーン相手に歯に衣着せぬ物言いをしているこの男は誰なのだろう。
そもそも、男、でいいのだろうか。
というのも、芳醇なミルクティーのように上品な色をした髪は長くのばされており、緩やかに編まれた三つ編みが肩へと垂れている。銀縁眼鏡をかけた白い細面は中性的で、女と言っても十分通用する。唯一男性だとわかるのは身体つきだが、それでも所作といい体系といい荒々しさとは無縁の上品さが漂っており、鬼神隊の一員とはとても思えない。
そのように様子を窺っていると、視線に気づいた男が恭しく頭を下げた。
「失礼、ご挨拶が遅れてしまいました。私は憲兵隊第二部隊、副隊長のユアン・ブリチャードと申します。あなたがシェイラ・クラークさんですね。この度は無理を言って我々に協力いただき、誠にありがとうございます」
「あ、いえ! こちらこそ、不束者ですがよろしくお願いします」
改まって頭を下げられ、シェイラは恐縮する。隣でラウルが「おい、俺よりユアン相手のほうが腰低くないか?」などと言ってるが、それは違う。ただユアンと話していると、なんとなくこちらも背筋を伸ばさなくてはならないような気になるだけだ。
シェイラの答えを受けて、ユアンはもう一度にっこり微笑む。それから彼は「ところでお話があるのですが……」とラウルの腕を引っ張って舞台端へと連れて行った。
残されたシェイラは、手持ち無沙汰に待ちながら鬼神隊が現場検証をすすめるのを見ていた。
……照明の残骸は、すでに片付けられたのかそこにはない。代わりにささくれだった舞台の床板が、落下した時の衝撃の強さを物語っている。あのとき舞台上に人がいなかったのは本当に幸運だった。あんな物がぶつかったら、怪我ではすまなかっただろう。
次に天井を見上げてみるといくつものバトンが渡されており、なかには照明が設置されたものもある。憲兵隊たちのちょうど真上がちょうど不自然に間隔が空いており、おそらくそこにあったものが落下したのだろう。
舞台のうえの装置はどれも年期が入っていて、劣化していてもおかしくはない。とはいえ、遠目に見ている分にはほかの照明に設置が不安定な様子はなく、当然ながら簡単に落ちるような代物とは思えない。
目を閉じて、シェイラは昨夜のことを思い浮かべる。
青い蝶と、ホールに浮かぶ怪人のゴースト。
甲高い悲鳴に、逃げるひとびと。
演者たちが袖へと下がり、空になる舞台上。
そこに照明が落下し、音を立てて砕け飛ぶ――。
「ったく、しつこいぞ! 問題ないと言っただろう、大丈夫だ!」
突然響いた大きな声に、シェイラはぱちんと目を開けて後ろを振り向いた。すると、舞台袖にユアンに連れていかれていたラウルが、ユアンの制止を振り切ってずんずんとこちらに歩いてくるところだった。
「待ちなさい、隊長……ラウル‼ 万が一、途中で動けなくなりでもしたら……っ」
「またせたな。こいつとの話は終わった」
ユアンの言葉を途中で遮って、ラウルはぐいっと親指で後ろを差す。だが、彼の肩越しに見えるユアンはぜんぜん話が終わったように見えない。どうすべきかシェイラが迷っていると、ユアンがこめかみを押さえて首を振った。
「いえ、私ももう大丈夫です。おまたせしました、シェイラさん」
「けど、いいんですか?」
「いいんです」
隊長は頑固なので……。独り言のように呟いて、ユアンが諦め顔でラウルを睨む。そんな部下の苦言をさらっと聞き流し、ラウルは上官としてユアンに問いかけた。
「それで、だ。予定通り、連中は集まっているか?」
「もちろんです。あと10分はやく、おふたりが到着すると踏んでいたと言ったでしょう」
かちゃりと眼鏡を押し上げて、ユアンが答える。そして彼は舞台の奥を指し示した。
「ご案内しましょう。『天使と怪人』の関係者たちが、あなた方をお待ちです」
舞台裏を通り抜け、ユアンはふたりを広いテーブルが置かれた場所へと連れていった。足元にあるロープなどに気を付けながらシェイラたちが近づいていくと、席についた数名のうち、恰幅のいい紳士が立ち上がった。
「これは、これは。ラウル・オズボーン様。お待ちしておりました。本日は、私共の劇場のため、お手間を取らせまして申し訳ございません。ささ、どうぞこちらにおかけください」
「余計な気を遣うな。今日は客としてではなく、憲兵隊として来ているんだからな」
言いながらラウルは男の手から椅子を奪うと、自分ではなくシェイラをそこに座らせる。そして自身とユアンはシェイラの後ろに立ち、ぐるりと集まった面々を見渡した。
「諸君」と、よく通る声で彼はみなに呼びかけた。
「彼女は我々の協力者、シェイラ・クラークだ。『勘』持ちとして、ゴースト探しに協力してもらっている。諸君は、ゴーストについて知りうる情報をすべて、彼女に教えてくれ」
様々なひとの目が、一斉にシェイラに注がれる。ごくりと唾を飲み込んで緊張を逃がしつつ、シェイラも負けじと「よろしくお願いします」と頭を下げる。
続けてユアンが、席に集まった人々を順に紹介してくれた。
シェイラのすぐ隣に座るのは最初に話しかけてきた恰幅のいい男で、劇場の総支配人ブランという。隣には『天使と怪人』の舞台監督のデヴィット、裏方スタッフのまとめ役の青年アランが続く。
「その隣は……説明は不要と存じますが、『天使と怪人』主演のミス・アイリーンと、新鋭のヒロインに扮するミス・エイミー。そして怪人役のグウェン・ジェラルド氏です。最後は演出家のガストン・ウェイブ氏。ご存知の通り、この国の巨匠のおひとりです」
ユアンの説明に合わせて、彼らが順に「どうも……」「よろしく」と短く答える。すべての人物の説明が終わると、以外なことに演出家のガストンが最初に口を開いた。
「お嬢さん、ひとつだけよろしいかね」
頭はすっかり白くなった年配の紳士だが、目だけは少年のように澄んできらきらと輝いており、絵本で見た魔法使いを思い起こさせる。「もちろんです」とシェイラが頷くと、ウェイブは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。私が聞きたいのは、あなたは彼が――『怪人』が、悪いゴーストと思うかね」
その問いかけに、王立劇場の歌姫アイリーンは表情を険しく、期待の新人エイミーは目を逸らして机の上に重ねた手をぎゅっと握りしめた。
そんな中、シェイラは先ほど座席でラウルと話していたときに気づいた違和感を何度も反芻し、彼女なりの答えへとたどり着く。そして、ウェイブに向かってはっきり首を振った。
「思いません。照明の落下にゴーストが関連しているかはまだわかりませんし、仮に彼が照明を落としたのだとしても、何か理由があってのことだと思います」
ウェイブとアイリーン以外のひとびとの間に、明らかに動揺が走った。劇場関係者たちが目配せしあったり、ひそひそと隣同士で話したりするのを前に、ラウルもシェイラの耳に顔を寄せてこっそりと囁いた。
「たしかなんだろうな。タイミングが悪ければ、ひと一人死んでいたかもしれないんだぞ」
「はい。自信はあります」
きっぱりとラウルに答えてから、シェイラは「聞いてください!」と劇場関係者たちに向けて身を乗り出した。
「私はゴーストの姿をはっきり見ました。まるで『天使と怪人』の怪人そのものでしたが、悪意や攻撃性はありませんでした。彼がなぜ姿を現したのかはまだわかりませんが、これだけは断言できます。あのゴーストは悪霊の類じゃない。そのような禍々しいものでは、決してありません」
しん、と気まずい沈黙が流れる。それを破ったのは、ふふっと息を吐きだすようにして笑い声をあげたウェイブだった。彼はどことなく嬉しそうに、「そうですか、そうですか」と何度も頷いた。
「ああ、いえ、すみません。古い友人があらぬ疑いをかけられては困ると、老いぼれなりに気を揉んでいたのです。けれども、お嬢さんは公正な方のようだ。安心しましたよ。あなたがいてくれるなら、いずれ真実が明らかとなりましょう」
「古い、友人。ですか?」
訝しんで、シェイラは後ろに立つラウルとユアンをちらりと見上げる。だがふたりも、ウェイブの言う『友人』の話は初めてであるらしかった。
奥の通路から、湿気の混じるひんやりとした風が流れてくる。それがこの場に集まったひとびとの頬を順番に撫でていくなか、ウェイブは秘密の打ち明け話をするように悪戯っぽく人差し指を口元に立てた。
「実はね、お嬢さん。この劇場には、本物の『怪人』がおるのです。それはそれはもうずっと前、私が演出家になるために王都に出てきた、それよりも遥か昔から彼はこの王立劇場に住み着いておるのですよ」
そう言って、ウェイブは舞台『天使と怪人』の生まれた経緯について語り始めた。