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ホールに到着したシェイラの目に飛び込んできたのは、見事に描かれた天井絵や豪華絢爛なシャンデリアをはじめとするさまざまな装飾たちだった。それだけなら王立劇場として普通なのだが、異様なのは舞台の上にいるのが演者ではなく憲兵隊だということだ。
ラウルの部下と思しき彼らは、床を調べたり、天井を指差したりしている。おそらく、昨夜混乱のさなかに落下した照明について調べているのだろう。
まるで事件現場のようだと思ってから、あれはまさしく事件と呼べるものだったとシェイラは考えを改めた。
ポルターガイスト現象。誰もいない舞台に落ちた照明をみたとき、真っ先に頭に浮かんだのはそれだった。
ポルターガイストというのは、ゴーストが引き起こす厄介事のひとつだ。シェイラは実際にお目にかかったことはないが、誰も触れていないのに皿が飛び交ったり、ガタガタと家財が音を立てたりと、視覚的にも聴覚的にも『うるさい』現象らしい。
今回のケースがそれにあたるかは判断が難しい。けれども、ゴーストの出現と舞台照明の落下。それらがタイミングよく同時に起こっておいて、単なる偶然とはとても思えない。新聞でもそのあたりが話題となっていたし、憲兵隊が動いたのもこの先同じような現象が起きることを危惧してのことだろう。
とはいえ、だ。
ホールの入り口に立つシェイラは、ちらりと隣のラウルを窺う。彼が関心を向けているのは、どうやら自分の部下たちの働きぶりのほうらしい。あちこちに散らばった憲兵隊の面々を順番に目で追いかけて、作業が進んでいるか確認している。
大丈夫。いまの彼は鬼神モードではない。それで彼女はラウルに問いかけた。
「憲兵隊はゴーストを見つけてどうするつもりなんですか? ゴーストは人間と違って捕まえられませんよ? 何か勝算があるんですか?」
ずっと思っていた疑問を、シェイラはついに口にする。するとラウルは、なぜか苦虫を噛み潰したように口をへの字にした。
「……実は、そのあたりも相談したかったんだが」
ややあってから、こめかみに手をやりながらラウルは答えた。
「さすがの鬼神隊もゴーストは専門外でな。とっ捕まえることが無理でも、ほかの手があるなら打ちたい。ゴーストの祓い屋とかいるだろ? あの辺の連中は、実際のところ信用できるのか?」
「ええ……」
それは、その、いくらなんでも見切り発車ではなかろうか。思わず半眼になってしまったシェイラの本心が透けたのだろう。ラウルはバツが悪そうに眉をひそめた。
「仕方がないだろ。人間相手ならいくらでも『鬼』になるが、ゴースト相手じゃそれもできない。大体、俺たちだけで勝算が見込めるなら、一般人の君を巻き込みはしないぞ」
それはまあ、そのとおりだ。
家に迎えにきたときは「まさか断らないよな? な?」と言わんばかりの圧を感じたものだが、鬼神隊も専門外の捜査、おまけに「専門家」のゴースト祓いには確かな伝手もなく、藁にもすがる思いでクラーク家の門を叩いたのかもしれない。
逆をいえば、なぜラウルがシェイラ――霊感令嬢だけは信頼しようと考えたのかはわからない。けれども、そんなに憲兵隊が困っているならば一肌脱ぐのもやぶさかではない。
色々と思うことがないわけでもないが、ここはひとつ助けてやるか。
そのように、シェイラは改めて気を引き締めなおした。
「ゴーストを消す方法はありますし、私も何度かやったことがあります」
「本当か!」
「けど、私も祓うほうは専門じゃありません。プロのひとたちとは違う」
喜び一転、不思議そうな顔をするラウルに、シェイラは説明してやる。
ゴースト祓いになれるのは『勘』持ちだけだが、かといって『勘』が強い=良いゴースト祓いというのは過ちだ。似非も多いが、ちゃんとしたゴースト祓いはそれぞれの流派にのっとってきちんと修行を積んでいる。そこに『勘』の強弱は関係なく、『勘』が弱かろうが修行と経験を積むことで良いゴースト祓いになることができる。
シェイラの場合は、遠い親戚にひとりゴースト祓いがいて、そのひとのやり方を見様見真似でやっている。といっても、シェイラが出来るのはゴースト祓いの初歩の初歩、「彼らを満足させてやること」ぐらい。それが通用するのは、昨夜の子犬のゴーストのような至って善良なゴーストだけだ。
「幸い、私は『勘』だけは強いですから、昨日のアレがどんなゴーストかを調べることができます。そのうえで私が対処できなそうなタイプのゴーストなら、ちゃんとしたプロを紹介します」
「それは助かる」
ほっと表情を緩めて、ラウルは声を弾ませた。
「シェイラ・クラーク、やはり君を頼ったのは正解だったな。ありがとう」
「っ‼」
にっとラウル・オズボーンに笑いかけられて、シェイラは息を呑んだ。それから、ラウルが訝しんで首を傾けるくらいに、その場で硬直した。
思いのほか笑顔が無邪気で好みだったとか、話すのに夢中でそういえば距離が近かったとか色々と要因はあるが――何より、『勘』のことで、家族以外の誰かに感謝されたことが、いままであっただろうか。
ひとより相当強い『勘』持ちであることは自分の個性だと割り切っているし、よくも知らずに噂だけを信じるひとたちのことは「怖がりさんめ」と鼻で笑って線を引いてきた。
けれどその逆は――誰かに認められて感謝されるということが、こんなにも嬉しくて、どきどきと胸が高鳴ることだなんて。
「……おい。おい、どうした? 体調でも悪くなったか?」
「ひゃっ‼」
「なっ!?」
顔を真っ赤にしたまま固まってしまったシェイラを案じて、ラウルがシェイラの両肩に手を置いて顔を覗き込む。我に返ったシェイラは思わず飛び上がり、対するラウルもびくりと手を離した。
「なんだ? やはり体調が悪いなら、少し休むぞ? いや、家に送ろう。協力者の君に無理をさせることはできない」
「あ、や、いえ、そうじゃなくてっ」
「じゃあ、どうした。悪いが女心を察するのは得意じゃないんだ。はっきりしろ」
とても社交界の人気者の言うこととは思えない暴言を吐いて、ラウルが呆れたように腕を組む。
だがシェイラも困った。礼を言われたことに感激していたなんて恥ずかしくて言えないし、といってせっかく『勘』が役に立とうとしているのに家に帰されるなんて絶対に嫌だ。
迷った挙句、シェイラは第三の選択肢を――すなわち、濁して逃げることにした。
「とにかく! 捜査! 捜査しましょ! 時間、無駄にしたくないんでしたよね!」
「……まあ、そうだな」
先ほどまでと正反対に、ずんずんと先を急ぐシェイラのあとを、なんだか釈然としない顔でラウルが追いかける。とりあえずは、誤魔化すのに成功したようだ。
そうして、ふたりはシェイラが昨晩座っていた席へ向かう。俄然やる気に満ち溢れているシェイラは、ぴしりとその席を指さし、きらきらする目でラウルを見上げた。
「ここ、座ってもいいですか? 昨日と同じ状況のほうが、思い出せることが多いかもしれませんし」
「それはもちろん、かまわないが」
答えを聞くや否や、すばやくシェイラは席に腰掛ける。なにせ張り切っているのだ。そして、真剣に昨夜のゴーストが出たあたりを見つめる彼女を、しばらくラウルは目を丸くして見ていた。それからふと、吹きだした。
「えっと? なんですか?」
「いや。ありがたいことだと思ってな」
首を傾げたシェイラを、悪戯っぽく唇を吊り上げてラウルが見下ろす。それから、何を考えたか彼もシェイラの隣にどかりと腰を下ろした。――尚、ボックス席にしか座ったことがないだろうラウルは、腰掛けて早々「こっちの椅子は少し硬いんだな……」と呟いた。
「ゴーストが現れたのはあの辺り、ちょうどホールの真ん中辺りでした。同じ列に座っていた女性の頭の上に、立ち姿で浮いていたんです」
シェイラの指さした方角を見て、ラウルも頷いた。
「やはりな。上から騒ぎをみていたが、君の言う辺りを見ている者が多かった。君の目に奴はどう映った? あの新聞のイラストのような姿をしていたか?」
「違います。もっとちゃんとした人間、まさしく怪人そのものに見えました」
ラウルが目を瞠る。それに応えて、シェイラは昨夜のゴースト――『天使と怪人』のポスターから抜け出してきたかのような謎の男について、覚えている限りの詳細を伝えた。
背の高い男性であったこと。三日月みたいな切れ込みの入った白い仮面をつけていていたこと。タキシードに身を包み、その上に長いマントを羽織っていたこと。
それらを聞いたラウルは、納得したように頷いた。
「なるほど、まさしく『怪人』というわけか……。ちなみにだが、奴の様子はどんな風だった? たとえば、ものすごく何かに怒っているとか、恨みつらみたっぷりなまさに悪霊めいた雰囲気だったとかは」
「いえ、そういう嫌な感じはなかったです」
「しかし、ゴーストだろ? 服が擦り切れてボロボロだとか、墓から蘇ったやばい身体しているとか、血みどろだとか、あとは……」
「ないないない‼」
手を勢いよく振って、シェイラはそれらを全力で否定。そして、ぴしりと人差し指を立て、「いいですか?」とラウルに詰め寄った。
「そういう見た目がアレなゴーストもたまにはいますけど、全部それっていうのは偏見です。とにかく、今回はそういうタイプのゴーストじゃありません」
「ないのか……」
拍子抜けしたように、ラウルが息をつく。そのほっとした表情に違和感を覚えつつも、シェイラはやれやれと肩を竦めた。
まったく、普通のひとには見えないから仕方がないとはいえ、世に広まったゴーストたちの誤った認識には驚かされる。大抵が小説などの創作物が原因なのだが、あんな登場しただけでクライマックス感あふれるゴーストは滅多にいない。
そうした誤解を解こうと、頑張った時期がシェイラにもあった。怯えるひとを捕まえては、昨夜のような可愛らしい迷子の動物だったり、生きている家族を見守る優しいゴーストだったり、そういうものがほとんどだと一生懸命説明した。残念ながら、相手の認識を変えることに成功したことはなかったが。
とにかく今回の怪人ゴーストだって、見た目はおろか雰囲気すらも悪霊めいたものは一切感じなかった。念押しに、もう一度そのように主張しようとしたところで、ハタとシェイラは気づいた。
なぜ、あのゴーストからは嫌な感じを受けなかったのか。
舞台照明を落としたのがあのゴーストであるなら、嫌な感じがするほうが自然なのだ。そうでないと、悪霊でもなんでもない普通のゴーストが、ポルターガイストを引き起こしたことになってしまう。
シェイラはしばしの間、考え込む。
悪霊の類か、そうでないか。悪霊でないとしたら、なぜ彼は照明を落下させたのか。どちらにせよ、もう少し詳しく調べてみないことには始まらない。そのように意気込みを固めるシェイラに、ラウルがさらなる謎を提示した。
「ところで、だ。このあと、君には『天使と怪人』の関係者から話を聞いてもらう。その前に君の意見を聞いておきたいのだが……。昨夜の照明落下がゴーストの仕業と考えた場合、そのゴーストは手紙を記すことも可能だと思うか?」
「いま、なんて言いました?」
突如与えられた新情報に、一瞬、己の耳を疑ってシェイラは思わず素で問い返す。それを一向に気にする様子もなく、ラウルは真面目な顔をして先を続けた。
「昨夜の舞台の前に、脅迫状が届いているんだ。受取人はエイミー・ダーエ。君も知っての通り、『天使と怪人』で大役に抜擢された王立劇場の新人女優だ」
「まさかその差出人が?」
わざわざ聞かずとも答えはわかりきっているが、それでもシェイラは口にせずにはいられない。ラウルもまた、彼女がすべてを察したうえで尋ねていることをわかって、大きく頷いてからはっきりと答えた。
「そうだ。『王立劇場の怪人より、愛を込めて』。脅迫状の最後には、そう記されている」