前編
その日は、雲ひとつない鮮やかな青空の広がる朝だった。それはまるで、新しい門出を祝福するかのようで、クラーク家の前で顔を合わせた新郎新婦二人の心も自然と浮き足だったものとなった。
「行くか」
くいと背後の車を顎でしゃくってラウルが悠然と微笑む。若干の緊張を滲ませるシェイラも、はにかんで頷いた。
「今日は一日、よろしくお願いします」
まるで御伽話に出てくる王子のように、ラウルはシェイラの手を引き、車の中へと誘う。エンジンをふかした車は、緩やかに教会に向けて走り始める。
そう。今日は待ちに待った、ふたりの結婚式である!
「いやあ。憲兵隊のヒーロー、ラウル・オズボーン様と、話題のお手柄霊感令嬢シェイラ・クラーク様。そのお二人の記念すべき日を私どもの教会で迎えていただけ、恐悦至極でございます」
シェイラたちを出迎えてくれたのは、教会の神父である。式典が始まるには随分時間がある。ドレスアップに入る前に、簡単に本日の式次第の確認を行いながら、教会を案内してくれていた。
「ご存知の通り、我が教会は愛の天使クルピドを信奉しており、古来より『愛』に纏わる逸話をたくさん抱える、いわば愛の聖地でございます。そのため、これまでも数多の愛し合うお二方の門出に立ち会ってきました」
「ああ。俺の両親、それに彼女の両親も、この教会で式を挙げたと聞いている」
「はい! オズボーンご夫妻に、クラークご夫妻でございますね。もちろん存じ上げています」
にこにこと神父が語るのを聞きながら、シェイラはぐるりと教会の中を見渡す。高い天井に、日の光が差し込む鮮やかなステンドグラス。歴史を感じさせながら、ちっとも古臭さがない。それでいて、たしかに温かな『何か』が満ちている気配がする。
「いかがです? ゴーストと天使とでは異なるとは思いますが……、奥様はやはり、何かピピっとくるところがありますか?」
好奇心を抑えきれない瞳で、神父がシェイラを覗き込む。少し考えてからシェイラは頷いて、笑みを浮かべて答えた。
「そうですね。仰るとおり、ゴーストの気配とはかなり異なりますので詳しくはわかりませんが、優しく幸せな気を感じます。幸せオーラ、とでも言えばいいでしょうか」
「そうですか、そうですか! いやあ、嬉しいですね」
言葉の通りほくほくと表情を緩ませて、神父は何度も頷く。
それから彼は、何かを思い出したように壁の時計を見た。
「おっと。いけません。朝の祈りの時間です。すぐに終わりますので、こちらで少々お待ちいただけますか?」
「問題ない。適当に見させてもらうぞ」
鷹揚に答えるラウルににこやかにほほ笑んで、神父は慌てた足取りで出ていく。お祈りと言うので、ここでやるのかと思ったが違ったらしい。なるほど。宿舎の方で、ほかの聖職者たちと集まって祈りを捧げるのだろうか。
そんな風になんとなく神父を見送っていると、ふいに手を引かれた。
「こっちにおいで、お嫁さん。結婚式の朝にほかの男を目で追うなんて、つれないな」
「きゃっ」
小さく悲鳴を上げた時には、すでにラウルの腕の中。情熱的な赤い瞳が、愉快そうにシェイラを眺めていた。
このまま口付けでも落としかねないラウルを、シェイラはぐいぐいと腕で押す。
「ダメですよ、ラウルさん。ここは教会、神聖な場所なんですから」
「これから永遠の愛を誓う仲だってのに何の問題があるんだ? それに神父も言ってたろ。ここは愛の教会だって。仲がいい分には、神様も大いに賛同してくれるんじゃないか」
「もう、いつもそんなことばかり」
ほんの少し頬を膨らませると、ラウルは微笑みを返す。「仕方がないな」と言いながら、ラウルはシェイラを解放した。
「あと数時間で、やっとお前を俺の嫁にできるんだ。それまで我慢するよ。――それに」
教会の長椅子に軽く寄りかかり、ラウルが足を組む。そうやって目線の高さを合わせると、悪戯っぽくシェイラの顔を覗き込んだ。
「俺もシェイラの花嫁姿が見たい。その前に腰が砕けたら、お嫁さんが可哀そうだ」
花嫁姿。その一言に、シェイラの心も自然と踊った。
シェイラのウェディングドレスは、胸元から腕にかけてレースで覆われた、クラシカルなもの。オズボーン家御用達のオートクチュールで仕立てたものだ。当然シェイラは遠慮したのだが、ラウルと、大いに張り切ったミシェル夫人に押し切られ、オーダーするに至ったのである。
出来上がったそれは、大層美しかった。シェイラの白い肌を覆うレースの花々は繊細で、ふんわりと流れるドレスの裾は、まるでどこかの姫君が身に纏うもののようだ。さすがのシェイラも鏡に映った自分の変わりように胸を弾ませ――心の片隅に眠っていた、『花嫁姿』への憧れを思い出した。
「神父が戻ってきたら、そろそろ着替えに入るか。うちの使用人たちも、到着する頃合いだろうからな」
「そうですね。両親が到着する前に、着付けを終えておきたいですし」
そうシェイラが頷いた時だった。
ふわりと空気が揺れる気配があった。最初に目に入ったのは、幻想のような銀の羽。大きく羽ばたいたそれから、きらりと輝く銀粉が舞った。
同時に、ラウルはものすごい勢いでがたりと立ち上がった。
「いるのか、ゴーストが」
「……いえ。ゴースト、ではないと思うんですけど」
とんでもない緊張感をはらんで、ラウルが鋭く目を走らせる。一瞬で鬼神隊の鬼隊長の顔――もとい、ゴーストに怯える顔つきとなったラウルであるが、シェイラはあいまいに首を傾げる。
ゴーストの予兆として現れるのは青白い蝶。対して目の前にいるのは銀の蝶。何かがいるのは確かだが、いかんせん初めて見る色のため、いるのがゴーストなのか別の何かなのかさっぱりわからない。わからないが、悪いものではない。気が、する。
だが、ゴースト嫌いのラウルは、細かい違いに気を配っている余裕はないらしい。彼はぱっとシェイラの手を取ると、ぎりっと、気配のする方向を睨んで足を踏み出した。
「行こう、シェイラ。せっかくの式を、ゴーストに邪魔されたらかなわん」
「は、はい!」
ラウルに腕を引かれ、シェイラは慌てて後を追いかける。こういう時のラウルは止めても無駄だ。絶対ゴーストをとっちめて消してやる。そう顔に書いてある。
銀の蝶はふわふわと祭壇へ向かう。それを追って、シェイラたちも祭壇へとまっすぐ向かう。一歩進むごとにますます〝鬼神モード〟を強めていくラウルに、シェイラも首を傾げつつ追従。ついに祭壇へと到着したとき、彼は意を決するように息を吸い込んだ。
「っ! 誰だ!」
だんっ!と。いつぞや王立劇場の大階段に飛び込んできたときのように、勢いよく踏み込んでラウルが叫ぶ。すると祭壇の影に隠れていた『誰か』が、びくんと跳ねた。
その小さな姿に、シェイラは頓狂な声を上げた。
「て、天使!?」
ふわふわの金髪に、赤子のようなふっくらした体。簡単に巻き付けただけの清らかな白い服に、ぴよぴよと可愛らしく揺れる小さな羽。まさしく天使としか呼びようのない何者かが、そこにいた。
「ラウルさん! この子、天使様ですよ! わあ、初めて見た!」
思わずシェイラははしゃいで、ラウルの袖を引く。しかしながら、ラウルは依然として鬼神モードを継続したまま剣呑な声を上げた。
「おい。貴様、こんなところで何をしている」
「あれ? もしかして見えてないんですか? ちゃんと手、繋いでますよね?」
「いいや、見えている。シェイラのおかげでな。だが、だから何だ。天使のフリをしたゴーストかもしれないだろ」
紅い瞳でぎろりと睨み、ラウルが天使に凄む。もしも剣を帯刀していたなら、この場で剣を抜いて突きつけていただろう。そんな、まさしく『鬼』としかいいようのないラウルの圧に、小さな天使はすっかり震えあがってしまっていた。
ぷるぷると震えつつ涙目でこちらを見る天使に、シェイラはラウルの腕を引いた。
「やめてあげましょうよ、かわいそうですよ。ほら。明らかに悪い事する雰囲気ないじゃないですか」
「何を言う! 弱ぶっているだけで、とんでもない悪さをするかもしれないぞ。それに、式の間中こいつの気配に怯えて過ごすのはごめんだ!」
「絶対、後半が一番の理由ですよね!? ていうか、この子が愛の天使様かもしれないじゃないですか! ダメですよ、追っ払っちゃ!」
「そ、それはそうだが、このままでは……っ!」
そんな風に二人が言い争っているとき、ふいに天使が動いた。どこからともなく弓矢を取り出した天使は、ハート型の矢じりをまっすぐにラウルへと向けると、二人が反応する間もなく放った。
「しまっ……!」
ひゅんと風を切った矢は、ラウルとぶつかる。途端、ぽんと弾けてピンク色の煙が二人を包んだ。
「ら、ラウルさん!?」
「大丈夫か!? 手を離すな!」
もくもくとピンク一面の視界のなか、握った手だけが頼りだ。固く手を繋いだまま、こほこほとせき込みながら煙を払う。ようやく視界がクリアになったとき、うっすらと浮かび上がってきた影に、シェイラは嫌な違和感を覚えた。
手を繋いだ先にいるのはラウルのはずだ。けれども、その影は自分より頭一つ分小さい。ようやく煙が晴れて全容が明らかとなったとき、シェイラは目を回してしまいそうなほど驚愕して叫んだ。
「わ、私がもう一人!?」
「なんで俺がいるんだ……?」
目の前にいるもう一人の〝シェイラ〟も、信じられないような顔でこちらをまじまじと見つめている。――というか、その時になって初めて、シェイラは自分の体の違和感に気づいた。
いつもより視線が高い。それに、たった今あげた叫び声も普段よりずっと低い。おまけに、その声はひどく聞き覚えがある。なんなら、ついさっきまで隣で聞いていた――。
「……ラウルさん?」
「……シェイラ、なのか?」
ほぼ同時に、二人はその結論にたどり着く。ラウルの姿をしたシェイラが、シェイラの姿をしたラウルが、震えながら手を取り合う。
「わ、私たち」
「俺たち」
「入れ替わった(のか)!?」
二人分の悲鳴が、教会の高い天井にこだました。
後編に続きます。